クトゥルフ神話 探索者たち 鈴森君の場合【書籍版】
墨の凛/ドラゴンブック編集部
第1話 孤島の王
1
――それは音もなく堕ちて来た。
僕よりも巨大で、マシュマロのように柔らかい物体が、泣き喚きながら奇声を発している。
「ざんぢわげでぇぇぇ!! ざんぢわげでぇぇぇ!!」
怨霊のような呻き声が響く中、階段下で仰向けに倒れている僕へ、それが執拗に絡みついてくるのだった。
どうやら僕は頭を打ったようで、その衝撃に目を瞑っていた。
「あの、君は?」痛みに耐えながら、情けない声で話しかけてみる。
「さんちわけてっ! さんちわけてっ!」
すると先ほどとは一変、とても可愛らしい声でモチモチとした
その突然の感触に気恥ずかしくなった僕は、あわてて体を引き離す。
乱れた黒いロングヘアーが僕の顔に垂れかかってくる、その隙間から見える彼女の嬉しそうな泣き顔は、誰がなんと言おうと美少女だった。
彼女はつぶらな瞳に涙を浮かべながら呟く。
「さんちわけてっ」甘えるような声でせがまれると断われない。
「さんちって?」
「さんちちょうらい」彼女は泣きべそをかきながらも、上半身を引き起こした。
紫色の髪留めと共に綺麗な髪がサラサラと纏まっていく、顔を追おうとすると黒いカーディガンの上からでも、そのモチモチがポョンポョンと揺れるのが見えた。
「今日からお世話になる
身長、この場合は座高になるのだろうか? 僕よりも大きい美少女へ自己紹介をしてしまった。
「キョウちゃん、さんちもらうねっ!」彼女はそう言うと、優しく微笑みながら僕のほっぺに両手を添えてくる。
繊細でしなやかな指の感触が頬をつたう。
ふわりとする、その体感にまんざら悪い気はしなかった。
彼女の唇がなにやら言葉にならない音を奏でている、それを聞き取ろうとしているうちに、僕の意識は遠ざかっていった。
――懐かしい
どの女子グループにも属さず、学校も休みがちで、いつも教室で一人本を読んでいたのを覚えている。
小学四年生の時だっただろうか? 誰かが彼女を某人気アニメにでてくる妖怪『山姫様』に似ているとからかい始めた。それがきっかけだったと思う。彼女はイジメられるようになった。
彼女はもともとイジメられやすそうな性質ではあったが、イジメられていい存在ではなかった。
この世にイジメられていい人間など存在するはずもないが、その寂しそうな瞳は特にそう感じさせるものだった。
けれど当時の僕は、そんな当たり前のことを考えられる人間ではなかった。
親父からの「女の子には優しくしとけ、将来どんなベッピンさんになるかわからんぞ」という忠告を真に受けていたわけでもない。
彼女に話しかけたのは、爺ちゃんの影響が強かったと思う。
まだ生徒が残る放課後の教室で、僕は彼女に近づいた。
「伊吹は山姫様なの?」周りにいたクラスメイトたちのせせら笑いが聞こえる。
それでも、彼女は僕に大きな瞳を向けてくれた。
「ん……ちがうよ……」小さく弱かったけれど、そう返事をくれる。
「そうなんだ、残念だなぁ。僕さ、本物の山姫様に会いたいんだよね」
「会ってどうするの?」怯えながらも答えてくれる。
「お話を聞きたいんだ。うちの爺ちゃんが言うにはね、妖怪は神様の化身ってことが多いんだって。例えば天狗は羽の生えた昆虫型の宇宙人でね、その宇宙人を神様と信仰しはじめたのが……」
それからは一方的に話し続けたと思う。
なぜか彼女のポカンとした顔だけは覚えている。
それから僕は彼女と二人でよく遊んだ。最初の頃は僕から声をかけていたが、一緒にいればイジメられないと思ったのか、しばらくすると彼女の方からも誘ってくれた。小学生の頃の僕は、小難しい事を長々と話すちょっとおかしな奴という立ち位置で、クラスのイジメっ子たちも僕には近づこうとしなかったのだ。
彼女とは、爺ちゃんの話を一緒に聞いたり、神社やお寺の境内で怪しい儀式ごっこなどをして遊んだ。
僕にとってもオカルト趣味に付き合ってくれる唯一の友達だったのだ。
そして、一緒に遊んでいれば子供ながらに彼女が複雑な家庭環境に置かれていたこともわかる……でも、僕は楽しい時間を壊したくなくて何も聞けず、何もしてあげられなかった。
そんな彼女も小学校卒業と同時に東京へ引越して行った。
別れ間際、赤色のワンピースを着た彼女が「キョウちゃんの大好きな山姫様だよっ!」と車から身を乗り出し、泣き笑いしながら手を振っていたのを覚えている。
夕焼けに染まる彼女の姿は、本当に神々しく美しかった。
――懐かしい
それを先ほどの美少女が頭上から覗き込んでくる。
「あっ……あのぅ、恭平くん、大丈夫かなぁ?」
「伊吹?」そうたずねると彼女の顔が嬉しさにあふれた。
「覚えててくれたんだぁ」
「うん、もちろん」ものすごい美人になっていた。
たった三年でこんなに変わるものなのだろうか?
