第4話 風の聖獣・風蛇龍

声も無かった。壮観としか言えない。

 漂う様に彼らは居た。ヴァーユに案内された泉の向こうに見えない扉があった。上も下も無い。縦横無尽に走る通路。でたらめに配置かれた様に見える繊細な浮き彫りの施された大理石のアーチ。空中を駆ける様に、つるぎを奥へ奥へをヴァーユは導く。そして、巨大な絶壁に突き当たった。滑らかで果ての知れぬ水晶の一枚岩。上を見ると、霞んでいた。下を見ると高所恐怖症の人ならば、足が竦むほど何も見えない。暗い闇と仄かに香る真水の蒸気が霧を生み出し淀んでいるだけだ。

 ヴァーユは不思議な歌を歌った。多分言葉なのだろうが、それをどう解釈して良いのか判らない奇麗な響きの音の羅列。歌が途切れると、何もなかった水晶の壁に奇妙な円形の緻密な文様が浮かび上がり、その中央が割れて、二人を招き入れた。

 風蛇龍そのままの者、人身の者……その数、数十体。決して多くはない。

「おじじさま」

 ヴァーユは、大理石の冷たい廊下をペタペタ裸足で歩きながら、片手でしっかりとつるぎの手を引いて、警戒の視線を送る仲間たちの間をすり抜けて行った。

 つるぎはというと、言葉も無く、ただぎくしゃくした足取りでついていく。ヴァーユの向かう先に、今まで見てきたどの風蛇龍より大きなそれを見つけた。純白に近い極薄い水色の毛並みのとぐろを巻いたそれが、静かな眼差しで二人を見下ろしている。

『……それは、なんじゃ?我らが幼子よ』

 ヴァーユは、つるぎと繋いでいた手を放すと、長老だろうと思われる風蛇龍の身体に抱きついた。

「……人間です」

 少し躊躇い、それでもはっきりと答えた。

「おじじさま。ぼくは、この人と行きます」

 回りが、ヴァーユのその言葉にぎょっとして大きくざわめいた。身の置場が無いような圧迫感を感じながら、その場に立ち尽くすつるぎを振り返り、ニコッと笑う。

 その笑顔を見て、つるぎは安堵を覚えた。

 ヴァーユの子供独特の無邪気な笑顔が、普段の自分を取り戻せた様に感じる。心の中で感謝しながら、一つ吐息を付き、風蛇龍の長老の顔を見つめた。

「わたしは、風間つるぎと申します」

 ゆっくりと、噛みしめる様に名乗りを上げた。

『……名の響きが、この世界と違うな?』

 長老が初めてつるぎを真っ向から見た。その目はヴァーユと同じ深い真紅だったが、表情があった。初めは肌で判るほどの威圧感をつるぎに対して発していたが、今はつるぎを観察しながら、何故か面白がっている様に見える。

「はい。奇妙な水たまりに落ちて、気がつくと、この世界にいました」

 論外に異世界から来たと告げた。

「おじじさま、ツルギは家に帰りたいんです。ぼくはそのお手伝いをしたいんです」

 ひょいと長老の懐から抜け出すと、つるぎの側に立って握り拳を作った。

「人の子よ、この子を連れていくのか?」

 問われてつるぎは、少し考えた。ヴァーユの人身の姿から察するに、まだほんの子供に違いない。ヴァーユを一人旅させるには、幼すぎて不安なのだろう。ヒヨコがか弱くて身を守る術が無い様に、ヴァーユも身を守る術を知らないのじゃないだろうか。

「…………ヴァーユ、お母さん、心配しない?」

 つるぎは遠慮しながら隣に立つヴァーユに問いかけた。すると、びっくりした様子でつるぎを振り返り見上げる。

「お城で助けてもらっただけでわたしはもう十分よ。凄く嬉しかった。でも、わたしのために、仲間から離れて、怪我するのは嫌だなぁ」

 背を屈めて微笑んだ。ヴァーユは頬を膨らませ、じたんだを踏んだ。

「ツルギ、言ったっ!ぼくを連れていくって。ぼくと一緒に居てくれるって。……ツルギ、この世界、初めてでしょ?道案内必要でしょ?……それとも、一緒、嫌?」

「……嫌じゃない。嫌いだったらヴァーユの身の心配なんてしないよ?友達でしょ?だから、わたしのために、傷ついて欲しくない」

 真紅の目から、ボロッと涙が零れた。

「傷つかないっ!……足手まといにも成らない。一緒に居たいのに、駄目なの?」

 ボロボロ涙を零してうずくまる。つるぎは、子供に泣かれるのがとても弱い。心底困った様子で、そっと目の前のヴァーユを抱き寄せた。縋って声を上げて泣くヴァーユをオロオロしながら宥める。

