ウナギノススメ

成神泰三

第1話ウナギノススメ

人間には三大欲求というものが確かに存在する。性欲、睡眠欲、食欲と、どれも手放しては生きていけない、重要なものである。特にどれが重要かなどという話は、人それぞれなので、私の独断で決めつけることは出来ないが、私の場合ならば、食欲を優先したい。睡眠も捨てがたい快楽に違いないが、睡眠時間ほど非生産的かつ時間消費の割合の高いものはなく、また性欲にしても、その一時的な快楽に対するランニングコストが、個人的に合わないような気がしてならない。しかし食欲と言うのは、食べる前も食べた後も、確かな幸福感と余韻をもたらし、様々な糧を与えるものはないだろう。無論、暴飲暴食は体を壊すどころか、今後の食生活にも多大な悪影響を残す可能性があるので、あくまで節度を持って食事を楽しむのがベストだろう。


さて、私は習慣で、月に一度か二度はうなぎを食べないと気が済まない、いわゆるうなぎジャンキーに近い症状が襲ってくることがある。こうなってしまうと、他のことが手につかず、頭の中にもう一人の私が現れ、うなぎを食べろ、うなぎを食べろと囁くのだ。しかもこのもう一人の私というのは、流石とも言うべきか、うなぎのタレの香ばしい香りとふっくらと焼きあがった身の映像を同時に流して是が非にでもうなぎを食べさせようとするのだ。独り身の実家暮らしとはいえ、うなぎは高い。満足のいくようなうなぎを食べようとするといつも値段が張ってしまう。しかし、この心の内に燃え上がるうなぎの炎を食べずにどうやって消せるものか。今週の土曜はうなぎだ!


こうして私は、毎日時計とカレンダーを睨みつける日々を過ごして、今日までなんとか耐え忍ぶことが出来たのだ。ああ、なんと辛い日々だったろうか。私の発作はもう末期症状を引き起こしかけ、あと少しで大惨事が起きるところであった。本当に危ないところだ。


私の行きつけのうなぎ屋は、国宝善光寺の裏手にあり、いつもタレを焦がした匂いを辺りに漂わせ、店の前を通る人々を必ず振り返らせ、人々の胃袋を掴んでは離さない。私の場合、そのまま店の中に引きずり込まれ、胃袋を重くして財布を軽くするという怪事件を毎度引き起こす、魅惑の店だ。


暖簾を潜れば、暖かい空気と共に、待ち望んでいた鰻を店員が西へ東へ運んでいるではないか。ああ、それは私の鰻でしょうか? 否、貴方よりも前に注文されたお客様の鰻ですと、バカバカしいやり取りを頭の中で繰り広げ、店員に案内された席に座り、出されたお茶をすすって臨戦態勢を整える。


まず、ここで言っておかなければならないことがある。鰻と言ったらうな重を想像する人もいるかもしれないが、私が思うに、うな重は鰻であって鰻ではない。別に自身が食通だと言いたいわけでもなければ、うな重を蔑ろにしているわけでもない。うな重はうな重でうまい。しかし、皆一度は考えたことがあるのではないだろうか?


鰻を一匹丸ごと食べてみたいと。


なんとこの店には、あるのだ。鰻を丸々一匹、かば焼きの状態で提供してくれるのだ。その名も一本焼き。なんとワイルドかつ直球なネーミングセンスだろうか。そういうの大好きだ!


