私は隣の田中です
秋月忍
第一章 異界渡り
二人のマイ
その日。私、
と、言うのも、高校生のころから、ずっと好きだった小説の最終巻が、三年ぶりにやっと発売されたのだ。
長かった。と、本屋で『闇の慟哭 最後の戦い』というタイトルのそれを手にして、感慨に浸る。
気が付けば、ずっと遠くに感じていた主人公と同じ年になっていた。
『闇の慟哭』というのは、二十七歳の美形の男、
オカルトアクションものというとやはり男性読者が多いらしく、作風はハードボイルド。如月は女に対して、ひとりに執着したりはしない。固定のヒロインがいないため、事件のたびに、知り合ったゲストヒロインとイイ感じになって、ウフンアハンのサービスシーンがあったりで、ある意味では女性たちの貞操概念が低く、初めて読んだときは女子高生だった私には、非常に刺激が強い作品だった。
そんな『闇の慟哭』であるが、とにかく、如月や、如月を取り囲む仲間たちがカッコイイということで、一部の女子に大うけした。(もちろん、作風的に見て、読者の大半は男性であろう)
ところで、快調に売り上げを伸ばしていた『闇の慟哭』シリーズであるが、作者が突然、執筆を止めてしまい、最終話手前で、読者は三年もの月日を待つ羽目になった。
私は、早く読みたいのを我慢して、家路を急いだ。
思えば、初めてこの本を読んだとき、私は十七才だった。当時、住んでいた家も、家族も、今はもうない。そう思うと、感慨深いものがある。
一人暮らしの人間が圧倒的に多い、ワンルームマンションのエレベータホールで、私はいらいらしながらエレベータを待つ。
遅い。いつも遅いが、今日は圧倒的に長く感じた。
ポンと、小さな音がして、エレベータの扉が開く。
私はいつものように、その小さなエレベータに乗り込み、5Fのボタンを押すと、ゆっくりと扉が閉まる。
階を告げるランプを見つめていた私は、ふと、息苦しさを感じた。
全身が黒い靄のようなものに包まれ、締め付けられる。苦しい。
――なにこれ?
ただの、気体ではない。意志ある黒いそれは私を包み込み……私は意識を失った。
「大丈夫ですか? 田中さん」
目を覚ますと、精悍な顔をした二枚目に抱きかかえられていた。
――私は、田中ではないんだけど……
そう、私が思うより早く「あら、如月さん」と、私の唇が言葉を紡ぐ。
「救急車を呼びましょうか? エレベータの中でお倒れになっていたようですが」
「え? あら、貧血かしら……」
私以外の意志で、言葉が紡がれる。
「部屋で少し休めば、すぐよくなると思います。ありがとうございました」
それだけ言うと、私は、男に抱き起され、立ち上がる。
後ろ手に隠された彼の手に、きらりと
――金の独鈷杵?
なんだろう。この、既視感。
「何かお困りでしたら、気軽に声をかけてください」
ニコリ、と如月と呼ばれた男が私にそう言った。
「はい。ありがとうございます」
私はそう言うと、602と表示のある、自分の部屋のドアを開ける。
――あれ?
私の目に映る、見慣れないけど、見慣れた部屋。頭がぼんやりする。
倒れたということは、疲れているのかもしれない。仕事がきつかったしなあ、と思う。
ワンルームの部屋は、お世辞にもきれいとは言えないが、汚部屋というほどでもない。
私は、ほぼ無意識に、キッチンでコーヒーを入れる。そして、『昨日の残り』のカレーを温め、冷凍してあったご飯を解凍しながら、ハタと気が付く。
――私、昨日、カレーなんか作ってない。
でも。カレーは間違いなくここにある。
――あ、『闇の慟哭』!
私は鞄の中をさぐる。
探っていて、気づく。大切に入れた本はない。それに、間違いなく自分の鞄なのに、自分のものではない。
見慣れたパスケースから、私は免許証を取り出した。無事故無違反のゴールドカード。って、ペーパードライバーなのだから当たり前なのだが。
『田中 舞』
と、書かれている。
私は、慌てて洗面台の鏡を覗きこんだ。
誰? これ?
