息苦しい時間
幸いなことに、月山地区で事件はまだ発生していないらしい。
さらに、『亜門』という名の画家は実在していないという話だ。
ただ、ムーンライトホテルの支配人の娘、月島薫嬢は実在する。
私の不確かな情報で『防魔調査室』が大っぴらに動くわけにはいかず、かといって、無視もできないと言う意味で、如月は私と食事に行くことになったらしい。
しかも、早いほうが良いということで、月曜日の夜に早速でかけることになった。
その説明を聞いて、私はやっと腑に落ちた。
つまり。如月にとっては、仕事なのだ。
何も起こらなければ、ちょっとした接待みたいなものである。
隣人という立場をちょっと逸脱するかもしれないけれど、町内会の飲み会(だいぶ違うけど)だと思えば、許される範囲になるかもしれない。……誰の許しを得ねばならないのか、不明だけど。
危ない、危ない、と思う。危うく舞い上がりそうだった気持ちを、必死に地に結び付ける。
――殺人事件はともかく。月島薫さんと如月は、確か、ひと目で恋に落ちるのよね……
如月にも、桔梗にも話していない、如月の恋のストーリー。
初めて会った日に、二人はそのままホテルのスイートルームで結ばれる。
それが、さらに『亜門』の凶行を加速させるのだ…。
華やかな主人公である如月が、美しいゲストヒロインと恋に落ちるのは必然で。 私のような背景キャラは、それを見守ることだけ許される。わかってはいても、そう思うとなぜか胸が痛い。
――とりあえず、如月さんは『仕事』なの。私はそのお手伝いなのよ……ね。
翌朝。
私は、無難にベージュのパンツスーツを選んだ。気合を入れすぎて、引かれたくなかったし、期待してもいけないと思った。もっとも、艶やかなドレスなんて、持っているはずもないけど。
それに。デートだなんて勘違いしたら、私の心は、もはや隣人の枠に戻れない。
私が、如月の側に居られるのは、『隣人』だからだ。それ以上の役割は与えられてはいない。
いつもの通りに、軽くメイクをしていると、「おはよう」と桔梗が壁抜けしてやってきた。
「あのね、マイちゃん、悟さまが、マイちゃんの会社の住所、聞くのを忘れたって」
「会社の住所?」
私は、思わず聞き返す。
「昨日、駅で待ち合わせするって言ったよ?」
私がそう言うと、桔梗がぶんぶんと首を振った。
「車で行くことになったから、直接迎えに行けるって」
私は、頭が真っ白になる。如月が車で会社に横付けなんかしたら、超目立つに違いない。
「……駅のロータリーでお願いしますと、伝えてよ」
「えー。でも」
「如月さんが私の家の隣に住んでいることがわかったら、会社の独身女性が、我が家に押しかけることになるって」
私がそう言うと、桔梗は首を傾げた。
「マイちゃん、悟さまと一緒のところを見られたくない男性とかいるの?」
「そう言う問題じゃないって……ただ、要らない波風は立てたくないの」
「ふうん。じゃあ、悟さまにはそう言っておくね」
ふわり、と桔梗はまた壁に消えていった。
ふう。と、息をつく。
会社にお迎えなんてされたら、自分が一番勘違いしてしまう。
私は、鏡の中の自分を見る。それほど、めかし込んでもいない。柔らかい表情というより、緊張して顔が強張りそうだ。
随分、原作と違うかもしれないと、私は鏡に向かって苦笑した。
会社では、髪を切ったことで完全にイメチェンしたので、例のメンドクサイ疑惑騒動は落ち着いた。イメチェン理由は、「今日、高校時代の友人たちと飲むから」ということにした。如月と鈴木が出会った? のは高校生の時だから、完全なデタラメというわけでもないだろう。
努めて仕事に集中して、会う予定の高校時代の友人についての質問については回答を回避する。職場では、勝手に『田中は初恋の同級生に会うらしい』というストーリーで盛り上がっていたが、もはや無視した。
私について勝手なドラマが展開する職場で、熊田が何度か私に物言いたげな視線を送っていたが、きっと土曜日の彼女のことかなと思い、ニコリと微笑み返しておいた。
仕事が終わり、荷物をまとめていると、熊田が「話がある」と声をかけてきた。
「土曜日のことなら、誰にも言ってないし、言わないよ」
