第38話 因果

「待て……伊勢」


 どれくらい走ったのだろう。走り去る伊勢を追いかけて来たのは謙信だった。


「嫌です。どうか……見ないで。私を追いかけないで……お願い……」




 瞳からは大粒の涙が溢れている。







「離してください」


 悲しい顔をした伊勢の手をきつく握りしめ、謙信は伊勢を落ち着かせるため強く抱きしめる。


「お願いです。離してください」


「悪かった。こんな目に合わせて」


「謙信様が謝ることではありません。私がきちんと政宗様のお誘いをお断りしなかったのが悪かったのです」


「いいや、それは違う。これは俺が蒔いた種だ。伊勢に辛い思いをさせたのは、すべて俺の責任だ」


「謙信様、もう私のことは忘れてください」


 泣きじゃくる伊勢は、感情を抑えきれずに嗚咽している。


 無垢な涙は、頬を伝い流れている。




 そっと伊勢の頭に手を伸ばし引き寄せ、頬をつたう涙を謙信の人指し指が受け止める。



「泣くな伊勢」


 伊勢の顎を掴み、そっと上を向かせ……優しく唇を合わせる。

優しい口づけの後、強く抱きしめるが、涙が止まることなく溢れている。



「伊勢・・・愛している」


 激しい感情を抑えきれず、二人は唇を強く合わせる。


 重なった唇からそっと口の中を優しく弄る。


 水音をたて交わされる愛のある口づけだけが、伊勢の心を落ち着かせることができた。


 謙信は月明かりの下、伊勢を強く抱きしめる。

 満月の月の光は眩しく、二人の心を結びつけるように輝いている。




 ザザーッ。二人の頬に風が吹き抜けていく。


 二人は、どこをどのように、走って来たのかさえわからずに、さまよってここまで来てしまった。


 月明かりの下、たどり着いた場所は、手入れの行き届いた庭で、池には鯉が泳いでいる。


 向こうには鐘が見える。小さな庵のようだ。

 迷い込んだとはいえ・・早くここを出なければ・・・。


 伊勢の手を取り、庭から通りへ抜け出そうとした時、不意に人影が現れる。


「そろそろ・・来る頃かと思っていましたぞ」


二人の訪問を知っていたかのように人影が声をかけて来た。



「……あの。ごめんなさい。私がここに勝手に入り込みました。謙信様は私を追いかけてここに来たのです」


「いやいや、偶然など……この世にはないのですぞ。まぁ、よければお茶でも飲んで行きなさい。謙信殿はお酒の方が良いかのう……」


「ここは……」

 きょとんとした顔で伊勢が尋ねる。


「なぜ、俺の名を知っている? もしかすると、その声は・・・・天室光育てんしつこういく和尚なのか?」


「謙信殿、伊勢殿。お二人とは長い付き合いになると申し上げたこともありましたな・・」


「あの。・・どうして私の事をご存知なのですか? 私には和尚様の言われていることがよくわかりませんが」


「気にするな伊勢。事情は後で説明する」



「さぁ・・こちらへどうぞ」


 二人は天室光育てんしつこういく和尚の庵の中へと導かれる。

 天室光育てんしつこういくは部屋に入るとお酒の用意をさせる。


「謙信殿はお酒と梅干しでしたな」


「和尚、……和尚には前世の記憶が残っているのか」


「謙信殿。お忘れですか。私はあなたと伊勢殿がここに来るのをずっと待っておったのですぞ。あの手紙を読んだ日のことを覚えておりますか」


「はっきりと覚えている。だが、あの日……いいや、あの頃はお酒に溺れていた」


「ご自愛くださいと手紙を読んでお伝えしたはず……」


「俺は、酒に溺れ自分のことしか考えられなかった。伊勢の父・采女うねめ殿にきちんとあの事件の真相を話すことすらしなかった。それが、今世にまで影響しているとは……和尚があの日、忠告しに来たというのに……和尚の時空を超えた予知能力はあの時から知っていた。いや、知っていたつもりだった。まさか、こんなことになるとは。自分の愚かさを悔やんでも悔やみきれん」


「人は己のことのみ考え因果応報など考えもしません。だが、命は輪廻転生するのですぞ」


「悪かった。和尚」


「いいえ謙信殿、これはあなたと伊勢殿の魂が成長する過程なのです。謝ることなどありません。魂は自分自身で学んでいくのです」


「……あの。ごめんなさい。私にはお二人の会話の意味が理解できません」


「伊勢、前世の記憶……とでも言おうか……そういう記憶が私たちにはあるのだ」


「伊勢殿……そなたの心根は、いつの時も変わらない。真っ直ぐで一つの曇りもない。生まれ変わってもその根本は変わってないのですな」


「和尚は、時空を超えて世の中のことを知っているのだ。伊勢……俺がお前の心を素直に受け取り、和尚の言葉を聞いていたならば、このように今、皆に反対されることもなかった」


「えっ……私には記憶などないのですが、謙信様、和尚様、私たちは前世でもご一緒したことがあるのですか」


「伊勢殿。謙信殿は前世でもそなたを好いておりました。その思いは深く、現世で巡り会うことが出来たのもその魂が呼び寄せたのでょう。伊勢殿も謙信殿に惹かれいるのではないですかな。そなたの思いも謙信殿に負けずでしたぞ。ここで引かれ合うのも必然。お互いの魂が求めているからなのです」


「和尚。どうすれば前世の因縁カルマを断ち切れるのだ」


「謙信殿……すべては過去から始まっています。答えを見つけるのは謙信殿自身ですぞ」


「あの時……」



 ハッと何かを思いだしたように謙信が頷く。



「伊勢。一緒について来てほしい場所がある」


「はい」


 天室光育は、二人を見つめ頷いている。

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