不時着者の哲学

「じゃあ、縫いまーす」


市民病院の救急処置室でわたしは若い女医さんの軽やかな声にリラックスではなく緊張した。肘の傷は痛みはないけれども深く、傷口もぱっくり開いていたので局部麻酔をして縫うことになったのだ。


けれども。


自分の肉体に針を通され糸で縫う光景というのは恐れよりもむしろ厳かさを感じた。


女医さんの顔を時折ちらっと見るとこの手術とも呼べないようなちょっとした処置に全身全霊を傾けているのではないかと思えた。


ほんの100キロほどしか離れていない隣の県の街に住んでいる現実のわたしは、周囲の誰からもないがしろにされているのに。この地に来てからはキトくんも彼のお兄さんも、この女医さんすらわたしの名を呼び、きちんと扱ってくれる。


処置室から出るとキトくんが待っていた。お兄さんは一旦家に戻って夕食を食べてからまた来るそうだ。


「鳥だけどね」


キトくんの表情は柔らかい。


「寿命だって」


一息置いてからわたしは、


「そう・・・」


と答えた。


「だから、この近くの林に連れて行って置いて来た。ごめんね、僕の勝手な判断で」

「ううん。わたしこそごめんね。わがまま言って」

「いいんだ。ただ、トンビがもし山を死に場所にする気でいたんだとしたら、ちょっと申し訳なかったかな」

「キトくん」

「うん」

「渡辺さんの病室に行こうと思うんだ」

「どうして?」

「アジサイ、摘んで来ちゃったから」

「そうだね。行こうか」


・・・・・・


「こんばんは」

「はいこんばんは」


キトくんと2人で挨拶すると渡辺さんはベッドで身を起こしてくれた。


「おお。キトちゃんじゃないか。その子は?」

「あの、水やりをさせていただいてます」

「うん? 水谷さん? あれ、電話の感じと違うね」

「あの。色々と事情があってわたしがお手伝いしてました。それで、このアジサイ、勝手に摘んでしまいました」

「おお。まだ咲いていたかね。うん。この色が儂は一番好きだな。いいよ、お持ちなさい」

「半分はその花瓶に生けさせてください。残り半分をわたしにください」

「構わんけど、どうするんだね?」

「トンビに供えます」

「トンビ?」

「道で弱ってるところを拾ったんだ。さっき僕が鎌田先生の病院に連れてったら寿命だって」

「寿命・・・」

「鎌田先生は自分の寿命を察して墜落死する前に最後の力で着陸したんだろうって言ってた」

「寿命を察して・・・人間の儂ですらそんな気持ちを忘れかかっとるのに」

「あの、渡辺さんにお聴きしていいですか?」

「何かな、お嬢さん」

「どうしてお花を育てているんですか?」

「あれはね、罪滅ぼしのつもりなんじゃよ」

「罪滅ぼし?」

「儂はね、一人娘がおったんだけど県外に嫁にやってしまった。それで娘のダンナの仕事の都合で孫共々海外の赴任地に行ってしまって儂の葬式までもう来ることはないじゃろ。渡辺家は儂で終わりじゃ」

「そうなんですか・・・」

「先祖にも家の仏様にも申し訳なくてな。だから仏壇に供える花だけは絶対に切らさんように庭全部を花畑にしたんじゃ。ほら、うちは花を買いに行くのすら大仕事じゃから。だけども水やりの他に仏壇の花も毎朝換えるようにというアルバイトの内容は今時の女子高生には申し訳ないと思ったんだが」

「あれ、そうなの? カナさん」

「うん。水谷さんはそれも嫌だったみたい。それもあってわたしを連れて来たんだと思う」

「お嬢さん、すまんかったね。友達の身代わりに辛気臭い思いをさせてしまって」

「友達じゃない」


キトくんが険しい顔つきで呟く。

わたしは渡辺さんに念押しする。


「お願いですから水谷さんにアルバイト代払ってあげてくださいね」

「そうかね。儂としてはお嬢さんにも別にお手間をあげたいところじゃが」

「いえ。わたしをほんとに思ってくださるんならやめてください」


・・・・・・


市民病院のすぐ裏が雑木林だった。

彼と一緒に月明かりの中、林を歩いた。


「この辺に鳥を置いたんだけど・・・もう、いないね」

「自力で飛んだのかな」

「分からない。でも、鎌田先生の話だと飛べても数十メートルだろうって」

「そっか・・・じゃあ、ここに供えるね」


わたしはアジサイの花を杉の木の根元に置いた。

まだ生きてるだろうけれども、これから死に行くはずの鳥のために二人して合掌した。


「カノさん」

「何? キトくん」

「明日でほんとにさよならだね」

「うん・・・」

「今日は遅いからさ、ウチに泊まって行ったら? 傷口も心配だし」

「ありがとう」


二人の間に何か起こるわけじゃないってことは十分分かってる。

彼のおばあちゃん、ご両親、お兄さんまで一緒なのだから。


でも、わたしは最後の夜を彼の家で過ごせることを思って、大きな大きな安心感に包まれていた。

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