私は、待ち合わせの時間があるから、と、言うと、熊田は駅まで一緒に行くと言いだした。
「そんなに心配しなくても、私、そんなに口、軽くないよ?」
駅への道を歩きながら、私は首を振った。
「そうじゃない。誤解するなって話だ」
熊田は、私の横を歩きながらそう言う。どうでもいいけど、なんだか距離が近い。私は少しだけ意識して離れた。
「あれ、妹だから。妹が一人暮らしするって言うから、付き添っていただけだ」
「……あんまり、似ていないね」
ポツリ、と私が言う。
「感想、それだけかよ?」
熊田が肩を落としている。
「あ、ううん。えっと、妹さん、美人だね」
慌てて、付け足す。
「違うって。ああ、いいよ。どうせ……」
私の言葉にガッカリしたように、ふうっと、熊田が首を振った。
何をガッカリしているのか、皆目見当がつかない。
「田中、おめー、男、できた?」
口調とは裏腹に、真剣な目で見つめられ、私はドキリとした。
「髪型のせいもあるけど、この前から、すげー、変わった感じがする」
熊田が私から目を外さないでそう言った。
そうだね。毎日顔をあわせている熊田は、髪型だけでは……ごまかせないよなあと思う。
でも、実は別の魂がひとつ入りました、なんて言えないし。
「生まれて初めて、男の人に好きだって言われたからかな」
私は、慌ててそう答えた。嘘じゃない。ただ、色っぽい状況には一つもならなかったし、その人から私が感じたものは恐怖と嫌悪だけだったけれど。
でも。里浦は、私に恋をして、異界にまで追いかけてきたのだ。受け入れることは不可能だったけど、想いは本物だったとは思う。
「ちょっと、苦手な人だったから、断っちゃったけどね」
かなり脚色した内容ではあるが、熊田はようやく納得したようにふうんと頷いた。
「なあ、田中、話があるんだけど」
熊田の言葉の続きを待ちながら、ふと顔を上げる。
駅のロータリーで、如月が人待ち顔で立っているのが見えた。
混雑時の人ごみの中でも、如月は超目立つ。
――車の外に立ってなくてもいいのに!
駅を歩く女性たちが、皆、如月に目を向けている。
――うわ、この人目の多い中、あそこへ行くなんて、無理!
しかも、隣りに熊田がいるし。このまま逃走しようか、と一瞬本気で考える。
その時、如月が、私に気が付いて微笑んだのが分かった。
だめだ。逃げられそうもない……。私は腹をくくった。
「ご、ごめん。待ち合わせの時間だから」
私はぺこりと熊田に頭を下げた。
「田中……」
「またね」
私がにっこり笑うと、熊田は首をすくめて手を振り、改札口へと歩いていった。
熊田を見送り、ホッと一息ついて。
私は、意を決して、如月の車のそばへそっと近づいた。
「お待たせして申し訳ありません」
ビジネススタイルで、頭を下げる。周囲の視線の集中砲火が痛い。
「随分、堅苦しいね」
如月はそう言って、助手席の扉を開けてくれた。そして私の肩を抱くようにエスコートする。
――行動が既に二枚目だよ……。顔が二枚目じゃなくても、惚れちゃうって。こんなの狡いよ……。
ふう、と思わずため息が漏れる。
「さっきの男は、誰?」
運転席に座ると、エンジンキーを手にしながら、如月は私に訊ねた。なんだか、イラついている。
時計に目をやると、待ち合わせの時間を過ぎていた。私は申し訳なくて首をすくめた。
「会社の同期です」
どうしても声が小さくなる。
「随分、仲がよさそうだ」
どこかムッとしたような口調で、如月はそう言いながら、車を始動させた。
運転は荒くはないけど、表情の不機嫌さは消えない。
「あいつ……営業だから、人当たりがいいんです。勘も鋭いから、私の『変化』が気になったらしくて」
「ふうん」
つまらなさそうに、如月は頷く。だんだんいたたまれない気持ちになってきた。
私と食事なんて、仕事じゃなければ行きたくないだろう。そんな私が、のんびり、同期と歩いてきたのだから、怒りたくもなるだろうなあ、と思う。
「……すみません。お忙しいのにお待たせしてしまって」
私は視線を手元に落とした。
如月は、ふーっと息を吐き、車を走らせる。空気が重い。
「彼に見られるのが嫌だから、会社はダメだっていったのか?」
「え?」
如月の言葉は、尋問調だ。ちょっと恐い。どうして?
