第74話 ナツコの特別補習⑤
夕食を終え、皆がシャワーの列に並びに行く中、リルは1人衛生部へと赴いた。肩の状態は概ね予想通りで赤黒く変色し、明らかに内出血を起こしていた。
直ぐに冷やさなかったのもあり、放っておくと長引きそうなので薬を受領しようという算段である。
しかし窓口業務をしていた下士官に薬を要求したところ見事にはねられた。
若干その場で粘ってみたものの許可が無ければ配給できないの一点張りで、かといって原因が自分の負けず嫌いにあったものだから申請を出しづらく、諦めて帰ろうとした時、背後から手が伸びて、士官用端末が衛生部下士官へと示された。
「ツバキ小隊隊長のニシです。薬品の受領に来ました。許可はこちらで、よろしいですか?」
下士官は直ぐそれをあらためて、ニシ中佐の電子印が押されているのを確かめると敬礼で返し、作業者へと指示を飛ばす。
「リルさんは何が必要ですか? 湿布と内出血の塗り薬は直ぐ手配されますが、他にあれば今のうちにどうぞ。今なら申請は即座に受理されます」
「あのお兄さんもこんな妹を持つと大変ね」
「かも知れませんね。でもあの人はこういうの喜んでいる所もあるので。それで、どうします?」
リルはそうあることが当然のように兄の持つ権限を使いまくるタマキに辟易しながらも、再度確認をとられると「痛み止めだけ」と要求した。
申請が通った医薬品は直ぐに引き渡され、受け取ったタマキは移動をはじめる。リルも、仕方なくその横について歩いた。
「どうして分かったの?」
「ナツコさんから申請がありました。肩が痛いので湿布が欲しいと。簡単に診たら内出血を起こしていそうだったので直ぐに申請を通して貰いました。
それと、ナツコさんがリルさんも同じ怪我をしている可能性があると言っていました。本人からの申請を待ったのですが、なかなか言ってこなかったので多めに申請して通したという訳です」
タマキは歩きながら受け取った医薬品を仕分けして、1人分を手にとって差し出す。
リルはそれを受け取って、小さく感謝の言葉を述べた。
「生身で訓練するのは構いませんが、怪我をしないように注意を払って下さい。特に対物狙撃銃は反動が強いですから必要に応じて緩衝材を使うなど――なんて、あなたには説教するまでもないでしょうけど」
「仰る通りよ。次から気を付ける」
それで話は終わりでしょ、と距離をとろうとするリルをタマキは呼び止めた。
「ちょっと待って。念のため、今日の訓練について報告をお願いします」
「それは命令?」
「当然です」
「命令には従うわ。本当はシャワー並びたかったけど」
「長引いた場合は時間外にシャワー室を使えるよう申請を出しますから気にせずどうぞ」
それは良いことを聞いたとリルは口元をほんの少し緩ませる。
時間外使用となればほぼ貸し切りだし、後ろに急かされることも無い。長時間の狙撃訓練で火薬の臭いと砂まみれになったリルにとっては願っても無い話だ。
「それで、何が聞きたいの? やったのは申請通り長距離狙撃の訓練よ」
「はい。内容についてですが、ナツコさんの狙撃の腕はどうでした?」
いきなり答えたくない質問をぶつけられて、リルは言葉に詰まる。
しかし部隊長であるタマキには説明しておかなければならないだろう。
「――はっきり言うけど、あの子、あたしから教えるようなことは何も無かった」
「それはどういう意味で?」
「上手すぎるのよ。熟練の狙撃手が最新式〈R3〉の火器管制使ってやっと当てられるような距離でも構わず命中弾を出した。――あの子、何者なの?」
返された質問に、タマキは悩みつつも事実を話す。
「少なくとも経歴上では、産まれて直ぐハツキ島の孤児院に預けられ、普通の義務教育を受け、卒業と同時に中華料理店に就職。帝国軍によるハツキ島強襲の2ヶ月前に婦女挺身隊の入隊課程を開始した。彼女が銃を扱ったのは、その時が初めてだったはずです」
リルは視線で「じゃあどうして」と尋ねる。タマキはそれに答えるよう、指揮官端末に隊員の個人情報を表示させ、「本当は見せたら駄目なんだけど」と前置きしてそれを見せる。
「何よこれ」
「ハイゼ・ミーア基地の健康診断でナツコさんだけ受診した脳波測定の結果。スーゾ――レーヴィ中尉ね――が言うには、集中したときの脳波の出力が異常なほど高いそうよ」