親父の忠告は聞いておいて損はないなと確信した。これから女の子には優しくしよう。
僕はゆっくり上半身を引き起こす、女の子っぽい可愛い部屋を期待して。
明かりは机に置かれたロウソク一本だけ……先ほど大家さんに挨拶した時は朝方だったので、おそらくまだ昼前だろう。そうあって欲しいのだけど窓には漆黒のカーテンがかけられ外の光を遮っている。
彼女自身も真っ黒なワンピースを着ているせいか、ご満悦な顔面だけが宙に浮かんでいるように見える。正直不気味だ。
部屋を見渡すと壁じゅうが暗幕で覆われている。僕が座っている布団の周りにも、これまた大きな黒い布が敷かれ白いマジックか何かで得体の知れない円状の幾何学模様が描かれていた。ようするに魔法陣の真ん中で僕は寝かされていたのだ。
美人となった幼馴染との再会、その喜びは瞬くまに消え去った。
――やばい、逃げないと!
「もっ、もう帰るね」
「あっ、恭平くん、お隣だよね、わたし運ぶよっ」
思い出とは違うキビキビとした話し方。呆気に取られていると、彼女は僕を布団ごと一気に持ち上げた。
「あの、伊吹さん?」その怪力にとまどい思わずさん付けで呼んでしまう。
「大丈夫、大丈夫」何が大丈夫なのかよくわからないが、自信ありげな姫君に布団ごとお姫様抱っこされ運ばれていく。
借りてきた猫でも運ぶみたいに軽々と、廊下に出て隣の部屋へ。
「恭平くん、鍵は?」
彼女はそう言いながら赤ん坊をあやすかのように優しくゆさぶってくる。よちよちとゆさぶられているとモチモチが顔にポヨポヨと当たり、その肌触りが……たまりません。
先ほどはあわてて離れてしまったが、今はその押し当てられる触覚に十分な熱量をもらってからポケットの鍵を差し出した。
窓からの太陽の光が嬉しい。
八畳のワンルーム、先に運ばれた段ボールや机、本棚たちが隅の方に集まっている。
いつの間にか髪留めが黄色に変わっていた彼女は部屋の真ん中で堂々と仁王立ちになり、布団に包まれた僕を静かに降ろした。
早く追い返そうと早口で「段ボールに僕の布団入ってるから」と言うと、
「でも、もう少し様子をみた方がいいと思うょ」と顔も合わさず、ソワソワキョロキョロしている伊吹に返された。
意味もわからず、立ち上がろうとするとフラっと体が傾き倒れかける。それを伊吹がとっさに支えてくれた。
「ほらっ! だから言ったのにぃ」
「僕に何かした?」怪しい薬でも盛られたか? 自分の唇に指を添えるとそんな恐怖が頭をよぎる。
「恭平くんから、その……さんちわけて、もらっちゃいましたっ!」むぎゅぅと目を閉じながら、やっちゃった! という雰囲気で答えてくれる。
「さんちって?」
「えっ? さんちは……さんちだよ?」彼女はキョトンとした顔で答えにならない答えを返してくれた。それから僕が苦い顔をしているのに感づいたのか、
「もしかして恭平くん、京太郎先生の研究を……わたしたちで完成させるって約束、覚えてないのかな?」と不安そうに聞いてきた。
鈴森京太郎、僕の爺ちゃん。高名な民俗学者だったが、ある日突然『真理を解さぬ者を抹殺し、神々の支配を克服せねば、人類に未来はない』なんて意味不明な学説を真剣に唱え出し大学を追われた。晩年も部屋に引きこもり奇妙な研究を続けていた変人。だが僕にとっては話の面白い優しい爺ちゃんだった。
爺ちゃんの話はどこか真に迫る物があり、聞いていてハラハラドキドキするのだ。
しかし爺ちゃんは、もういない。茨城県の
