入瀬インワンダーランズ(仮)

にぽっくめいきんぐ

入瀬、仮想地球(ワンダーランズ)へ

プロローグ 立法事実、ありません





 そのデバイスは、ハッキングされています。





 画面上部に備えられたカメラが、使用者の顔を映し出しています。


 男性。ホームベース顔。40台半ばと推定されます。

 ネクタイに緩みが無いのが、彼のそつの無い仕事ぶりを伺わています。


 しかし、サイバー世界のセキュリティについて、彼は門外漢と言えるでしょう。

 なぜなら、自身の手元の情報機器に、『ソレら』が仕込まれている事には、気づく気配も無かったからです。


 内蔵のマイクロフォンで、音声も録られています。

 その事にも、彼は気づきません。


 ホームベース顔の男性は、にごった声で言いました。


「委員会の馬鹿どもが」


 文脈コンテキストから推測すると。

 委員会とは、内官房直下の組織『次世代検討委員会』の事を指しています。


 その参画メンバーは、大学教授、センター長、一部上場企業の会長、弁護士等の専門家など。すなわち、産学双方の、一線級の人材が一堂に会する議論の場です。


 その面々を「馬鹿ども」と罵り得る立場に、ホームベース顔の彼は居たのです。


 東大卒のエリート、キャリア組。 

 熾烈なポスト争いと、上下からの激しい突き上げとが、これから本格化する。


 そのような、『上へと至る狭き門』の入口に立つ彼。

 彼の下には、一通の報告書が、テキストファイルで届いていました。


「また、くだらない法律案をあげてきたな。人間の新しい形? 人の第3類型? である? ふん、笑わせないでくれ」


 彼は、自身のノートPCに、キー入力を監視する『キーロガー』が仕掛けられている事に、まだ気づいておりません。


「委員会のようなとは違う。我々は遊びでやってるんじゃないんだ」

 そう悪態をつきながら、彼は別のテキストファイルに、次のように書き込みました。


『次世代人類検討委員会提示の法律案、人間のC類型柔軟な人間規定については却下すべきである。その案をサポートする立法事実の呈示が、充分に成されていないからである』



 立法事実。



『法律の目的と手段を基礎付ける、社会的な事実』を意味する概念です。


 

 不完全な神ならぬ人間が法を作っているのですから、法律改正のベースとなる事実は、極めて重要であると言えます。


 憶測や願望のみに基づいた立法は危険。


 その、法改正の『根拠となる事実』が足りない、と、彼は記載したのでした。

 キーロガーの存在には気づかずに……。


 実際。


 次世代人類検討委員会が提出した改正案。


 その中に示された立法事実は、ほとんどが

 現実一致リアリティレベル80%台前半の『』で起こった事実に過ぎませんでした。


「せめて、リアリティ90%以上の仮想地球データで裏付けしてこいよ……」


 鼻息1つ。

 ホームベース顔の彼は、その法案に、早々に却下フラグを立てました。


 そして再び、キーボード入力。

 先刻入力したばかりの文章を


 法律案の却下理由を起案するのですから、「立法事実が無い」等と、直接的すぎる文章を公に出すわけにはいきません。


「馬鹿者達は、正論、正論とうるさいからな……」


 もっともらしい、批判や炎上の起こりにくい『適切な』理由付けの文章を、スルリひねり出す。概念を操る官僚の天才性、芸術性をひそかに誇示しようとするがごとく。


 その芸術性に気づき得るのは、一部の『同等程度の思考力を神から与えられた人達』と、キーロガーの先にいるハッカーと。


 あとは……ホームベース顔の彼が用いるITシステムぐらいのものでしょう。

 芸術性を理解するアニマを、ITシステムが有しているのであれば……のことですが。


 そして人間は、天才であっても、万能全知の神では、やはり無いようでした。


 自身のノートPCがハッキングされていることも。

 法律を最終的に決めているのは、ことも。


 優秀な彼は、いまだ気づいてはいなかったのです。

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