破れズボン、現る

第1話 A子の迷い

 通勤電車に揺られながら、二十九才のA子は迷っていた。恋人に自分の病気のことを告白すべきか、否か。

 告白すればやはり、嫌われるだろうか。

 だけど、彼に秘密にしておくのは、悪い気がしてならない。悪い知らせほど早いほうが良いと、A子の父親もよく言っていた。


 よし、この週末こそは、彼に伝えよう。


 ああ、だけどやっぱり勇気が出ない。


 三十才までに結婚するという淡い夢は無惨に打ち砕かれるかもしれない。大学時代の親友二人は、揃いも揃って二十八才で結婚した。一人は既に一児の母、もう一人は現在妊娠六ヶ月らしい。ホントにおめでたい。私たちは、三十までに結婚して、子供たちを一緒に遊ばせようねー、なんてはしゃいでた自分が、他人のように思える。そしてそのくせ、自分の吐いた言葉が、影みたいになって自分にのしかかってくる。

 しかし何なのだろう、この三十才という圧は。


 三十過ぎたら楽よ、なんて言う会社の先輩の言葉が、今のA子には信じがたい。負け犬の遠吠え、もしくは無責任な慰めにしか聞こえない。

 

 電車の扉が開いて、A子はホームに降りた。


 通勤。

 それは、無意識に近い移動行為。

 色に例えるなら、モノクロ。

 同じ車両、同じ扉、同じ乗客の顔ぶれ。

 同じ駅の、同じエスカレーター。


 だけど、何でもない通勤の風景が、突然色彩を帯びることがある。例えば、車内でケンカが始まったり、知り合いに出くわしたり、ついているときなら、ものすごいイケメンを見つけたり。


 この日のA子にも、ちょっとした色が差した。


 A子がエスカレーターに乗ったとき、目の前に、ぴっちぴちのズボンのお尻が現れたのだ。

 生地のツヤの感じからして、結構高そうなスーツだな、とA子は思った。何より重要なのは、そのお尻の縫い目が、左右にぱつぱつに引っ張られて、今にも破れそうだということ。


 ぐふっ、朝から面白いもの見ちゃった。


 次に何かの衝撃を受けたら、直ちに破れてしまいそうな、お尻の縫い目。


 何でこのサラリーマンは、お尻のポケットにパンパンに財布を詰め込んでるんだろう。縫い目が破れそうだってこと、知らないのかな?

 A子は、ズボンの生地をぎりぎりつないでいる糸を見ながら、心を決めた。


 うん、このお尻の縫い目が破れたら、恋人に告げよう。


 自分は痔なのだと。


 考えてみれば、人生なんて、笑い話のようなものなのかもしれない。ふたをあけてみれば、一笑に付されるような些細なことで、くよくよと悩んでいる、そんなゴマ粒のような人間が、この世の中に、ゴマんとといるのだ。


 はいそうですとも、私は痔ですよ。

 なにか問題でも?

 笑いたい方は遠慮なくどうぞ。

 去りたい方は静かにどうぞ。


 A子は足取り軽く、オフィス街で毎朝のように繰り広げられる競歩レースに参戦していった。


 お尻の縫い目が破れたら、その履き主は破れたズボンをはいて電車に乗るだろうか。しかしそれは、もはや重要なことではないのかもしれない。


 その証拠に、その破れそうな縫い目は既に、A子の人生を少しだけ後押しするものになろうとしていた。

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