Hello, Happy World.
やぎこちゃん
What went wrong?
近所にある、マスターが知り合いのコーヒー店で特別に薄く作ってもらったアメリカーノを飲みながら、僕は手元の手帳をちらりと見てため息をつく。
何故かといえば、それはもちろん今日の三時から行われるレセプションパーティーに出席したくないからで、だからこそこんな午前中から、家にいたくがないために飲めもしないコーヒーの店へとお邪魔しているんだけれども。
砂糖とミルクを、それこそ元の苦豆出汁(僕は皮肉を込めてコーヒーのことをこう呼ぶことがある)よりも多く加えたコーヒーカップを口に運んで、甘ったるさに顔を顰めながら、カバンに放り込んできた小説を取り出して栞のしてあるページを開く。今は英米文学に少しハマっているので、今日のセレクションはヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」にした。洋書の類は翻訳者の文体によって読み易さが変わってくるので、その辺りのある種宝くじ的な要素もまた良いのだ。
数ページ読み進めてから、この翻訳はあまり好きではないなとがっかりして、それを洗い流すようにカップの中で佇んでいた「出汁」を一気に飲み干して、器具の手入れをしているマスターに美味しかったと告げる。五十代後半と思しき、白い顎髭を生やしたマスターはにこりと微笑んでからまた手元へと視線を移した。実際、彼の作ってくれたコーヒー以外は僕は飲むことが出来ないし、少なくとも缶コーヒーなんかよりは数十倍マシな味だと思う。
刹那、ジーンズの右ポケットに入れておいた携帯電話が自身を震わせて着信を告げる。若干嫌な予感がした僕はそれを放っておくかどうか迷ったのだが、後のしっぺ返しが怖かったのでしぶしぶ通話ボタンを押してスピーカーを耳に押し当てる。
「もしもし」
「ごきげんよう。ところで、今どこにいる?」
「別に。その辺りをぶらぶら散歩していただけだよ」
「ならいいんだが。もちろん分かっていると思うが、少なくとも二時には帰ってくるようにしてくれよ。まさかすっぽかすことなど無いように」
「分かってるよ。二時に自宅。それでいいでしょう?」
「それでいい」
そこで電話は途切れて、無機質に通話停止を告げる電子音が耳へと響く。
ふと頭を掻き毟ってしまいたい衝動に駆られたが、よもやそんなことをする度胸も厚顔無恥さも備えているわけはなく、ぎゅうと目を強く瞑って、虚空に軽く息を吹く。
その僕の所作を見て、マスターは優しい微笑みを湛えながらこちらへと向いた。
「どうしたんだい、坊ちゃん」
「いいや、なんでも。ただ家のしがらみにうんざりしていただけだよ。あと、その坊ちゃんってのはやめてくれ」
「かしこまりました、ご主人様」
「もういい」
マスターは僕のうんざりした顔に少し口角を上げて、さながら悪戯っ子のような笑みを浮かべる。変に気取らず、感情豊かな彼のこういうところが僕は好きで、だからここには定期的に通って「出汁」を飲みに来る。
「まあまあ、あまり両親を困らせてはダメですよ。もちろんこうやって来てくれるのは嬉しいですけど、その後に届けられる苦情を処理するのも私なんですから」
「それについては謝るよ」
肩をすくめ、僕は答える。
「だけど、僕がここに来ているのは逃げ場としてじゃなくて、単にこのお店が気に入っているからなんだ。そこは分かっていて欲しいし、両親にもそれは説明しているはずなんだけども」
「それは光栄なことで」
僕の言ったことは、半分は本当で半分は嘘だ。もちろんこの店は気に入っているけども、さりとて自分の家が心休まる場所であるのならば、足を運ぶ機会は途端に減ることだろう。そしてマスターもそれを分かってくれているから、彼とのコミュニケーションは気兼ねすることがなくて楽しい。
ぼーん、ぼーん、と壁に掛けられた鶯時計が低い音で鐘を鳴らした。僕はそれを見て顔を覆いたくなるほどうんざりした。誰がために鐘は鳴るのか、手元の本の答えはこんなところにあった。少なくとも今鳴っている午後二時を報せた鐘は、我が家のメンツとプライドのために鳴っているに違いない。
マスターに内ポケットの財布から千円札を渡して、三百五十円のお釣りを貰う。六百五十円の対価として安らぎのひと時を得られるのならば、僕は自分の小遣い全てを投げ打てば永遠の安寧を手に入れられるのだろうか。もしそうならば、これ以上なく嬉しいものなのだが。
僕はジーンズの右ポケットから携帯電話を取り出し、両親にメールを打つ。「少し道に迷ったので遅れる。もう知っている道に出ているので、二時十五分くらいには帰れると思う」定番の言い訳だけれども、実際自分が方向音痴なのを両親は知っているので特段訝しがられることもない。送信完了のポップアップを見てから、重い足を引き摺って僕は家路についた。スーツなんて自分には似合わない、ネルシャツとジーンズこそが僕の勝負服なんだが――――なんて、不毛な考えを思い浮かべながら。
