手を取りあって

ぜろ

第1話

 夏の学校は教室中の窓を開けていても授業中は引き戸を閉めているから、結局蒸し風呂状態になって空気が籠り憂鬱だ。それでも休み時間に廊下を歩いていると少しは風通しが良くて、ポニーテールの首の後ろに入って来る風が気持ち良い。長い髪は冬場はお風呂の後に乾き難いし夏場は汗が貼り付いて鬱陶しいけれど、ささやかな自然の恵みを感じるには丁度良いぐらいだろう。小六から二年伸ばしてるけど結構伸びるものだな、なんて思う。聞いた話では髪の毛と言うのは一か月に一センチ伸びるらしいから、単純計算あれから数えて二十センチは伸びているんだろう。時々整えいるし。んー、長いと言うには微妙な長さだな。まあ、括れるから部活の邪魔にはならなくて良いんだけど。

 徒然に考えながらよいしょっと抱え直すのは校長室に持って行く書類だ。本当は担任が持って行くものらしいんだけど、通り掛かりに頼まれてしまった。眼鏡を外すと現れる笑い皺に愛嬌があって笑顔が優しい校長先生は嫌いじゃないけど、なんてったって校長先生だ。一対一で会話をするには緊張感がある。気心の知れた教師や生徒の前では眼鏡を外す、って話だけど、あたしの前では外さないだろうなあ。殆ど校内でも会わないし。部活の見回りで別棟の武道館に来た事も、この一年半で一度か二度だ。最初は怖いんだよね、びしばし音が響くし掛け声も大きい。それを言ったら剣道と柔道も同じ武道館でやってるんだけど。剣道はともかく柔道はそんなに煩くない方だ。剣道部の掛け声はたまに新種の鳥みたいだったりする。

 閑話休題、息を吐いて書類をまた持ち直すと、角を曲がった所にある階段の踊り場で男子達がたむろしているのを見つけた。何だろうとちょっと身体を隠すと、男の子の声は三人。で、何も喋らないらしいのが一人。まさかと思ってそーっと覗いてみる。

 ヘッドホンを頭から被って亀のように丸くなりながらしゃがみ込んでいるのは、あたしの同級生兼幼馴染兼『通訳相手』の、西園慧天にしぞの・えでんだった。

 絡んでいる男子三人にも見覚えがある。多分こっちも同級生だ。慧天以外の男の子とはあまり話したことがないから解らないけれど、声に聞き覚えがある。ちょっと掠れた変声期前独特の声。

`「おい西園、そのヘッドホンちょっと貸せよ」

 男子の一人が軽く慧天の脚に蹴りを入れる。慧天は丸くなって腹を守るようにうずくまり、ワイヤレスの充電式ヘッドホンを両手で必死に押さえていた。

「宇都宮電気の新作だろ? MP3プレーヤー内蔵ですっげー容量あるやつ。何聞いてんの? AV? ぎゃはははははは、だから立てませんってか?」

 またキック。慧天は頭を抱えている。多分あたしが知らないところでこういうことは何回かあったのだろう。耐えることに慣れている様子が気に障ったのか、またもう一人の男子、背が高い子が慧天の頭を掴んだ。密閉型のヘッドホンはそれでも外に音を漏らさないし、慧天も相手の声を聴かない。あたしは自分の喉に手を当てた。そこには首輪みたいな咽喉マイクが着けられている。あたしのこれに文句を言うやつはいないのに、なんで慧天ばっかこういじめられるのかなあ。やっぱり喋らないのがいけないのかしら。

 否、あたしみたいな『通訳』がいれば、慧天だって人と話す事は出来る。メールを使った筆談で相手をしてくれる友達だって皆無じゃない。基本的には大人しくて、大人しすぎて、だからフリョーに絡まれる。弱い者いじめというやつだ。慧天は弱いと言うよりも、争いを嫌がっているだけなんだけど。一人教室の隅で文庫本を読んでいられれば幸せな性質、だけど、慧天はあんまり本を読まない。昔『シャーロックホームズの冒険』を読んで、『五粒のオレンジの種』と『斑の紐』に大層立腹していたぐらいだ。話としてこれは酷い。まあ、酷かったよね、どっちも。

