大きな檻と小さな檻

叩いて渡るほうの石橋

大きな檻と小さな檻

 それはまるで風が吹くかのように、まるで空に月が現れるかのように流れ、僕はそれを聞いた。少し頭を上にやれば見ることのできるテレビに目を向けず手にしたスマートフォンへ首を傾けている。しかしその実二つの目はどこを見ているわけではなかった。


 今年で付き合い初めてから五年になる。高校二年生の春、新たなクラスメートの名前をぼんやり眺めていたとき。目が止まった名前。なつかしさが匂ってくるようなその四文字。高橋穂紡という名前は僕の幼馴染みのものだ。昔は家族ぐるみで付き合いがあったが別々の中学校に通ううちに少しずつ疎遠になっていた。同じ高校に通っているなどと全く知らなかった僕は、もっと早くに知りたかったと思いつつも胸は鍵盤を弾くようでもいた。


 香しいメロディの響き渡る中で思い出す。近くにいることが当たり前だった彼女が遠くなってしまったときの僕の感情。そして高橋穂紡に望むこれからの関係性。その正体はいわゆる恋心だった。多少会っていないとはいえ話しかけることはさして難しくなかったが、大事な話を切り出すこと、これは言わば壁そのものであった。もしもその後不仲になってしまったら関係を改善するだけの力を僕は持ち合わせていなかった。僕は高橋穂紡に友人として接して欲しいのか、特別な人になってもらいたいのか。ただ一つを考え、幾日も費やした。やっとの思いで腹を決め、そして結果付き合うこととなったのだ。大学も中学校同様にばらばらであるうえ僕は東京、彼女は京都の大学へ進んだので遠距離になってしまったが特別な関係は続いている。


 いや、正確には続いて「いた」だ。


 僕は彼女のことが好きだ。彼女も僕に対して好意的に接してくれていたように思う。


 高橋穂紡。僕の彼女は、死んだ。殺された。


 最初にニュース番組で聞こえてきた事件の内容、被害者の名前、全てが嘘なのではないかとすら思った。むしろ嘘であってくれと願った。そして嘘ではなかった。あまりにも突然の出来事は僕の頭を完全に止めたが、それは音楽が聴いて楽しむものであるように、本は読んで楽しむものであるように、スポーツは体を動かすものであるようにも思えた。またそれを眼前に突き付けられているようだった。


 犯人と思しい人物は彼女と同じく京都に住む三十代半ばの会社員。連日、メディアは事件の残虐性や犯人逮捕を望む市民の願いを報じた。僕はさして事件の情報を求めていたわけではないけれど、嫌でも目と耳に入った。そのうちの一つ、小さな記事には犯人の心情が推測されていた。


 「容疑者の男性は会社での人間関係に悩まされていた。ほとんど接点があるはずのない被害者女性を夜道で襲い殺害したのはそのストレスからではないか。」


という内容のそれは最後を、何にせよ身勝手な理由で人を殺したとしたら到底許されることではない、と締め括っていた。ともかく犯人が逮捕されないことには真相も見えて来ないかもしれない。


 さて、その犯人であるが捕まることは決してない。


 僕が殺したからだ。


 人間という生物は日常やらないことも信念のもとには出来るようで、ありとあらゆる手段を駆使し犯人の居場所を探った。本当に大変なことではあったが警察に犯人を逮捕されてはならなかったし、信念はそれほどまでに頑強であった。まだ短い人生だけれど、僕が一番愛している人を殺したそれを、この手で殺す。仮に犯人が死刑になっても僕は強く打ち付ける波を抑えることはできなかっただろう。孤島で一人生きる孤独感はどうしようもない、それならばせめて波を静め沖へ出る支度をしても良いではないか。


 気がつくと僕は京都にいて既に一人を殺していた。死の直前、彼は恐怖からかひどく顔を歪めていたのを覚えている。高橋穂紡も(これは僕の想像ではあるけれど)同じような顔をしたのではないか。僕にも、もしかしたら彼女の親にも見せたことのない表情を奴に向けたのではなかろうか。そう思うと死体を前にしてなお腹立たしく、僕は奴の顔面を細かに切り刻んだ。


 警察から追われる立場となったが逃げるつもりは毛頭ない。僕は目的を果たし、活力を得た。どれだけ周囲が僕のために何かしようと生きる気力が全く湧かなかった僕。犯罪者というレッテルを背負いながらもこれからの人生を歩くつもりの僕。


 そうだ、僕は犯罪者だ。しかしそれが何だと言うのだろう。僕はこうすることで生きる道を再び見出だした。僕は自らのために自ら行動した、生きるために当然のことだ。奴も同じなのだろう。極悪非道と言わしめた奴でさえ何者かに銃口を向けられていた。道を後退せざるを得ない両足が死へと歩みを進めるなか、それに抵抗した。互いに今を生きる動物として正しい行動だったのだ。


 もしそれが「人間」という種族のつくったルールから逸脱していたとしても。

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大きな檻と小さな檻 叩いて渡るほうの石橋 @ishibashi

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