 と、今まで黙って成り行きを見ていた長老が、突然大声で笑いだした。その声に、今まで泣いていたヴァーユはびっくりして顔を上げ、つるぎも目を丸くして笑う長老を見る。

『とても、気に入られたようじゃな、人の子よ』

「…………」

つるぎは、目を瞬きながら言葉も無く風蛇龍の長老を見つめる。

『異世界から来たのじゃな?……遠いのう』

 目を眇めて少し考える素振りを見せる。

「水たまりを覗いていただけだったのに。学校が半ドンで、友達と放課後を楽しんでいた途中だったのに。それもこれもみーんな、わたしをここへ引きずり込んだアイツがいけないのよ!銀髪をだらだら背に流した女顔の……」

『ほう、ほう』

「そしたら、面倒なんて、これっぽっちも起きなかったはずだもの」

つるぎの愚痴を頷きながら、可笑しそうに風蛇龍の長老は見る。その様子を、つるぎに懐いた恰好で、ヴァーユは長老とつるぎを比べる様にして見ていた。

『……風の妖精国が今、大騒ぎになっているぞ。城に季節外れの雷が落ちて王城が一部破壊されるわ、脱走者が出るわ……』

 落雷は自分の責任ではないが、鏡の間と呼ばれる豪華な一室をズタボロにした事に関しては、少しは良心が痛んでいたりする。

 何故、あの様になったか、理由はつるぎには説明出来ないが。

「……脱走者……?」

 恐る恐るつるぎは自分を示しながら、長老を見ると、カカと笑って首を振った。

『いや、別人じゃよ。何でも、人間の魔術師らしい。……もっとも、他の儂が知っとる人間たちとお前さんとでは、ちーっと、毛色が違う様じゃの』

 自分の事じゃないと聞いて、安堵を覚える。

 安堵のあまり、長老の答えた言葉の、尻窄みとなった部分に奇妙な響きが宿ったのに、つるぎは気付かなかった。

「おじじさま」

 今まで黙って聞いていたヴァーユが初めて声をかけた。風蛇龍の長老はニコリと笑うと頷いた。

『ヴァーユ。お前のその身じゃ、その者の守護は荷が重いかもしれんぞ?……それでも良いと言うのであれば、儂はその者を認めよう』

 つるぎに付けられた名前を呼ばれ、つるぎが長老に認められた事を知ったヴァーユは、嬉しそうに満面の笑顔を湛えて勢い良くつるぎを振り返る。

「一緒、いいってっ!ぼく、がんばるからね!」

 幼子の喜び様に、風蛇龍の長老はゆっくり頷いた。

『おお、そうだ。元の世界への帰り道の事だが、手掛かりが無いとも言えぬぞ?』

 そう言って二人を身近に呼んだ。

「本当ですか?おじじさま」

 つるぎとヴァーユが顔を見合わせると、長老は目元を綻ばせて唯一白い髭をそよがせた。

『本当だ。ヴァーユ、トール湖のガーディアンという駄菓子屋を尋ねなさい』

 ヴァーユは人身から風蛇龍本来の姿に転変するとつるぎを中心にとぐろを巻いた。

「トール湖って…隣国の?」

 つるぎは、とぐろを巻いたヴァーユの背に腰掛ける。

『そうじゃ。……東の果てに妖魔の女王、シェリス=リーが支配している森がある。その森の奥深くの数ある湖の内の一つに、浮き島が浮いているのがあって、その島に幻人と呼ばれる一族が住んでいる。シェリス=リーの寵愛を受け、長い時を生きていると聞く。彼らは時の流れを知り、過ぎた過去を見ると言う。中には異界を渡る事も出来るとも聞いたことがある。彼らならば、そなたを帰す事が出来るかも知れない。その幻人の居る国の者が経営する店が、ガーディアンじゃ』