「ち、違います! 私、桔梗に言いましたよね? うちの独身女性が、我が家に押しかけるから嫌だって!」
「聞いたけど……それ、おかしいだろ?」
如月は、ムッとしたまま首を振る。
「ただの隣人が、会社に君を迎えに行くわけないじゃないか。君の会社の女性たちは、そんなことも気が付かないのか?」
「はい?」
言われた意味を頭の中で咀嚼して。
真っ赤になった如月の横顔に気が付いた。
「……如月さんと私では、まったく釣り合いが取れません。誰もそんなふうに見ませんよ……」
それに、一度きりのことだってわかっているから。小さく私は呟く。それに、如月は月島薫と恋に落ちる予定なのだ。
そうでなくても。
如月は「デートに見えるように」仕事で付き合ってくれているのだ。あからさまにビジネスモードを出さないのは、私への優しさなのだろう。私はぎゅっと手を握りしめ、車窓に目をやった。
「わかっていないのは、君の方だ……」
如月がそう呟いた。
重い空気のまま、ムーンライトホテルにたどり着く。
私は、如月の後ろを影のように歩きながら、ホテルの入り口をくぐった。
一生に一度の、夢のような出来事なのに、どうしてこんなふうになってしまったのだろう、と思う。
見回したホテルのロビーには、小説にあったような絵はどこにもなく、それもまた、私の胸を締め付けた。
何事もない方がいい。でも……如月の時間を無駄にしてしまったのではないかと思うと、息苦しくなった。
ロビーの中央は、吹き抜けになっている二階へ伸びるエスカレータになっていた。
「結婚式?」
そう思ってしまうくらい、着飾った人々が二階のフロアにいるのが見えた。
「今日は、大企業のレセプションパーティがあるのさ。それもあって、今日、ここに来た」
「そうですか」
私は小さく頷いた。ひとが多く集まるところは、防魔調査室でも警備の対象にもなる。
レストランは十階だが、いざというとき、駆けつけられないということはないだろう。
如月は、上を気にすることなく、ロビーを抜け、エレベータホールへと歩いていき、私は、無言でついていく。
会話がないのは辛いけど、如月の思考を邪魔するのは気が引けた。
「え?」
エレベータホールの壁面に、一枚の絵があった。
写実的な絵だ。
古い日本家屋の前で、シャボン玉に興じている母と女の子。
「嘘……」
懐かしい庭に、咲き乱れる梅の花。
「お母さん……」
涙があふれる。今はない、そして、この世界には元からないはずの、鈴木麻衣の生家。
「マイさん?」
急に泣き始めた私を、如月は他人の目から隠すように肩を抱いた。思わず、その硬い胸に身体を預ける。
「この絵……私の小さいころに住んでいた家にそっくりなんです」
声がしゃくりあげる。
「自意識過剰ですね……そんなはずないのに。この世界じゃないのに」
私は、涙をぬぐった。
「ごめんなさい。ホームシックにかかってしまったみたいで」
私は頭を切り替えようとする。鈴木から田中へ。でも。生家と家族を亡くしているのは田中も同じで。
どうして、私たちはこんなにも、似ているのだろう。
「君の家に、似ているのか?」
如月の声が優しい。
「はい。でも、向こうの世界にも、もうないものなのです。火事で燃えてしまったから」
私は苦く笑う。
「これを書いた人物に会ってみる?」
如月がそう聞いたが、私は首を振った。
「会ったところで、どうしようもないですよ」
私はそう言って、如月の身体から身を離した。
「お腹がすきました。ご飯、食べに行きましょう」
私はそう言って、笑顔を作って、エレベータの前へ如月を誘った。
ポン、と音がして、黒い豪奢なドレスをまとった美女と、正装はしているがどこか飄々とした感じの男性が降りてきて。
男性は、私の顔を二度見した。
そして、エレベータに乗り込もうとした私の腕を突然掴む。
突然のことに、私も、如月も、彼といっしょにいた美女も、凍り付いたように固まった。
「絵を……あなたの絵を描かせてください!」
唐突に、その男は、そう叫ぶと、私の手を握りしめた。
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