蓮と空

 少年とは古代蓮の里から一緒らしかった。


「美しかったですね」彼は遠い目をして言った。「僕の郷里にあんな景色はない。一面に咲いた鮮やかな花。日が高くなって、徐々にしぼみはじめる様さえ神秘的でした」


 古代蓮の里は埼玉県行田市にある。地元で発見された古代蓮は行田蓮と呼ばれ親しまれていた。園内には、他にも世界各国の蓮が栽培されており、来訪者の目を楽しませてくれる。蓮は午後には花がしぼんでしまうため、早い時間に訪れる必要があった。その日、わたしたち夫婦は熊谷から秩父鉄道秩父本線で行田市駅に向かい、シャトルバスで古代蓮の里を目指した。近くのうどん屋で昼食を取り、駅に引き返してきたのが午後一時。少年とはそこで出くわした。


 ここは行田市駅の待合室だ。板張りのレトロな外観で、窓際にあずき色のベンチがずらりと並んでいる。電車が出たばかりで、待合室にはわたしたち夫婦と少年の姿しかなかった。秩父本線は田舎と田舎を結ぶ観光路線で、気まぐれに駅を降りると、次の電車までずいぶんと待たされてしまう。


「君はどこから?」夫が尋ねる。「僕たちは熊谷なんだ」


「未来から、と言ったら信じますか」


 わたしたち夫婦は目を見合わせた。


 少年の面立ちには、どこか異国を感じさせるものがあった。彫りが深く、肌はこんがりと焼けた小麦色、目の色素が薄く、ありふれた黒髪ですらもエキゾチックに見える。こんな日本の田舎より、地中海をバックにオリーブの実でももぎっている方が様になりそうだが、未来人にふさわしい風貌かどうかはわからなかった。身なりも普通に見える。リネンのシャツに黒のジーンズ、首からはロケットを下げている。


「未来はいまちょっと大変なことになっていましてね」


「へえ」夫が相槌を打つ。「どういう風に?」


「宇宙人に支配されてしまったんです」


「それは大変だ」


「でしょう?」少年は皮肉な笑みを浮かべた。「宇宙人はとんだお節介焼きのようです。地球を観察すること数百年。地球人の愚行にほとほと呆れかえって、自分たちで統治をはじめることにしたとのことです」


 宇宙人が支配する地球はディストピアの様相を呈しているらしい。飢餓や戦争は根絶されたが、人間に自由は認められず、宇宙人の言いなりになっているというのだ。労働、結婚、政治。人間に主権はなく、プラトン言うところの賢人王が君臨する管理社会というのが最も妥当な評価のようだ。


「それは悪いことなのかな」


「悪いですよ。こんなのは間違ってる。いくら世界が平和とはいえ、それは人類が勝ち取ったものじゃない。与えられた平和なんです」


「それでも平和は平和だ」夫は言った。「この時代のことを知ってるかい? 地球のどこかでは今日も戦争が続いている。先進国だって、常にテロの脅威にさらされ、その戦いに終わりは見えない。経済格差は広がり続け、一部の富豪に対して無数の生活困窮者が奴隷のように搾取されている」


 少年は首を振った。


「あなたと奥さんは幸せだからわからないんだ」


「それは否定しないよ」


 少年はふらりと立ち上がり、ポケットに手を突っ込んだ。


「そういえば、君は何のために過去へ?」夫は尋ねた。「まさか、未来を変えるためだったりするのかい?」


「そうですね。はじめは興味本位でした。でも、いまは決意が固まった。僕は未来を変えなければならない」


 ポケットから手を抜くと、ナイフが握られている。それは、この時代にありふれたもののように見えた。


「何をするつもりだい」夫がわたしをかばうようにして立ち上がった。


「言ったでしょう。未来を変えるんです。あなたに用はありません。用があるのは奥さんだけ。彼女には死んでもらわなければならない」


「どうして」


「どうしてもです」


 少年は夫に向かってナイフを振りかざした。夫は紙一重で交わし、ナイフを持った手を取ろうとする。しかし、少年の膝蹴りが鳩尾に命中し、夫はその場で体を丸めた。すかさず少年が夫の頭を掴み、ナイフで喉笛を一閃する。待合室に血飛沫が舞った。わたしは夫の名前を叫びながらその体にすがり、支えようとする。しかし、流れ出す命を元に戻すことはできない。夫は虚ろに目を見開き、わたしの名前を繰り返しつぶやいていた。


 どうして。


「あなたが生きていると困るんです。いえ、より正確にはあなたに子供を産まれては困るんですよ。もうお腹の中にいるんでしょう?」


 少年が言うと同時にナイフをかざす。わたしは慌てて夫から身を離し、待合室の出口を目指した。


「逃しませんよ」


 少年が迫ってくる。体格差から、逃げ切るのは困難と思われた。わたしは不意を突くようにして振り返り、虚を突かれた少年の鼻に下から掌底を叩き込んだ。少年が顔を押さえるようにして後ずさる。わたしはその隙を見逃さなかった。落としたナイフを拾い、突進するようにして、少年の胸に深々と突き刺した。


「そうか」少年はつぶやいた。「これはこれで望み通りか……」


 自分でナイフを抜くと、窓ガラスを真っ赤に染めながら、その場に倒れ込む。しゃがみ込み、様子を確認すると、彼はロケットを示した。開けると写真が入っている。そこに写っている老婆はどことなくわたしに雰囲気が似ているように思えた。


 彼は苦しそうに話しはじめた。古代蓮の里からわたしたちをつけていたこと。そこで見た花の美しさ。


「未来にはもうあんな景色は残されていません。僕はきっと、それが妬ましかった……」そして最後にこうつぶやいた。「さよなら、おばあさん」




 古代蓮の里は、多くの人でにぎわっていた。外国人の姿も多い。わたしは思わず身構え、少年の日に焼けた顔を探していた。

 

「どうしたんだい? せっかく蓮を見に来たのに」


 夫が微笑む。わたしは何でもないとごまかして、足元に目を落とした。道の両側に広がる古代蓮の池。ピンクの花弁がまっすぐに空を向いている。


 わたしは自分の腹を撫でる。もし、そう遠くない未来に宇宙人が地球に攻めてくるとしても、この子を産むべきだろうか。


「なんだい、それは」夫は呆れたように笑いながら、「でも、そうだね。僕は産んでほしい。無責任かもしれないけどそう思う。そのことで子供に恨まれるかもしれないけど、そう思う」


 夫はしゃがみ込み、古代蓮にカメラを向けた。ブログにあげるための写真を何枚も撮る。


「僕たちの先祖だって、幸せに暮らした人たちばかりじゃないだろう。むしろ、不幸だった人の方が多いかもしれない。でも、そういう人たちのおかげでいまがあって、僕たちがいる。自分勝手かもしれないけど、それはとても尊いことだと思う」


 わたしはうなずいた。夫の手を取り、風に揺られる蓮の中を歩いて行く。見上げれば、そこには七月の抜けるような青空が広がっている。いまも、この空の向こうで宇宙人がわたしたちを監視しているのかもしれない。地球人はさぞ愚かに見えるだろう。それでもわたしたちは生きていくしかない。子供たちのためによりよい未来を願いながら。

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