凡庸な、普通の女性の顔。良くも悪くもなく、印象に残らない、そんな顔だ。
あえて言うなら、鈴木麻衣より、若干、肌が白い。
――えっと。整理してみよう。
私、鈴木麻衣は二十七歳。平凡な会社に勤める、平凡な容姿の女だ。彼氏なし、父母は既に他界。友人はいるものの、仲の良い友人たちは家庭に入って疎遠になりつつある。一人暮らし。ワンルームマンションの五階に住んでいる。
それと同時に、私の中に、もう一つの歴史がある。
田中舞、二十七歳。以下ほぼ同文。ただし、住んでいるのは六階だ。
頭が混乱してきた。
そういえば、私、鈴木麻衣は、エレベータの中で、黒い何かに締め付けられた気がする。
そして、田中舞は……会社帰りにエレベータに乗ったところで、記憶が途切れている。
気が付いたら、エレベータから降りていて、部屋のすぐ前で、如月さんに助け起こされ?
あれ? 如月?
私は、首をひねる。如月さんは隣に住んでいる。特に親しいわけでもないが、挨拶ぐらいは交わす人だ。
おそらくモテるのであろう。女性を連れ込んでいるのを何回も見た……と、田中舞の記憶をたどる。
――ちょっとまて。
ひょっとして、お隣さんは如月悟?
――そういえば。
女性レギュラーの少ない『闇の慟哭』の長いシリーズの中で、完全な脇役(というか背景キャラ)なのに五回も登場する女性が存在する。
名前は忘れたが、隣人の田中だ。
と言っても、本当にたいした役ではない。ゲストヒロインを部屋に連れ込む如月を目撃したり、如月のあるほどもない微妙な生活感を演出するためだけの役どころである。正直、五回も出たといっても、全部合わせてもおそらく一ページになるかどうか。私のような熱狂的なファンでなければ、その名字すら記憶しているかどうか怪しい。
その田中の一番の出番は、第一話「異界渡り」という妖魔退治の話だ。如月の住むマンションで、異界を渡り歩く妖魔が出没。ゲストヒロインは同じマンションの美貌の女性『雪野さやか』。田中はしょっぱなのプロローグ部分で、エレベータで妖魔に襲われたところを、如月に助けられる。
そして、田中は、登場して早々に、妖魔の記憶を如月に消されて、その話には二度と出てこない。
ああ、あれだ。あの会話だ。
「救急車を呼びましょうか?」
先ほどの会話を思い出す。なにぶん読んだのがだいぶ前になるので、一字一句記憶はしていないが、ほぼあのような形で物語が始まったのだ。
――これは、要するに、異世界トリップ? それも、憑依型ってやつ?
いや、まて。私。
ひょっとして、私(鈴木)は、『闇の慟哭』最新刊を手にしたまま、エレベータの事故かなんかで、意識不明とか。それで病院のベットで大好きな小説に入り込んだ夢を見ている……と考えたが、もうひとりの私(田中)が、これは現実だと告げている。
私は、部屋を見回す。鈴木には見慣れない、でも田中には見慣れた、部屋。
――酒でも飲んで、現実逃避しよ。
私は、冷蔵庫を開き、チューハイの缶を開ける。つまみは、サキイカ。
この辺の常備しているものは鈴木も田中も大差がない。頭の中に二つの記憶があるというのに、驚くほど『感情』面で整合性がとれているというか、二つの「意識」があるように感じない。あえていうなら、やや鈴木の部分が大きい感じだ。
私は食卓テーブルに酒を置き、ふと、ベッドの方に目をやった。
「……誰?」
可愛らしい少女がひとり、ベッドで寝ている。しかも、和服姿の女の子だ。長い黒髪がさらりとしていて、まつ毛がとても長い。
ちなみに、田中舞は、一人暮らしだ。こんな少女を見た記憶はない。
「ふあー」
少女は大きな欠伸をすると、私の方を見た。女が見てもドキリとするほどの美少女だ。彼女は、私と目が合うと、怪訝そうに首を傾げた。
「あれ? ひょっとして、私が見えるの?」
小鳥が囀るような可愛らしい声で、彼女はそう言った。
私は、こわばりながら、こくりと頷く。
「やだ。マイちゃん、別の魂が融合しちゃった?」
随分馴れ馴れしいが、鈴木も田中も知らない人間だ。
「うわー、しかも、信じられないくらい同調している! 珍しいわあ。ほぼ一つの魂になっちゃって。悟さま、記憶操作した時、失敗しちゃったみたいねえ」
「あの……あなた、誰?」
勝手に私を見て感動している女の子は、ニッコリ笑った。
「私は、桔梗よ」
「き、キキョウ!」
私は思わず声をあげた。
「やあね、化け物を見たみたいに」
私は震えた。
「だ……だって、あなた、式神!」
決定的だった。
『闇の慟哭』の主人公、如月悟は、式神を使う。数少ない女性(人間ではないが)レギュラーであり、悟の死んだ妹にそっくりな容姿の式神『桔梗』……。
私は……やけくそになって、缶チューハイを飲みほした。
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