3つのジムノペディ

フカイ

第1番 ~ゆっくりと悩める如く

#1

 ぼくが彼女のことを密かに「ミセス・メルセデス」と呼んでいることは、誰も知らない。

 もちろん、ミセス・メルセデス自身も。


 月の偶数の週の水曜日。

 ミセス・メルセデスはぼくの古いマンションに、自慢のメルセデスでやってくる。

 メルセデス、と一口に言ってもいまはピンキリだが、彼女のクルマはもちろん、ピン、のほうだ。ロングノーズ、V型12気筒の超強力なエンジンを持ち、しかしシートは2座、必要とあればスイッチひとつで屋根の開放が出来るカブリオレ・クーペだ。


 どちらかというと、エクゼクティブというより、少年の心を持つ大人の男性のために作られたそのスポーツカーのメルセデスに、しかしながら彼女は心憎いほど良く似合う。


 スカートははかないパンツ姿。自然にカールする豊かな栗色の髪。大きめのサングラスと、胸にパールの一粒。


 ぼくの部屋にやってきた彼女はいつも、いささか現実離れした姿でそこにいる。

 そしてぼくを、静かに性的に調する。


 彼女は別にサディストでもなければ、女王様などではない。

 ただ、その家柄と持って生まれたオーラは、自らを律し、自然と人をべる。抗えるわけなどない。


 リビングに置かれた安楽椅子に彼女は座り、ぼくはその前に正座する。

 彼女はぼくの鼻先に、その細い右脚を伸ばす。

 黒いストッキングに包まれたくるぶしには、美しい蝶の刺繍と、キラキラ輝く宝石。

 ぼくは両手で彼女の脚を捧げ持つと、そっとそこにくちづける。


 「ゆっくりね」


 優しい声で、彼女は指示する。

 ぼくはミセス・メルセデスの意図をしっかりと汲み取り、親指、人差し指、と一本ずつ、ストッキング越しに彼女の脚の爪先にくちづけてゆく。


 左右の脚、十指へのくちづけ。

 それが彼女との性行為の開始のくちづけだ。

 ふつうの恋人たちが、マウス・トゥ・マウスでするところを、ミセス・メルセデスはこうしてストッキング越しに脚の指にされることをぼくに望んだ。


 「普通など、お嫌でしょ?」


 指への丁寧な挨拶が済むと、パンツを脱がし、ガーターベルトを外す。

 そして彼女の長い脚に、じかに触れることが許される。


 「おねがい、頬ずりして」


 彼女の言葉に、ぼくは捧げ持つそのすねに、そっと頬ずりする。

 部屋は静かにエア・コンディションされ、窓の外からは平日午後の都心のシティー・ノイズが微かに聞こえてくる。

 膝の裏に吹かれたパフュームの香りが、ぼんやりと鼻の奥に広がる。

 まるで南米インディオの祝祭用麻薬物質のように、その香りはぼくから理性を奪い、正常な判断力を失わせる。


 彼女の脚に頬ずりする間、ぼくはいつも、深海に潜むチョウチンアンコウのことを思う。

 真っ暗な海の底で、チョウチンアンコウはその額から伸びた細長い竿状器官の先を発光させ、小魚を集めては、一瞬で捕食する。

 ぼくにはミセス・メルセデスを捕食することなどできない。ただ、偶数週水曜のこれといった特徴ない午後の光線の中、目を閉じて、向うずねに頬ずりを感じている彼女のハートの暗黒に、微かな灯火ともしびを点灯させることにだけ、心を砕く。

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