「じゃあ、ぼくはその店につるぎを連れて尋ねて行けばいいんだね?おじじさま」

 風蛇龍の長老は目を和ませたまま深く頷いた。ヴァーユは深くお辞儀をして、つるぎを連れて自分の生活空間へ連れていこうと踵を返した時、

「……“ガーディアン”かぁ。駄菓子屋にしては、変な名前よねぇ」

 ぼそりとつるぎは呟く。風蛇龍の長老は、それを聞きとがめて、不思議そうな表情を作った。

『……アレに意味が有るのか?変わった響きを持つなとは思ったがの』

 つるぎは、大した事ではないとでも言わないばかりに首を横に振ると、笑顔であっさり答えた。

「わたしの世界の言葉で、ガーディアンとは、守護者という意味を持っているんですよ。長老さま」

 一つお辞儀をして、何か言いたそうな他の風蛇龍をその場に残し、先で急かしながら待っているヴァーユを追って退出した。

『……長老“幻人”を、初めて見ました』

 人身の風蛇龍の青年が、二人の去った後を追う様に視線を向けつつ声を潜めて言った。

『そうさの。……幻人は、かの女王が言う様に、人間の範疇には入らぬ存在かも知れぬな。……ほれ』

 つるぎの立っていた位置に、淡い光の花が咲いていた。

『幻人は言霊を作ると言う。“守護者”という意思を持ってあの者は言葉を口に出した。言葉は言霊となり、言霊が存在に変わった。言霊には光があった。優しい光だったから、そして、答えただけの小さな意思力と言葉だったから、光は花と姿を変えたのだ』

 名も知らぬ不思議な花だった。たった今、産まれたばかりのただ一種のみの花。見ている者の心を温める、透ける薄桃色の花弁を幾重にも重ねたガラス細工の様な花である。

『……彼女の住む異界では何の効力も発揮されない言葉が、この世界では存在となる。……苦労するでしょうね』

 風蛇龍の長老は、淡く微笑んで頷いた。

『そうさの。まあ、でも……ヴァーユのいい修行になるじゃろ。……厄介事も、追ってきている様だし』

 長老の言葉に、青年は首を傾げる。すると、横で聞いていた女性が楽しげに相槌を打った。

『……二匹の猫、ですね?』

 長老は笑い声を漏らしながらゆっくりと頷いた。

 次の日、水色の長い髪の青年が、奇麗な編み込みの袋をつるぎに渡した。中には、着替えと食料と大粒の宝石、そして幾らかの金子が入っている。つるぎは、中を覗き込んで丁寧に調べた後、昨日とは随分雰囲気が柔らかくなった、風蛇龍の青年に、声をかけた。

「……お願いがあるのですけど」

 幾分直視を避けながら、つるぎは言う。顔は真っ赤だった。前日の長老との会見の時は、緊張しすぎてそれどころじゃなかったが、今は違う。

『何か?』

 つるぎの様子に首を傾げながら、青年は言う。

「…………あなた方には、当たり前の事かも知れませんけど、もし良ければ人身の時は、“服”を着てくれませんか?」

 シンッと静けさが辺りを支配した。ヴァーユは、未だ布団の中で丸くなって寝ている。

 寝顔はぎゅっと抱きしめたくなるくらい可愛いが、これにも難があった。……少々差し障りがある。つるぎは、視線を逸らしたまま、さらに付け加えた。

「それから……ヴァーユの人身の時用に、子供服を一着か二着、用意して欲しいのですけど」

『…………』

 答えが…無い。つるぎは、視線を逸らしての会話は、他人に不快感を与える物だという事を、つるぎの父親が話していたのを思い出した。

(怒っているのか…な?)

 この際、今の恰好は無視する事として、顔を上げた。すると、真っ赤な顔をして、硬直している青年と出会う。

「……服、必要、ですよね?」

 端正な顔を朱に染めて、可愛いくらいぎこちなく頷く。つるぎはニコリと笑うと、「お願いします」と頭を下げた。

 青年がそそくさと去った後、ようやくヴァーユが目を覚ました。朝の挨拶を交わし、つるぎは人間用に果物を貰ってそれを朝食とする。食べおわる頃に、先程の青年が、ヴァーユが着れる服を持ってきた。つるぎに気を使っているのだろうか、今度はしっかり服を着ている。笑顔を向けて「有り難う」と言うと、ペコリと頭を下げて部屋を出ていった。

 それからおよそ一時間ほど後、沢山の風蛇龍に見送られて、その空間を出る。

 泉の辺に立ち、互いに顔を見合わせる。

 つるぎにとっても新しい旅立ちなら、ヴァーユにとっても新しい旅立ちなのだ。

「ツルギの国の話をして」

「いいよ!……んとね、わたしの住んでいたところは……」

 つるぎは、我が家への帰路の第一歩を踏み出した。ゆっくり歩きながら、地球という名の星の中に、沢山の国がある事。その中の日本という国の事、そして、つるぎが住んでいる福岡という地名の場所で暮らしている事を話初めとした。

 テクテク、てくてく。人身のヴァーユの手を引いて、森を出る。足元の枯れ葉を踏みしめる音や、囀る野鳥の声が耳に楽しい。

 旅の始まりは好調と言えるくらい楽しいモノだったが、この時二人はまさか家路の旅に障害物がいくつも転がっているとは思いもしなかった。

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