目撃者が話すところによると、爺ちゃんは突然奇声を上げ波止場から海に飛び込んだらしい。
休暇を取り、家族総出で陰州升に爺ちゃんを捜しに行ってる間に、家の離れ、爺ちゃんの使っていた書斎が何者かに放火され、全焼したのは苦々しい思い出だ。
「わたしは続けてるよ……」
伊吹の言葉が僕を現実に引き戻す。
「恭平くんからもらった先生の本……。今日もがんばって、危ないページを読もうとしたんだけど、しょの、その……失敗して正気値減らしちゃったけど」彼女は、うつむきながらそう言った。
そう言えば、大好きだった彼女が引越しする時、餞別だと言って、爺ちゃんの書斎から適当に盗んだ本をプレゼントしたのを思い出した。
おそらく伊吹はあれから三年もの間、ずっと爺ちゃんのあの奇妙な研究を続けていたのだ。
ひいた。中二で発症するというあれか?
けど、安心した。
「爺ちゃんの本まだあるんだ?」
放火で遺品は全てなくなった。今となっては唯一の形見だろうか?
「うん、持ってくるねっ!」そう言って、彼女は嬉しそうに部屋を出て行った。
――
これが著しく減少した者はすなわち狂気にとらわれ、この世で言うところの廃人となる。
爺ちゃんがそんな話をしていたのを思い出す。
それって人から分けてもらえるものなのか?
いやいやそういう設定なだけで実際に正気値とかあるわけがない。
開けっ放しになったドアをぼんやりと眺めながら彼女の帰りを待つ。
爺ちゃん以外の影響を受けていなければ、ただのオカルト趣味だ。そう心配する事もないだろう。
「むひひひひひひ、やっちゃ! キョウちゃんが来てくれちゃ、グフフフフフ」
廊下越しに隣の部屋から、興奮したラッコのような声が聞こえてきた。
もしかして伊吹はすでに正気値がないんじゃないのか?
そんな不安を押しやるように、手早く布団をたたみ、段ボールからクッションを二つ取り出した。
次に彼女が部屋に入ってきた時、僕は伊吹の怖さを思い知った。
乱れたロングヘアーは綺麗にくしを通されたのか、艶っぽくなびいている。
服装も真っ黒な服から、より胸が強調される淡い朱色のセーターに着替えていた。
彼女は本当に美人でモデルのようだった。
「恭平くん、こういう服好きだよね? 山姫様だょ?」
頬を染めながらそう聞かれれば、
「はい、大好きです」いや別にもう好きではないが、こう答えるしかなかった。
用意しておいたクッションにその長身の体をちょこんとのせた彼女は1冊の本を差し出す。
『クトゥルフ神話 著:鈴森京太郎』
重厚な本からは付箋がびっしり突き出ている。
「恭平くんは
「特徴?」
「うん、探索者の特徴」
僕は、伊吹が向けてくるキラキラとした羨望の眼差しに耐えられず、ハッキリ言っておくことにした。
「伊吹、悪いんだけど、僕こういうこと卒業したから」
「えっ、卒業って?」
「オカルト趣味はやめたんだよ」
「オカルト? 恭平くん、何を言ってるの?」
心配そうに僕をみつめてくるが、心配になるのはこっちだ。
「うん。だからもう良いんだ。爺ちゃんの本、大切にしてくれてありがとな」
そう言い聞かせると、彼女は目を伏せ、ほっぺたを膨らませる。なんだろう? このいちいち可愛い生き物は。
「いいいいっいいもん、恭平くんが真理への探求を忘れたのなら思い出させてあげるもんっ!」
そう言って凄い勢いで、本の付箋をたどると、星の中にへんてこな
「あどぉ おーず あぅどぁ おぉず ほどぅかめいぎぃ」
そう言えばさっき、なぜ気を失ったんだろう?