「脳波?」
専門外のリルはぽかんとしたが、同じく専門外のタマキもどう説明したものかと頭を悩ませ、言葉を選びながら話す。
「詳しいことは分からないけど、1つのことに集中したとき、脳が活性化するみたいなの。例えば数式の解を求めることに集中すると、応用数学の問題を四則演算でも解くみたいにすらすら解いてしまう」
説明を付け加えてもなおリルはぽかんとしていたが、その言葉が指し示す事実に気がつくと表情を一転させた。
「ちょっと待って。ってことはあの子、弾道の軌道全部計算してたってこと?」
「あくまで可能性の話です」
タマキは釘を刺したが、リルにとっては狙撃手としての専門教育を受けていないナツコが長距離狙撃を難なくこなしてしまった理由はそれ以外に考えられなかった。
「でもあの子、元々は普通、どころか鈍くさい何やっても駄目な子だったわ」
「それはいささか言い過ぎな気もしますが、確かにナツコさんの過去の資料を見ても数学の成績が飛び抜けて良かった以外は並の子供でした。ツバキ小隊を作ってからもそう。そこまで飛び抜けたものは持っていなかったはずなのですが――」
タマキは何か言おうとして口をつぐんだ。その先を、リルは推察して言葉にする。
「――成長、してる?」
「あくまで可能性の話です」
リルは声も無く1人頷く。初めて会ったときのナツコはそれはもう目も当てられないような下手クソだった。
しかし、デイン・ミッドフェルド基地での訓練を経て、〈R3〉の操縦技術も射撃技術も劇的に向上している。
リルはそれを元が低いのだから伸びしろがあったんだと考えていた。
だがもしそうじゃなかったとしたら。技術的な部分ではなく、脳の演算能力そのものが凄まじい速度で成長しているとしたら――
「あんたが突然ナツコに狙撃手なんてやらせた理由がやっと分かった気がする」
「そう言って貰えるとわたしとしても安心できます。もとはレーヴィ中尉の意見だったのですが、上手くいったようで」
「と言っても手放しで喜べる状況でも無いわよ。あの子、落ち着いて狙える状況なら確かにとんでもない腕だけど、近距離に突然出てくるようなのは苦手よ。それに、その集中力とやらに限界があるみたいで訓練の終盤はてんで駄目だったわ」
タマキはちょっと残念、と指先を顎に当てて物思いにふける。
それから報告について礼を言って、約束通りリルに時間外のシャワー室使用許可を出すよう、いつもの宛先にショートメッセージを送りつけた。
「報告は終りね。それじゃ」
既に士官用宿舎の手前まで来ていた。リルが別れを切り出すと、タマキはそれを引き留める。
「ナツコさんについてはね。あなたについても聞いておきたいわ」
「はあ? 何言ってんの? あいつに狙撃手の基礎叩き込んでただけ。あたしにとっては訓練でも何でも無かったわ」
「そうかしら? リルさん、今日1日で様子が変わったようだから。表情もずっと柔らかくなりましたし」
「なっ――」
リルは言葉を失って、顔を赤く染めかけた。
咄嗟に視線を逸らして、歯を食いしばる。そんなリルに追い打ちをかけるように、タマキは微笑んで話を続けた。
「ナツコさん、あなたのことをとても楽しそうに話してくれたわ。リルさん、ずっと他の隊員と打ち解けていないようで心配していましたが、杞憂に終わってわたしとしても嬉しい限りです」
「あんのバカ女っ!」
リルは今度こそ顔を赤く染めて拳を握りしめる。
そんな様子をタマキはそれはもう楽しそうに眺めて、それから可愛そうになったのかポケットからキャラメルの包み紙を1つ取り出す。
「今日はお疲れのようですから報告は良いです。長いこと時間をとらせてしまってごめんなさいね。これ、他の人には見つからないようこっそり食べて下さいね。生憎全員分は持ち合わせていませんので」
「あんたホント性格悪い」
リルはひったくるようにキャラメルの包みを取り上げて、即座に中身を口に放り込んだ。
タマキはにっこり笑って「よく言われます」と口にすると、手を振って別れを告げ士官用宿舎へと1人歩いて行った。
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