白紙の物語
青葉 千歳
1
真っ白なベッドの上で、少女は幽かに息をした。
息を潜めているわけでもなければ、眠っているわけでもない。多分少女は、息をすることを忘れてしまっているのだろう。今の少女にとって、自分が呼吸をしているかどうかなんて、あまり重要ではなかった。そんなことよりも大切なことが、他にあったから。
ベッドの上にただ座り、身動ぎひとつしない少女の姿は宛ら死人のようで、このまま何事もなければ呼吸を止めてしまいそうな、そんな危うさが少女にはあった。だけどそんな少女の中で、唯一瞳にだけは、どこまでも縋りつく様な生の執着が見えた。
やがて、少女の手が僅かに動いた。それに伴い、長く伸びた髪が一斉にふわりと揺れる。紙の擦れる音がして、どこまでも心地いいその音を聞いていたいと思った。それはおそらく、少女も同じだろう。
「またその本を読んでいるんですか?」
途端、少女の呼吸が乱れた。しかしそれは寧ろいいことだった。このまま誰も少女に声をかけなかったら、きっと少女は自分でも気付かぬうちに呼吸を止めていただろう。
息を大きく吸い込んだことで、夢現だった少女の世界は、一気に現実味を帯びていった。全身に血が巡る感覚を感じることで、疑いかかった自分の存在を肯定することができた。そこでようやく、その少女が自分であることに気が付いた。
「おはようございます」
「おはようございます。
「そうなんですか?」
時間を気にしたことなどなかったので、今が何時なのかなんて分からなかった。しかし看護師さんがそう言うのなら、きっと早いのだろう。因みに彼女は
「まあ今はもう八時ですけどね。でもまた起きてからずっと本を読んでいらしたのでしょう?」
「そう、みたいです。よく覚えてませんけど。でもどうして早起きだって・・・」
「今朝廊下から立花さんが本を読んでいるのが見えたんですよ。六時くらいにね」
「あ、なるほど・・・。でもカーテン閉まってたはずじゃ」
「開いてましたよ。朝起きて、自分で開けたんじゃないですか?」
それも、よく覚えていない。記憶に関する器官に障害を持っている以上、それは仕方のないことなのだが、わざわざカーテンを開けることに意味があったとは思えない。空気の入れ替えをしたかったわけでもないだろう。私のベッドは廊下側なのだから。
「はい、じゃあお体お拭きますね」
言いながら、清水さんはタオルをお湯に浸して絞る。私は読んでいた本を閉じて服のボタンをはずした。
「でも毎日同じ本ばっかり読んでたら、飽きてくるんじゃないですか?」
私の持つ「その本」に対し「飽きる」などという表現を使われるだけで、私は怒りの感情を抱いた。しかし、それを表に出すようなことはしなかったので、彼女はそのことに気が付かなかった。私の体を拭きながら、彼女は続ける。
「そこの棚に、自由に読んでいい本が置いてありますから、そっちも読んでみたらどうですか?」
「読みましたよ、もう」
ぶっきらぼうに、私は答える。体を撫でる生温いタオルの感触が、酷く心地よかった。
「あ、そうでしたか。どうでしたか?」
答える代わりに、私は首を横に振る。
「面白くなかったですか?」
「ええ、あまり。もう一度読もうという気にはなりませんでした」
「それは残念です。でも一度でも読んでおけば知識として身に付けておくことができるわけですから、色んな本を読んでみるといいと思いますよ。そうすればきっといつか、面白い本にも出会えると思いますし」
一見最もらしいことを言う彼女だったけれど、私の心には響かなかった。
「清水さんはこんな言葉をご存知ですか?」
「なんですか?」
「『もう一度読もうと思わない本は、一回も読む必要がない』」
「・・・誰か、有名な人の言葉ですか?」
「誰の言葉だったかは覚えていないんですけど、その言葉だけはよく覚えています。いい言葉だと思いませんか」
「そうですねぇ」
「もう一回読もうと思わない本の知識なんて、所詮その程度なんです。どこかで役に立つことなんてない。本当に役に立つと思うなら、もう一回どころか、何十回だって読み直すでしょう?」
「確かにそうかもしれませんね。立花さんの言う通りです」
病を持つ者を相手にする職業柄故か、彼女はあっさり折れて私の意見に同調した。親切で言ったはずのアドバイスを邪険に扱われたというのに、彼女は笑顔を絶やさない。その素直な態度を見ると、こんなことでいちいち腹を立ててしまった自分が情けなく思えた。
「ではやっぱり何度も読んでいるその本の知識は、立花さんにとってとても大切なものなんですね」
「ええ、もちろん」
大切、なんてものじゃない。
今の私にとっては、この本が、自分の全てだった。
この本が、自分の証明だった。
「よかったら私にも読ませていただけませんか?」
「それだけは駄目です」
私は、笑って答える。
「これを読んでいいのは、私だけですから」
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