迷える子羊

宮倉このは

迷える子羊





「あぁ、牧師様。どうかお助け下さい」

 懺悔をしに来たのだろうか、二十歳くらいの若い女性が牧師の前に膝まづく。胸の前で握られた両手は震え、顔色も悪い。その心の中に収まりきらない何かを表に出すまいと、必死に耐えているかのようだ。

 金の髪を持つ見目麗しい牧師が彼女を見て、澄んだ青い瞳を慈悲深げに細める。

「どうしましたか」

 口元にたたえられた優しい微笑みを見て、女性は張り詰めていた糸が切れたのか、顔を覆って泣き出してしまった。

「私、あぁ……」

 牧師は彼女の前にしゃがみ込み、細い肩をそっと包み込む。その温もりに、徐々に震えが消えていった。

 少し落ち着いた様子の女性に、牧師は教会の祭壇を見るように促した。

「牧師様……」

「さぁ、私と一緒に神様に申し上げましょう。大丈夫、神様は決して貴方を責めたりしません」

「は、はい」

 女性は教会の最奥にあるキリスト像に向かって十字を切ると、手を組んだ。

「神よ、罪深き私の声をお聞き届け下さい。私は、好きになってはならない人を、好きになってしまったのです」

 罪悪感に耐えかね救いを求める声が、静かな教会に響き渡った。

 人を好きになるのに資格などなく、また罪になる筈がない。

 例外を除いて、だが。

 その例外を、彼女は侵してしまったのか。

「貴方の好きになってしまった人、と言うのは」

 牧師の問いに、戸惑いを見せる女性。一瞬俯きかけたが、神の前で嘘はつけないと覚悟したのか、再びキリスト像を見上げた。

「既に、家庭のある方です。ですから、この想いは決して報われる事はないと、何度も自分自身に言い聞かせてきました。でも、駄目だった。悪魔の誘惑に勝つ事が出来ずに、私はとうとう彼に……想いを告げてしまったのです」

 瞳からはらはらとこぼれる透明な滴は、罪を犯し許しを請う彼女の懺悔のようだった。

 涙を流し続ける彼女に、牧師は静かに聞いた。

「それで、相手の方はなんと」

「何を馬鹿な事をと、無下にあしらわれるのを覚悟していましたが、彼の答えはその逆でした。彼は、私の想いを受け入れてくださったのです」

 けれど、相手には妻も子供もいる。それをどうやって乗り越える気なのか。

 いや、それこそがここに来た理由か。

 牧師は、女性の言葉を待った。

「彼は奥さんも子供も捨てて、私をどこか遠くへ連れて行ってくれると言ってくれました」

「貴方は、その言葉を聞いてどう思いましたか」

 女性の頬が、心なしか赤くなった。

「天にも昇る気持ちとは、この事を言うのでしょうね。とても、嬉しかったです。でも」

 再び、彼女の瞳に陰が走る。

「でも、どうしても考えてしまうんです。捨てられてしまう奥さんや、お子さんの事を。彼女達の事を思うと胸が痛くて、引き裂かれてしまいそうになるんです!」

 女性はすがるような眼差しで、牧師を見上げた。

「牧師様、私は一体どうしたら良いのでしょうか。罪深き私を、お導きください!」




「はぁ~……」

 女性が帰った後、誰もいなくなった教会で牧師は深くため息をついた。机に突っ伏した今の彼には、先刻まで女性を優しく諭していた面影は微塵もない。

「あぁは言ったけど、あれで本当に良かったのかなぁ」

 なんとかそれらしき言葉を言ってなだめたら、女性はすっかり感激して何度も頭を下げて帰っていった。

 そんな彼女の態度が、余計に牧師の心を締め付ける。

 いつも、そうなのだ。懺悔に来たと思った人間のほとんどが、いわゆる人生相談と言うものを牧師に持ちかけてくる。

 だがこの牧師、実は酷く小心者でかつ優柔不断だったりする。さらに悲しい事に、牧師という立場上信者に、

「そんな事は、他の所へ行って聞きなさい!」

 などと、声を荒げて言う事は出来ない。

 結局、それらしい事を言ってごまかすしかないのだ。

 その後になって必ず襲ってくるのが後悔の嵐と、もう一つ。

 愚痴りたくなる症候群、である。

「大体さー、不倫しちゃったけどどうしようだなんて相談されてもさー、僕に分かるわけないじゃん。そーゆーのはさー、もっと経験豊かな人に聞いてくれよって感じー?」

 今日も一通り愚痴を言い終えて、牧師はちらりとキリスト像を見上げた。

「ねー、キリスト様もそう思いません?」




 キリスト様が果たして「そうだね」と言ったかどうかは、定かではない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

迷える子羊 宮倉このは @miyakura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