私は迷うことなく一本焼きを注文すると、再びお茶をすする。この一本焼きというものは、その日に一本焼きにふさわしい鰻がそろっているか確認するところから始まり、調理に二十分ほどかかるこだわりの逸品だ。今日はそろっているようなので、問題なく一本焼きが提供される。ああ、ありがたし。


さて、一本焼きが来る前に日本酒を飲むべきか、それとも後に飲むべきか、私はいつも迷ってしまう。うなぎ屋に来たからには、酒を飲まずしてなんとする。そういつも考えてはいるのだが、いかんせん一度酒を飲むと私の場合胃が縮んでしまう。一本焼きを頼んで残したことは一度もないが、それでも苦しい思いをして間食している。そんな不幸な食事をするくらいなら、最初から飲まなければいい。そういってしまえばそれまでのことなのだが、それはそれで口さみしいものだ。考えてみてほしい。周りは思い思いに鰻を頬張っている中、自分だけスマホを覗いて眉間に皺を寄せている姿を。こんな悲惨な光景があっていいのだろうか。鰻だってまずくなってしまう。


つまりは、選択肢など初めから決まっているようなものなのだ。湯呑が空になったタイミングを見計らい、私は店員に日本酒を一合、そしてうまきを注文する。ここのうまきは本当にでかい。嘘偽りなく拳一個分ほどの大きさがあるのだ。それがなんと5つ。値段はまずまずだが個人的に大満足の一品だ。


先に日本酒が入った徳利を渡され、トクトクとお猪口にそそぐと、まだ温かい証拠の湯気と、日本酒特有の発酵臭が立ち上る。初めて日本酒を飲んだ時、この発酵臭が苦手で、とても飲むことなどできなかったが、こうして慣れてしまうと、なぜか病みつきである。この要領でビールもウイスキーも飲むようになってしまったのだから、酒の魔力というものは恐ろしいものよ。


ほんの少し、ちゅるっと口に含むと、幸せの味が私を包み込む。あ~たまらない。日本人としてのDNAが、この酒をさらにうまくしているのかもしれない。そんな気がしてならないのだ。


ここでグイっと飲むと、すぐに酔っぱらってしまうので、あくまでゆっくりと口の中に流し込む。個人的に、この飲み方が一番うまいと信じてならない。どんな酒でも、ゆっくりと飲みこむのが一番味がわかってうまいのだ。ただしビール、お前はのど越しだ。


酒を飲むと、時の流れというのは滝のように早く流れていくものだ。そこが酒のすごいところと言っても過言ではない。調子に乗って飲みに飲みまくった翌日など、気がついたらベットの上にいる、なんてことも良くある。もしかしたら、酒はタイムマシンなのかもしれない。


「お待たせしました〜1本焼きにございます」


遂に来たか! お盆の上にデカデカと陣取る1本焼きに、今日まで耐えてきた体が、貪るように食べたいと叫んでいる! 甘辛いタレで全身を着飾る目の前のうなぎに、手を出さずに待っていられようか。


まずは鰻の尻尾の部分に箸を刺し、分断して口の中に放り込むと、鰻にしか出せないフワフワで甘い油とタレが合わさった味わいが、口の中全体に広がっていく。これだよこれ、鰻はこれだから辞められないんだよ。はぁ〜こりゃ当分彼女なんか出来ないな〜。


鰻の身を解しながら、備え付けのご飯を一口口に入れ、鰻肝の入った吸い物を啜る。この吸い物の何たる気品の高さよ。一口この吸い物を吸えば、鰻で殺気づいた心は平静を取り戻し、また一口、鰻に手が伸びる。ツマミとして考えれば、ご飯も吸い物も必要ないだろう。しかし、私にとってそれではダメなのだ。別途についたご飯と吸い物があって初めて鰻の一本焼きとなるのだ。


おっと、酒を飲むのを忘れていた。熱燗にしている故、冷めてしまっては元も子もない。一旦ご飯を下げ、一口酒を飲んでから、鰻を食べるともうたまらない。鰻の脂と甘辛いタレが酒を飲むことで更に広がり、もう形容しがたい幸福度だ。ああ、満足だ。


鰻を平らげ、締めはデザートと思わせといて茶碗蒸しを平らげる。ここの茶碗蒸しは、カニの身がいっぱい入っていてダシがよく出ている。これをふうふうと息を吹きかけながら、茶碗蒸しを頂く。噛めばカニのダシが吹き出し、飲めば卵の風味が残っていく。やはり、私の鰻道はまだまだ続くだろう。



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