第二章 佐藤朧

第十話 もう一人の転移者

 英語が読めないという大きな壁にぶつかった紫音。渡された魔法書を読むよりも、まずは英語と格闘せざるを得なくなった日より数日前。

 紫音がこの世界に落とされた時とほぼ同じ日同じ時間に、この世界に飛ばされたものがいた。


「なんだよ、これ」


 たくさんの人が行きかい、ガヤガヤと騒がしい大通り。その地面は、少しいびつな石畳。

 立ちすくむのは、黒いTシャツにグレーのスウェットを履いた男。佐藤朧(さとうおぼろ)だ。

 黒い髪は前髪だけ異様に長く、目元を覆い隠してしまっていて、朧の顔を全て見ることはできない。ただ、呆然と立ち尽くしたまま発せられた声には、驚きと恐怖の色がにじんでいた。


 買い物途中だった朧の持ち物は財布だけ。靴は履いているが、それ以外今は何も持っていない。


「夢? 夢、だよな……」

「邪魔だよ!」


 ドンッと背中にきた衝撃。


「あ、すみませ――」


 反射的に慌てて頭を下げた朧は、衝撃を受けたことに気づくと硬直した。

 だがそれも、ベッドから落ちただけかもしれないと思い直す。買い物しようとしてたところからがきっと夢で、自分はまだベッドの中だと必死に思い込む。


「いつまで突っ立ってんだ!」

「え、は……すみませ――」


 再び響いた怒声に、朧は二度目の謝罪をする。

 だが、辺りには誰もいない。


「ここだここ! 下だ!」

「し、た?」


 同じ怒鳴り声。導かれるように下を向けば、そこには立派なヒゲを蓄えている体格のいい男がいた

 赤らんだ丸い鼻をした男は、アイボリー色の眉を器用にあげてまだ怒っているようだが、その言葉は朧の耳には届かない。


 朧の身長は、平均男子よりも少し低い。百六十五センチくらい。今目の前に立つ男性は、そんな朧の視界に入らないほど小さいのだ。

 だが、朧よりもたくましく太い腕や足を持つその男。ファンタジー小説とかでよく登場する、ドワーフの特徴と一致する。


「おい! 聞いてるのか?!」

「っ……?!」


 男が、朧の腕を叩いた。

 男からしたら軽く叩いただけなのかもしれないが、運動が苦手で何にも鍛えたりしていない朧には、鍛えた男のそれはかなりの重さを伴っていた。

 わずかに感じた痛みに眉を顰め、そして朧はその痛みに気づくとその表情はひどく歪んだ。


「す、みませ、ん」


 霞む視界。必死に目を閉じないように堪え、途切れ途切れに声を出した。

 気づいてしまったのだ。

 気づきたくなかったこの事実に。


「おい、お前……」

「僕は、どうしたら」


 朧のその様子に気づいたのか、男はうろたえる。消え入りそうな朧の声を近くにいることで聞き取り、しょうがないかと頭をかいた。

 男の名はイグニス。

 今朧の立っているところは、イグニスが武器や防具を作る工房の扉の目の前だったのだ。


「とりあえず、入れ」


 このままここにいても拉致があかない。自分が加害者にされでもしたら笑えないと、イグニスは工房の方に朧を招き入れた。

 未だ呆然としている朧は、促されるままにイグニスの工房に足を踏み入れ、ただただ無言で立ち尽くしている。


「茶だ」


 一度部屋の奥に消えたイグニスは、湯気の立ち上るコップを二つ手に持って戻ってきた。一つを朧に押し付け、持ったことを確認すると作業用の椅子に座る。


「すみません……ご迷惑を――」

「謝ることしかできねぇのかおめぇは」


 唇を引き結んでいた朧が、ようやく音を出した。コップから伝わってきた熱が、現実に引き戻してくれたのかもしれない。

 ぎゅっと握ったカップ。

 震える声で、それでもやっと音になった言葉は、イグニスの鋭い言葉で一蹴される。


「人の工房の前で突っ立って、しまいにゃ意味不明なこと言い出しやがる。謝るくらいならさっさと立ち去りゃいいんだ」


 イグニスにも、朧に何かあったであろうことはさすがにわかっていた。明らかに挙動も言動も不審だったからだ。だが、謝られるのは筋違いだと声を荒げる。


「惚けてたって何も変わらねぇ。自分で考えて動かなきゃ進めねぇぞ」


 朧は、イグニスの言葉を黙って聞いていた。

 言いたいことがないといえば嘘になる。自分と同じ心境だったらと問いただしたくもなった。それでも、見捨てずこの場に連れてきて、お茶を差し出し、叱咤してくれたのだ。

 見ず知らずの、工房の出入り口を邪魔していただけの男である朧に……。


「ありがとう、ございます」

「ふんっ」


 鼻から息を吐き出したイグニスは、持ってきたお茶に口をつけた。つられるように朧もそれを飲み込んで、今の現状を整理する。


 痛みを感じたことから、ここが別の世界の可能性を朧は考えていた。

 定番の異世界転生や召喚なども小説で読んだことがある朧は、何となくだがこの状況も理解はすることができるが、やはり認めたくはない。

 

「僕の名前は、朧です。先ほどは、本当にありがとうございました」

「……イグニスだ」 


 ずずっとお茶を飲み干したイグニスも答える。

 

「イグニスさん」

「なんだ」


 まだ現実を認められない朧だったが、イグニスの言うように惚けていても変わらない。特に、今までとは別の世界である場所でぼうっとしていたら、それこそ命に関わるかもしれないのだ。


「僕を、ここで雇ってもらえませんか」

「……訳を話せ」


 意外にも、突っぱねずに聞く姿勢をとったイグニスに、朧は目を見開いた。最初の印象から、はっきりと追い出されると思っていたのだ。


 一歩、前に進めた。

 

 だが、朧自身まだ認めたくない、認められていない事実を説明して、イグニスに認めてもらえなければ意味がない。

 ゴクリと唾を飲み込んで、カラカラに乾いてきた口内はそのままに声を出す。


「僕は、ここではない世界から、来たみたいなんです」


 話途中で割って入ることはせず、イグニスは無言のまま、朧より少し下の地面を見つめて黙っている。


 朧は言葉を選びながら、整理できていない事実をゆっくりと伝えていく。自分がこの世界の人間でないと推測した理由も、自分がいた世界のことも全て。

 何も知らない場所で常識も知らずに生きることは難しい。出会ってすぐではあるが、厳しいことを言いつつも手を差し伸べてくれたイグニスを頼りたかったと拙い言葉で伝えた。


「信じられない、ですよね……邪魔なら追い出してくれても、いいです。僕も――」

「構わねぇよ」


 話し終え、朧自身も改めて信じられなくなって口ごもった。しかし、自分もまだ信じられないと続くはずだった朧の言葉を遮って、イグニスからあっさりと返されたのは、イエスという意味の言葉。


「自分から、動けるじゃねぇか」

「っ!」


 ニッ、と初めて見せてくれた笑顔。

 アイボリーの口髭の間から覗く、少しだけ汚れた歯。朧はひどく泣きたくなったのを堪え、声にならないありがとうを返した。

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