*
一言で言ってしまえば、僕はいわゆる「御曹司」ってやつだ。曾祖父の代に立ち上げた事業は大成功を収め、今では大企業……とまでは行かずとも、中小企業の中では間違いなく筆頭に上がるであろう程の規模を誇っている。民間ベースにはあまり知られない業種だが、少し事務方の業務をしたことがある人ならすぐにピンと来る会社らしい。
そして僕は第三代社長を務めている父の息子ということで、このまま順当に行けば第四代社長となる身分を持っているというわけなのだ。「順当に行けば」、というのは当の本人である自分が会社を継ぐことを拒否しているからであって、つまりは現時点では順当に行っていないのである。なぜそんなことを、と言われてしまうと明確な答えを返すことは難しいのだが、一言で言ってしまえば「反抗」なのであろう。思ったよりも、生まれた時からレールが敷かれている人生というのはうんざりするものだ。
さて、そんな御曹司たる僕の身の上故、例えば何かパーティのようなものへ父が誘われると、決まってそこには僕も附いていくことになる。コネクションがある意味絶対的な資産となる社交世界では、子供のころからこういった会合へと顔を出すことは重要らしい。もちろん僕だってこんな集まり御免ではあるが、父の機嫌を損ねぬためにも不承不承出席はする。その典型的な例が今日たる今日で、
「ねえ」
「ん? どうした」
「スーツじゃなくて、ネルシャツとジーンズで出席してもいいかな?」
「明日から我が家と従業員一五〇人を路頭に迷わせたかったらそうするんだな」
今、手元に持った指先で操作する八インチ程度サイズの板へと目を落とす父に、こういった冗談を飛ばしながら、僕と父と運転手はハイヤーに乗りながら首都高を縦断している。
キシキシした革張りのシートが僕の臀部を厳しく包み込み、胸に斜め掛けされたシートベルトは胃袋の中に残っているコーヒーを軽く圧迫した。カーラジオから流れるジャズはどこかで聴いたことがある声で、「ワット・ア・ワンダフル・ワールド」の声だと思いついた時には車は首都高を降りていた。ガタガタガタと車が揺れる度、僕の胃袋は波を打ち、車内に立ち込める暑苦しい独特の排ガス臭が嘔吐中枢を一パーセントだけ刺激した。
気の抜けた欠伸が口から洩れる。遠く前方に見慣れたホテルが見えてきた。確かここの最上階がパーティの会場だった筈だ。運転手が赤信号にブレーキをかける。車が一段と大きく揺れた。窓の外では、たくさんの人々や車が忙しく往来を続ける。社会の歯車という言葉がぴたりと嵌まる彼らに、少しジェラシーすら感じた。信号の色が青緑になり、車が動き始める。そこの十字路を曲がれば、駐車場が見えt
*
耳をつんざく、破裂音がした。
*
気が付くと、目の前にはレンガ模様のタイルがあった。
口周りにはマスクが身に着けられていて、おかげで息をしようにも一定リズム以外では仕様がない。重力の向きからするとタイルは天井のようだ。手は動かない。足も動かない。腹筋に力を込めて上体を起こそうと試みるが、びくともしない。
白衣の男性がやってきて、こちらを覗き見る。それから何やら指を差して誰かに指示を飛ばす。一瞬、鼻につんと甘い匂いが立ち込めた。
そこで僕の意識は途切れた。
*
目覚めると、数日が経過していた。
割と生死の境をうろうろと彷徨っていたらしい僕は、さまざまな薬に漬けられ、なんとか一命を取り留めたらしい。信号無視をしたワンボックスカーがハイヤーに追突し、乗車していた少年は意識不明の重体、運転手と四十代の男性は出血多量で死亡。字面にしてしまえば何ともあっけない、二日に一度は民放放送で見るようなありふれた事故だ。だけれども中に乗っていた人物が人物で、どうやらマスコミはそれを見逃してくれなかったようだった。ふらつく体を綱渡りの要領で平衡に保ちながら立ち上がり、小鳥のさえずる窓の外を覗き見てみると大量のカメラやマイクや記者や警備員が集団を成していた。
BGMとして病室に流れるオルゴールの音が再びベッドの上に寝転んだ僕を落ち着かせ、お陰でこれからどうするかをじっくり考えることが出来た。出来たには出来たが、かと言っていいアイデアが思い浮かぶとは限らず、そのご多分に漏れずに僕も途方に暮れた。会社を継ぐ気は毛頭無かったが、会社を潰す訳にも行かず、隠居生活を送っている祖父に泣きつくのもバツが悪かった。途中看護師が持ってきてくれた新聞の二面にはでかでかと僕らの事故のことが載っていて、あの時隣でタブレット端末を弄っていた父親が文字上でのみ生きる故人になってしまったことが信じられなかった。