 振り上げられた脚が腹を狙おうとサッカーキックの要領で持ち上げられる。さて、そろそろ出番かな。

 あたしは階段から飛び降りがてら、背の高い男子の一人の背中に思いっきり蹴りを入れた。

「な、なんだよお前っ本条ほんじょう!?」

静紅しずく!」

 慧天がやっと口を開けてあたしを呼ぶ。はいはいあなたの本条静紅ちゃんですよ、西園慧天君。うまく飛び降りて、ポニーテールにしている髪をあたしは後ろに流した。じろり、睨むとうっと声を上げる男子達。女の子でもね、重力加速度と欠かさず行っている空手部の練習があれば、髪の毛金髪に染めたりピアスじゃらじゃらつけたり他人の物を盗もうとするようなこすい中二男子三人ぐらい相手できるのよ。年二回の昇段試験も三回順調に超えて来たあたしを、あんまり舐めるなよ。

「何だよ本条、お前は関係ねーだろ、すっこんでろよ! 首輪なんか付けやがって、番犬かよ!」

 吠えたのは慧天を蹴った奴だ。関係ない。関係ないで言うならあんた達こそ関係ない。慧天のヘッドホンに、なんの関わりもない。だってこれは。

「残念ながらこのヘッドホンはあたしが買って慧天の誕生日にプレゼントしたものなの。みすみす取られるのなんか見てらんないわ、よッ!」

 床に書類を置いてから片手を軸にあたしはもう一人の男子のふくらはぎを思いっきり蹴る。青痣程度は付いて欲しい非力な中学二年生女子なのだ、あたしは。自分の脚にも青痣ができちゃいそうな勢いだったけれど、手加減をして舐められる訳にはいかない。西園慧天には本条静紅がいると、解らせないと。

 転んだ男子は足を押さえてのた打ち回る。最後の一人、金髪の子に目を向けると、彼は階段を下りて逃げて行った。友情ってこんなもんかしら。ふうっと息を吐くと、階下から声が響いた。大人の男の人の声だ。亀になってる慧天は気付かないけれど、あたしはどれどれと階段の手摺りに寄り掛かって下を覗いてみる。黒いタンクトップを着た四十近いの背の高い男は、体育教師の長谷忠良はせ・ただよし先生だった。

「何してんだ真野まの

 威圧感のある声は廊下に響く。あたしに蹴りを入れられた二人はハッとして、階段を上がっていった。本当、友情って。

「いや、俺は何も」

「嘘つけ。声響いてたぞ、西園のヘッドホン寄越せってな。西園は必要であのヘッドホンを付けてるんだ、本条のマイクもそうだ。身体の一部に近い。もぎ取られたらどんなにつらいか解るか?」

 ぐい、っと長谷先生は男子の腕を捻りあげる。

「いででででででで! 解った! 解りました! すいません!」

「謝るのは俺じゃないだろうが!」

 一喝された男子は、離された腕をさすりながらこっちを見上げた。

「このヒーロー気取りのゴリラ女!」

「真野!」

 走って逃げる足音。

 言われ慣れてるのであたしも返した。

「そうよ、何か悪い? 弱い者いじめしか出来ない軟弱者が!」

 ヒーロー上等よ。

 ……慧天を助けるためならば。

 二年前からあたしは慧天の、ヒーローなんだから。

 あたしは書類を拾って慧天の様子を見る。夏服の制服には上履きの埃がちょっと付いていたけれど。腕なんかに痕は付いていないみたいだ。良かった、怪我してない。あたしはまだ亀になってる慧天に手を伸ばした。

保志ほし先生に頼まれて校長室行くところなの。あんたも一緒に行こう?」

 咽喉マイクは慧天のヘッドホンに電波で繋がっている。あまり長い距離は無理だし、慧天の返事も解らないけれど、隣にいる時は中々の優れものだった。それこそ『通訳』をする為には。こくっと頷いてあたしの手を取る慧天の手は、汗でじっとりしてる。夏の所為じゃなく、ヘッドホンを取られるのが怖かったんだろう。きっと吐かれる言葉は良い意味じゃないと、直感で解ってた。そして慧天は傷付きたくない。それは誰でも同じことだけど、慧天は特別、傷付くのを怖がる。だからあたしみたいなワン・クッションは大切なのだ。なるべくきつい言葉は端折って伝える。甘やかしかもしれないけれど、あたしは慧天の『ヒーロー』だから。守りたいものは守るだけだ。その身体も、心も。