そんな事を気にしながらも、昔は二人でよくこんなことをしていたなぁと懐かしい思い出に浸り、彼女が納得するまで好きにさせてあげた。
唱え終わったのか、僕の右手を両手で優しく包むと「ふぅ」とため息をついた。
彼女はドヤ顔でこちらを凝視している。
僕より目線の高い美少女と手を握り合い、目と目を合わせていると、ドキドキして階段下の奇行も忘れてしまいそうだ。
「……」
「……」
長い沈黙が流れる。
先に声を出したのは彼女だった。
「なにか変化、ないかな?」
「まったく」
「うぅ? 恭平くんには、わかりやすい特徴が出現するはずだって、先生が言ってたんだけど……」
「だから特徴ってなにさ」
「うぅ……色々あるんだけど、えと、わたしのは……その……あの、内緒……」
なぜか急にうつむいて、何かをごまかそうとする山姫様。それじゃ話にならないだろうに。
もう流石にいいだろうか?
「悪いんだけど、いまから荷物整理したいから。これからまたよろしくな」
と伊吹を無視して段ボールを開ける。
【
何個もある段ボールからいきなり目当ての物を取り出せた。
それを机に運ぶ――
【
危ない、マウスを落としてしまった。
包んでいた新聞紙を丸めて段ボールへ――
【
入らなかったゴミを拾いあげ、また投げてみる。
【
なっ、なんだこりゃ!? 気のせいかと思ったけどそうではない。
何か行動するたびに判定というメッセージが頭をよぎり、まるで脳内にいる別人格が何かを転がすコロコロとした感覚と共にその現実を認識させられる。しかも強制的にだ。
どうでもいいことを強烈に、親父から年の離れた妹が出来たと告知された時の様な、まるで大ニュースの当事者のように認知させられるのだ。
その不愉快な感触に僕は辺りを見渡しながら原因を探るが、これはいつの間にか部屋の真ん中でしょんぼりと体育座りをしている美少女に聞くしかないだろう。
「伊吹、僕に何か催眠術でもかけたか?」
固まっていたそれがビクッと反応する。
涙を溜めた上目遣いでこちらをみつめてくる。
「な、何かおきたのかな?」
「何かするごとに変なメッセージが頭の中に浮かぶんだけど」
「どっ、どんなの!?」
「
それを聞いた彼女は飛び上がって僕に抱きついた。
「やっぱり恭平くんはすごいよっ!」
「いや、説明してくれよ」
「た、たぶんだけど、超レアな特徴だょ!」
「そんなことを言われても、わずらわしいだけなんだけど」
僕はそう言いながらも、彼女の芳香と、服越しに伝わるその優しい柔らかさに意識が集中し、会話をほとんど聞き取れずにいた。その最中。
彼女は突然、衝撃的なセリフを真顔で真面目に言い放った。
「恭平くん、お願いです。わたしたちと世界を救ってくださいっ!」
「はぁ?」
僕は意味も解らず、怪訝そうな返答をしてしまう。そのせいか、彼女は慌てて体を引き離すと、真っ赤なドヤ顔で何かを訴えた後、部屋を飛び出して行ってしまった。
僕が呆然としていると、
【
隣の部屋から「うぅ〜キョウちゃん、うぅ〜抱きついちゃったょ〜」と足をバタバタさせる音と共に、ぼやき声が聞こえる。
これは僕の妄想なのか? 現実なのか?
あまりに突拍子もない出来事の連続に、頭がついていけない。
すっかり疲れてしまった僕は、脇に寄せておいた伊吹の布団に倒れ込んだ。
懐かしい香りを吸い込んで頭がピンク色に染まる中、爺ちゃんの本が目に入った。
後で返さないと……。
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