ふとココアが飲みたい、と思った矢先に病室へ見舞いに来たのがかのコーヒー店のマスターだった。彼はとても落ち込んだ顔をしていたが、僕が一応は健常的に生きているのを認めると引き攣らせるように口角を上げた。彼はフルーツ籠と缶コーヒーを持っていたので、大人しくそれを受け取って口にしたがやはり苦くて飲めたものではなかった。舌の味蕾が死んでいくのを感じて、なぜか二粒くらい涙が零れた。
*
僕が自分の顔を歪め終えたと見て、マスターは一言だけ口を開いた。
「店を閉めることにしたよ」
僕は豆鉄砲を食らって数秒たじろいだ後、どうしてかと尋ねた。彼は何も言わず微笑んだ。父は彼のコーヒーが好きで、そのお陰で大した収益も上がっていないコーヒー店が存続していたという話は本当だったらしい。
「もし紅茶の店でも開いてくれるなら、僕が最大限バックアップするんだけど」
彼の微笑みは大きく花開いて、豪快な笑いへと変わった。やはり彼にはこの表情が似合うと思った。普段は大人びているのに、時たま子供らしい表情を見せる彼が好きなのだ。客と主人という関係が無くなった今、少しフランクに話せる僕らがどこか嬉しかった。
「これからどうするんだい」
「それはこっちの台詞だよ、坊ちゃん」
僕は閉口した。確かにそれはそうだった。
「あまり両親を困らせてはいけないよ」
彼は困ったような笑いを湛えている。分かっている、分かっている。
「他の社員だって君の帰りを待ち望んでいる。どの道君に逃げ道など――――」
「ごめん、もうやめてくれないか」
僕はその声を遮る。彼はその通りに言を留めた。分かっているのだ、そんなこと。だけれども、どうしてもやりたくないのだから仕方がないだろう。僕は今まで通り、普通に大学に行って普通に遊んで普通に勉強して、それから普通に就職して普通に文章を書きながら普通に結婚をして普通に生きたいのだ。それ以上の望みでもそれ以下の望みでもない。自らの道を自らで切り拓けないほど、悲しくて辛いことなど無いのだから。
マスター、いや、元マスターはリンゴを剥いて器用に切り分けてから僕の枕元にあるチェストの上へと置き、彼はそれを一切れ齧って席を立った。別れ際、僕は彼へ社長になる気はないかと聞いたが、一笑に付されて終わった。世界とは負の方向にも理不尽だが、正の方向にだって理不尽なのだ。
* * *
そして時は経て、今僕は一介の社長として生きていた。結局のところ断り切れるはずもなく、成すが儘に事は進んでいった。事業は基本的に社員たちに任せているので余り口出しはしないが、一度だけプロジェクトに進言してみたところその企画が見事に失敗へと終わったので、僕は疫病神としてこの会社に生きている。一応のところ経営は順調のようだった。今の僕の仕事は、いざとなったとき部下の代わりに腹を切って詫びることくらいだ。
時々、ふとあのコーヒー店での出来事を思い出すことがある。とは言っても特段大きな出来事があったわけじゃなくて、あの本を読んだなとかマスターとこんな話をしたなという程度だけれども。マスターは僕の頼みで暫く社長秘書として勤めてくれたが、ある日退職してコーヒー店を開いた。一度だけ訪れたが、面が割れてしまっている僕が足を運んだことで穏やかじゃない噂が立ってしまったらしく、それ以来彼とは会っていない。彼は元気だろうか。夏目漱石や宮沢賢治や村上春樹やトルストイやシェイクスピアやカズオ・イシグロ、それとヘミングウェイを読みながら彼と談笑した日々は二度と戻って来ない、そういった現実を噛み締める度に僕は息苦しくなって全身が痒くなる。
幸せとはいったい何なのか。時たま何かしらのインタビューを受けたり、あるいは社交世界に足を踏み入れるとき、周囲は決まって僕のことを「幸せだ」という。僕はそれに対してへらへらと笑って通り一辺倒に謝辞を述べる。これもあるいは幸せなのだろうか。
衣があり、食があり、住がある。この歳になるといろいろな物事を見るからだろうか、こういったこと一つ一つが幸せにカテゴライズされることは重々承知だった。そういったことに思いを馳せる度、人生というものに神を見るような気分さえする。だけれども、これらは幸せであって、そして幸せでは無い。結局のところ、一番の幸せというのは保障された自由のことを言うのだ。衣食住とはこれらの土台であり、恐れの無い自由こそが幸せなのだ。あのコーヒー店こそ、僕の自由であり幸せだったのかもしれない。最近は、ふとこんなことを考える。
僕は使用人を呼び、コーヒーを頼んだ。使用人は慣れない注文に戸惑ったようだった。
ミルクと砂糖をたっぷり入れた、特別薄いアメリカーノが飲みたかったのだ。
Hello, Happy World. やぎこちゃん @yagikoch
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