 しかし男の子三人相手でも抵抗すればそれなりに動け――ないだろうなあと、その細い手首を眺めた。体育も不得意で英語と数学で生き延びてるから勉強で見返すって言うのも出来ないし。あの中に慧天より順位高い奴がいるかは解らないけれど。授業は聞かないノートは取らない。慧天は毎時間脂汗を掻きながらヘッドホンを外して授業を受けてるもんだけど。そういう努力を、慧天は惜しまない。どんな幻聴がその耳を聾そうとも。

 階段を降りると長谷先生が腰に手を当ててまだ頭から湯気を出していたけれど、あたし達を見止めるとすまなそうにちょっと薄くなってきている頭を掻いて、慧天のシャツをぱふぱふとはたいてくれる。靴跡は洗濯すれば取れるだろう。雨が降らなきゃ良いけど。夏の雨は一等に好きじゃない。蒸し暑さに拍車がかかる。

「うちの部の生徒がすまんなあ、西園」

「うちの部の生徒がすまんなあ、西園。だって」

 あたしが咽喉マイクでいつも通り言葉を繰り返す通訳をすると、電波で言葉を受け取った慧天は蚊の鳴くように声で大丈夫です、と長谷先生を見上げた。珍しい、喋った。まあ、長谷先生は慧天のヘッドホンを補聴器代わりの何かと思ってくれてる節があるから、助かっている。流してるのが洋楽オンパレードだと知れたらどうなるか、くわばらくわばらだ。補聴器も外れちゃいないんだけどね、あたしが隣にいる時は。誰の声も聞こえない、だけどあたしの声だけは音楽に割り込めるように設定してある。二人きりなら普通に話せるのは、ちょっと自尊心を満足させることだ。なんちゃって。生まれた時から新生児室のベッドも家もお隣さんだから、何考えてるか解っちゃうこともあるんだけどね。たとえば今は、出来るだけ早くここから離れたい、とか。慧天はこの体育教師が苦手だ。明るすぎて見ていられないと、以前言っていた。じゃああたしは明るくないの? と意地悪に訊ねてみると、静紅は常夜灯だから、と返された。小さいけれど夜を照らす常夜灯。さて嬉しいのか嬉しくないのか、問題だわ。

 適当に長谷先生に挨拶をして、あたし達は歩き出す。片手はもちろん、慧天と握り合っている。分厚い資料はもう片手。しかし何の資料かな? ちらっと見ると体育祭、と書かれていた。あーもうそんな準備しなきゃいけないのか、教師達は。えーと何て言うんだっけこう言うの、貧乏暇なし? いつもよれよれの白衣を着てる保志先生を思い出す。似合う言葉だ。上履き代わりの便所サンダルとか。でも授業は解りやすくて良い先生なんだよね。

 しかし体育祭か。今年もビリかなあ。あたしもあんまり、走るのは得意じゃない。『何か』から逃げているようで、心臓がどきどきする。その『何か』の顔は、鮮明に覚えている。追ってきたらどうしようと。

 手が冷たくなる。ヤなこと思い出した。慧天がきょとんとして、あたしの手を握り締め温める。うん。大丈夫だよ。何でもない。今となってはどうしようもない。だから思い出すのは、止めよう。でも喉が渇くな。後で校長室近くにある水飲み場で、ちょっと喉を潤そう。季節は夏だ、水分は取って悪いことはない。


 再び校長室に向かうあたし達が遭遇したのは、音楽教師の河原崎水落かわらざき・みずち先生だった。今年赴任してきて、大学を出たばかりの新米さんらしい。縁無し眼鏡に薄化粧、藍色のワンピースはノースリーブ。教師は良いなあ、涼しい恰好が出来て。思いながらぺこりと頭を下げると、彼女は立ち止った。必然あたし達も立ち止まる。

