第2話 彼の名は


 恋かどうかはともかく、名前を調べることが俺にとっては先決だった。と言っても学年もクラスも分からない。学校でヴァイオリンを弾いていたということは室内音楽部の部員なのだろうか。あいにく室内音楽部に知り合いはいない。あの部は部員が少ないのだ。顧問の先生に聞くのも少し気が引ける。第一、名前を調べていることを人に知られてはまずい。

 俺は、月曜の朝礼を待った。月曜は三年生の登校日だ。彼が三年生だとしても、体育館に並ぶ。ああ、でもどうか三年生ではありませんように。もしそうなら、あと一週間で卒業してしまうから。できれば俺と同じ一年生ならいいのに。そうしたらあと二回、同じクラスになる可能性がある。

 朝礼では幸い、俺はステージの上に乗ることができる。生徒会役員は、特別何をするわけでもないのだが、ステージ脇のカーテンの横に突っ立っているのだ。まるでお飾り人形のように。会長は挨拶をするが、その他は何もしない。一応生徒の整列を促したり、静かにさせたりするのが仕事なのだが、生徒はそれなりに並ぶし、教頭の話が始まれば静まるので、仕事はないに等しいものだった。

 俺はステージの上に立つと、目だけ動かしてかの麗しの人を探した。俺は一年一組なので、その隣の二組から。しかし隣のクラスには絶対にいない。この一年、見かけたことがなかったのだから。実は一組から三組までは二年生と一緒の第二校舎だが、四組以降は第三校舎に教室がある。一年生なら四組以降のはずだ。俺は祈りを込めて四組の列の一人一人を確かめた。そして五組、六組、七組。

 今日は休みかもしれないよな。そんなことを思い始めた時、ふと動いていた視線が止まった。心臓も一瞬止まったかと思った。いた。七組の列の真ん中辺りに。うーん、やっぱりいい男だ。


「おい、何ニヤけてんだ。」

朝礼が終わって教室に戻ると、幼稚園からの腐れ縁が続いている森村彰二が肘でつついてきた。

「お前、ステージ上でもニヤけてただろう。階段降りる時なんてスキップしてるみたいだったぜ。何かいい事あったのか。」

「べつに。」

あの人は、一年生だった。あと二年間ある。その間にきっと親しくなってやる。まずは七組に行って席を調べるぞ。ああ、そうか。七組に行けばあの人に会えるんだ。

「彰二、七組行くぞ。」

「へ?今から?誰のとこだよ。」

俺は彰二の問いには答えず、さっさと先に立って歩き出した。しばらく先生は来ないはずだ。

 第三校舎はどこのクラスもワイワイガヤガヤとうるさかった。俺たちは二階に上がり、階段脇の七組の教室を覗いた。ドアは前も後も開け放たれており、特にこちらに注目する人はいない。彼を探す。いた。あそこだ。窓際の前から三番目。前の席の奴が窓に背を向けて座っていて、彼とそれぞれの隣と、四人でしゃべっているようだ。笑っている。なんて可愛らしく笑うんだろう。

「京一?」

彰二が俺の顔を覗き込んだので慌てて視線を戻すと、七組の知り合いがこっちにやってきた。

「あれ?矢木沢、誰に用?」

「えっと・・・いや、いいんだ、何でもない。彰二、帰るぞ。」

一瞬彼の名前を聞いてしまおうかと思ったのだが、あえて我慢した。後であの教室へ行って教卓に貼ってあるはずの座席表を見よう。


 そして俺は再び1-7の教室に来ていた。うちの学校、たいてい放課後はどこの教室も空っぽだ。今度は一人で来ていた。

「えーと、窓際の前から三番目は・・・。」

滝川・・・。そう四角で囲まれた空間に記されてあった。滝川君か。ファーストネームも知りたい。そうだ。机の中に・・・いや、勝手に机をあさったりしたらだめだ。それでも、俺は吸い寄せられるように彼の机の方へ歩いて行った。そっと机に触れる。ちょっとした感動がよぎる。

「俺ってバカみてー。中学生の女子じゃあるまいし。」

小声で悪態をつきつつも、そっと彼の椅子に腰かけてみる。

「滝川君かあ。うーん、名前ってどこに書いてあるかなあ。体育着も苗字だけだし、ロッカーは番号、下駄箱も番号だし、名簿は先生が持ってっちゃうし。」

道は二つある。一つは出身中学が同じ奴を見つけて卒業アルバムを見せてもらう。しかし出身中学を聞くってのがネックだ。もう一つは出席簿を見ることだ。教員室に行けばあるはずだ。何か口実を作って・・・。よし、イケそうだ。


 「木下先生、こんにちは。」

「あ~ら、矢木沢君。どうしたの?質問でもあるの?」

いいおばあちゃんではあるが、派手派手のババギャル(?)といった感じの1-7の担任、木下美也はある意味苦手でもあるが、利用すべき時には役に立つ。ちょろいぜ。

「いえ、ちょっと生徒会関係の調べ物でして。七組の名簿を見せていただけませんか?名前が載っていればいいんですけど。」

「名簿ね、わかったわ。とりあえず出席簿・・・じゃだめね。成績に関わることが書いてあるものね。住所録がいいかしら。」

住所録!ナイスだぜ。木下先生は住所録を探して、俺に手渡した。

「ありがとうございます、木下先生。すぐ済みますから。」

そう言って俺が住所録に目を落とすが早いか、木下先生は俺を強引に近くの椅子に座らせた。

「ねえ、矢木沢君。生徒たちはみんな私の事“みやちゃん”って呼ぶのよ。」

「それはいけませんね、注意しておきましょうか。」

「いいえ、いいのよ。みんな親しみを込めて言ってくれてるんだもの。だから、矢木沢君もそう呼んでちょうだい。」

「はあ。」

俺は生返事しながらも、非常にドキドキしながら目は“滝川”を探していた。このクラス、“た”から始まる人が多い事多い事。

 あ、あった。滝川薫。薫。薫君かあ。なんていい名前なんだ。美しい彼にぴったりだ。住所は・・・ふうん。この近くか。ってことはチャリ通かな。

「ちょっと、矢木沢君聞いてる?」

木下先生、もとい、美也ちゃんは、いろいろと一人でしゃべっていたらしい。俺は住所録を先生に手渡しながら立ち上がった。

「用は済みました。お邪魔しました。」

「あら、もういいの?驚いたわ。」

美也ちゃんはそう言いながら住所録を受け取り、ちょっとつまらなそうな顔をしたが、ふと思いつき、これから本題に入りますとばかりに座り直した。

「ねえ矢木沢君、ちょっと話したいことがあるんだけど。お茶でも」

「おっと、俺もう行かなきゃ。これから生徒会室に戻らないと。」

俺は、美也ちゃんの差し出した手からスルリと抜けて立ち上がり、早々に教員室のドアへ手をかけた。

「あらそう?残念だわ。」

「また今度ね、美也ちゃん。」

ちょっとサービス。唇の片端上げてのスマイル付き。なんかこのスマイルは先生方(いや、年上の女性)に好評を得ている。教員室を出てドアを閉めると、中から美也ちゃんのホホホ笑いが聞こえてきた。

そんなことより、滝川薫。ああ薫。俺の美意識が惚れた最高の人よ。美意識が?美意識ってなんだ?美意識は意識の全てではないのか?つまり俺の根幹、もしくは中枢では・・・?

深く考えるのはよそう。今、俺は最高の気分なんだ。薫、薫だ。

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