シュレディンガーのネコ
アーキトレーブ
桜の樹の下で
桜のつぼみは少しずつ大きくなっていく。
病院の中庭に温もりを含んだ風が吹いた。ベンチには一人の少女が座っている。手には読みかけの本。彼女の瞳は黒く大きい。本を開いているがその瞳孔には空が写っている。そして、声は別の方向を向けて発せられた。
「ネコの声が聞えるなんて、私には魔女の血が流れてるのかしら」
少女の声はか細かった。春一番に掻き消されてしまいそうだ。
「そんなこと知らない。君は頭がおかしくなったんじゃないかい」
「ネコ本人が言わないでよ。あ、人じゃないのか」
ベンチの後、茂みの中に黒いネコがうずくまっていた。凜々しい顔つきの雄猫。漆黒の尻尾をゆらゆらと揺らして、大きな欠伸をする。
一呼吸置いて、彼は喋り出した。
「若くして病にかかり、この小さな建物から一歩も出ることもできない。見舞いに来る親族から逃げるようにここに来た。捻くれた君のような存在が生み出した妄想かもしれない」
可愛げの無いネコだった。
「面倒くさい幻覚。本当だ。そう言われると信憑性が増してきた」
「意外に素直なアンナ君に朗報だ。私の血を飲めば永遠の命が手に入る」
「どうして私の名前を知ってるの? 嘘言わないで」
「その理由を私は知らない。ああ、確かに嘘だ」
「……私、新しい三味線が欲しかったのよね」
「君は三味線を作れないだろう。私を材料にしたら、さぞ立派な楽器ができると思うがね」
冗談はここまでにしてと呟いて、黒猫はアンナに自己紹介を始めた。長々と喋る彼が言っている内容は薄かった。
黒猫、年齢不詳。住所な不定。名前はない。もちろん無職。何故か人間の言葉が話せる。ただの野良猫にしては、言葉遣いが妙に癖があるとアンナは思った。
やることも特にないので、アンナはそのネコとの会話を渋々と続けた。
彼女は決して積極的にこのネコと交流したかったわけではない。このネコのせいで、ひなたぼっこを中断するのが癪だっただけだった。
「輪廻転生という概念を知っているかい」
「知らない」
「そんな本を読んでいるなら、知っているだろう。命は巡るというものなのだ」
「だから?」
「私が喋ることができる理由ではないかと思ってね」
「前世が人間だったていう話? それと聞きたいことがあるんだけど。私の名前だけじゃないでしょ。どうして他のことも知ってるの?」
「知らない。何故か君のことだけ知っていたのだ。だからここにいるのかもしれない」
「安っぽいドラマの台詞みたい。私、そろそろ死ぬからそのお迎えってことなのかな」
「死にかけた自分の幻覚だと?」
「そう。私が実はとっても寂しくて、気が狂いそうで、自らを安心させるために無意識に創り出した幻覚」
「私の存在もそれで理由が付けられるなら、それでいい」
手持ちの小説に目を戻す。アンナはネコに興味を失って、物語の続きを読み始めた。
******
葉桜になって、青々とした緑が垣間見えるようになった。
花びらはチラチラと落ちて、アンナの肩の上に着地した。
「自分が何だが答えを見つけたの?」
「私は幻覚だと君が言ったじゃないか」
「そんな人任せな」
「猫は気まぐれなんだ。君が思考することで私の立ち位置は変わる。もしかしたら君に昔恋していた男の子が転生して、励ますために君の元へ訪れたのかもしれない」
「私にそんな人はいない。検討がつかない」
「数千年後から来た未来人が、世界線の特異点である君を監視するために送り込んだエージェントかもしれない」
「私、SFはそんなに好きじゃない」
「私の存在理由は君次第なんだ。言っただろう。君が考えることで私の立ち位置は変わる。猫まかせにしないでおくれ」
「貴方の存在理由でしょうに」
二週間前よりだいぶ痩せたアンナはため息をついた。
******
桜が散って、病院の窓から見える彩りは少なくなった。
真っ白な病室のベッドにはアンナ一人。頬骨がくっきりと出て、息もままならない。
彼女一人だけ。周りには誰もいない。動くこともできなくなったアンナは、窓の外を見つめるしかなかった。
空いたままのドアから、黒猫は堂々と入ってきた。寝たきりのアンナは首だけを動かして彼を見る。
「病室に入ってくるなんて追い出されるよ」
「私に構わなくて結構だ」
「なんだかつまんない風景になっちゃった」
「元気がないじゃないか。張り合いがない」
「貴方が私のことを心配するんだ。ハッキリ言って気持ち悪い」
「訂正しよう。元気はあるようだ」
「……もうどうしようもないんだ」
「……」
アンナは小さな声で喋り出した。
いつも恥ずかしくなって考え込んでしまうのに、今日の彼女は不思議と弱音を吐くことができた。
「本当にどうしようもないんだ」
もうこの場からいなくなってしまう。弱々しい叫びだった
呼吸で得られる酸素が薄くなって、動悸が激しくなって、地に着いてない自転車のタイヤみたいにエネルギーは空回り。そんな身体を恨めしそうに見つめる。
「ここまで来てはじめてわかることがあるんだよ」
まるで道端の地蔵を相手にするように彼女は話す。
ベットの脇には黒猫がちょこんと座っていた。
「ねえ、このまま側にいて。ただいるだけでいいの」
ふつふつと湧いた激情は、動脈を通じて体中を駆け巡る。
ありふれた日常の終わり。他愛のない私情は途切れ、彼女に言葉にできない震えがやってきた。
猫はそのベッドの脇にうずくまることしかできなかった。
「最後に、素直な私が考えていることを教えてあげようか」
黒猫は口を開けて返事をしようとするけれど、アンナの大きな瞳を見て動けなくなってしまった。
「本音を言うともう少し生きたかったの。神様」
ついにようやく言えた。彼女は今更過ぎたのかもと不安げに彼を見つめた。
黒猫が少しだけ笑ったように、髭がぴくりと動いた。
******
桜はまだ咲いていなかった。咲きかけの蕾みがぶら下がっている。
アンナの腕からは点滴の管は消え、陽気な春の風が頬を撫でた。
「ハロー。捻くれた少女よ。ただ自我が認識すればその通りになる。それだけだよ」
偉そうな黒猫は桜の樹の下で寝転んでいた。また大きな欠伸をする。
どこにでもある物がどこにでもない物になる瞬間だった。
体系的な仕組みではなくて、世界は流れるようにできていた。神様なんてどこにでもいて、どこにでもいないのかもしれない。
自分自身が神である可能性だってあるのかもと、アンナはちょっとだけ考えてみたけれど、ばかばかしくてやめた。
「君は何を望む」
「貴方って本当は誰なのかしらね」
「それは君が決めることだ」
「うーん」
持っている小説をパタリと閉じて、猫の方を向いた。
「もしかしたらベンチの上での思考実験かもしれないね」
アンナはハッキリした声で答える。その声はもう風で遮られることもない。
視線の先には、もう猫はいなかった。
彼女は、少しだけ前向きに、二回目の最後の春を過ごしてみた。
シュレディンガーのネコ アーキトレーブ @architrave
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