「西園君、またヘッドホンを付けているの?」

 ちょっときつい声音。中学二年生には新任教師もやっぱり大人でちょっと怖い。

「またヘッドホン付けてるの、ってさ」

 あたしは通訳する。慧天はヘッドホンで耳をぎゅっと抑えた。これに言及されることを、慧天は多分一番に嫌っている。

「あまり耳の近くで音を流していると耳が悪くなるわよ。何を聴いているの? そんなに熱心に。学校でも聞かなきゃいけないもの? 英語か何かの教材?」

 惜しいな、流れてるのは洋楽で、しかもQUEENのアルバムが全部入っている。日本限定バージョンからアメリカ限定バージョンまで。慧天は歌詞カードと格闘しながら聴く性質だから、地味に英語の語彙が多いし文法も完璧だ。そういう意味では英語の教材として当たっているのかも。小学校の頃も、簡単な英語の曲で単語の穴埋めとかやってたっけ。慧天とフレディとの出会いもその頃だ。高めの声は優しい。プログレ時代はちょっと付いていけないと言っていたけれど。芸術選択・音楽の割に詳しくないあたしはプログレもよく解らなかったりする。結構長い歴史のあるバンドだったのだ。おっと、現在進行形だっけ? ブライアン・メイのギターがある限り、QUEENはQUEENだと譲らないのが慧天だけど。

 ヘッドホンに手を伸ばして来る河原崎先生から逃げるように、慧天はあたしの後ろに隠れた。いつものことだ。だけど廊下ぐらいでしか顔を合わせない先生は、それに呆れたような溜息を吐いた。まあ、自分より小さい女の子の後ろに隠れる男の子、って言うのは、多少間抜けな構図である。でも今はこれで良い。今は、これで。慧天はあたしが守ってあげなくちゃならないんだから。少なくとも、今は。

 ――いつまで?

「女の子の後ろに隠れるなんて、いくら中学生でも男の子としてちょっと恥ずかしいわよ。――まあ良いわ。でもなるべくヘッドホンは外しなさいね。人の声が聞こえないでしょう、それじゃあね」

 人の声を聞かないためのツールです、と返そうかと思ったけれど、その辺は説明するのが面倒だった。慧天は人の声を聞かないために音楽を聴いている。二年前からだ。それまではあたしを背中に隠して守ってくれるぐらい、頼りになる幼馴染だった。別に今の慧天が嫌いなわけじゃないし、慧天が真っ先にあたしを頼ってくれるのは嬉しいから、気にした事じゃないけれど。ヒーロー気取り。そう、あたしは慧天だけのヒーローであれれば良い。

 先生の言葉を通訳して伝えると、慧天は困ったようにヘッドホンを押さえた。今は何が流れてるのかな。フレディのよく伸びる声は、あたしも嫌いじゃない。うちでお茶会を開くときにはBGMにするぐらいには、好きだ。お陰であたしと慧天のCDラックは随分と被っているけれど、ジャケットを眺めながら今日の気分でCDを決める、って言うのは嫌いじゃないから、別に良いのかな、と思ってる。お茶会の場所は大概あたしの部屋だしね。

 慧天と手を繋いで廊下を歩くと、どこかの窓からか入った風がその髪を揺らした。冷たいのは水飲み場の気化熱からだろうか、校則ぎりぎりに髪の長い慧天は前髪を押さえる。眼がほとんど隠れているけれど、どこまで見えているのかな。校舎の真ん中にある校長室にやっと辿り着き、あたしは慧天の手を離してコンコンコンコン、と四回のノックをした。マナーの本で読んだけれど、二回のノックはお手洗いの『入ってますか』確認らしい。普通は四回、と覚えたのでそれを実行――したのだけれど、返事も気配もない。もう一度ノックしても、同じだった。校長先生、いないのかな。そっとドアノブに手を掛けて開けてみる。すると大きな机の影から伸びた足が見えた。

 校長先生に持病はないと聞いていたけれど、病気か何かで倒れたのだろうか? 慌てて部屋に入って近付こうとするあたしの手を引っ張ったのは、慧天だった。ふるふる頭を振られる。

「僕が見る」

 何故か強い意志を感じて手を下ろすと、慧天は机を回り込んで校長先生を覗き込んだ。そして苦々しい顔をする。静紅、と呼ばれた。

「警察を呼んで」

「なんで?」

「見ない方が良い。……校長先生、殺されてる」

 開けっ放しの窓から風が入ってカーテンが揺れた。ちらりと除く太陽光線に、机の上に畳んであった眼鏡が光る。ポケットから携帯端末を取り出して一一〇番する自分の指が震えている事に気付いたのは、その時だった。

 死体を見るのは、二度目だった。

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