ほんとの名前
翌朝、彼は約束通りわたしを迎えに来てくれた。
ロードレーサーに乗って。肩には何やら大きな袋をかけて。
「これ、乗れるかな?」
そう言って彼は大きな袋からやっぱりメタリックブルーの自転車のフレームを出して組み立て始めた。
「わあ」
彼が輪行袋に入れて持って来てくれたのはクロスバイク。本格的なロードレーサーだとわたしが怖がるだろうと思って乗りやすいこちらのタイプにしてくれたのだ。
組み上がったクロスバイクは彼と同じ色感で夏の涼しげな朝日の光に映えてキラキラと輝いている。
細い道だけれどもこの家からコンビニまでは舗装道路が続く。彼が先導し、わたしはその後ろからおっかなびっくりでなんとかクロスバイクで続く。
「そろそろ慣れたみたいだね。じゃ、スピード上げるよ」
そう言って彼は自転車のギアを一段あげたようだ。同時に彼の自転車が加速する。
わたしも真似てギアを一段あげた。ペダルが重かったけれども頑張って一漕ぎすると信じられない加速が得られた。
「わ」
「大丈夫?」
「うん。なんか、これいい」
道はほぼ平坦だけれども若干下っている。気持ちのいい加速のまま車なら30分の道のりをわたしたちは20分でたどり着いた。
コンビニで飲み物だけ買ってバスに乗り込む。ロードレーサーもクロスバイクも輪行袋に入れてバスの昇降口脇のスペースに置かせてもらった。
「現地で乗ろうね」
そう言ってくれる彼にうん、と頷いてわたしはバスの外の景色を眺める。
最後部の座席でやや距離を空けて座っていた彼はわたしの様子を見てすぐ隣に詰めてくれた。
「うちの県って山岳県みたいなイメージあるけど、海も実はすごく近いんだよね」
「うん、知ってる。昨日ネットで調べて滝に行くか海に行くかって迷ってたから」
「よかった。ちょっと押し付けっぽい提案だったかなって思ってたから」
「ううん、ありがとう。自転車まで貸してもらって」
「全然。それこそ僕の趣味だから。でも結構乗れてたね」
「ううん。あなたについていくのでいっぱいいっぱいだったよ」
バスはひたすら道を下り続けた。
景色は平地を経ずに山から海へといきなり変わる。昨日の滝といい幻想的な現実がずっと続いている。
バスから降りるともう目の前に海が広がっていた。
海岸に海水浴客はまばらだ。
一部にテトラポットはあるけれども、ほぼ百パーセント水平線のその向こうが見えない視界が広がっている。
「はい、できたよ」
「ありがとう」
輪行袋から出した自転車を2人分組み立ててくれた。こんなことを言ってみる。
「わたしも組み立てられたらな」
「じゃあ、今度時間のある時に教えてあげるよ」
今度、か。最高頻度の社交辞令だ。けれども彼の言葉が本当だったらどんなにいいだろうと思い始めている自分がいた。
海辺は山のような涼しさという訳にはいかなかった。さすがにそれなりに暑い。ただ時折吹く潮風にほっとしたりした。
海岸の脇にローカル線が走っている。単線で一両編成の電車だ。
「違うよ」
「え」
「電車じゃなくってディーゼル車なんだ」
「あ、ほんとだ」
海岸線と線路の脇の道路を走っていくと道の駅に着いた。駐車場には県外ナンバーの車がたくさん停まっていて盛況している。
「地場で獲れた魚とか野菜とかが結構ブランドになっててね。県外でも遠いところからわざわざ買いに来るんだ」
そう言ってミニ魚市場のようになっている施設内を案内してくれた。
「よく来るの?」
「うん。いつもはバスじゃなくて自転車で直行だけどね」
「え。でも相当距離あったし、帰りはずっと登りでしょ?」
「それがいいんだよ。トレーニングには」
イートインでブランチにした。2人とも山菜そばとおかかおにぎりのセット。
「君のおにぎりの方がおいしかったな」
「ありがとう。じゃあ、今度また作ってあげるよ」
「今度、か・・・ねえ」
「はい?」
「明日も会える?」
「・・・おにぎりが食べたいから?」
「ふ」
「何」
「いや。うん、そう。君のおにぎりが食べたいから。君のおにぎりが目当て。下心なんてないから」
「ふふっ」
「アンジル」
わたしはその4文字で自分のことを呼ばれて脳が萎縮するような気がした。振り返らなくても声の主が水谷美咲だということが分かった。ただ、水谷美咲がまだこの地にいるという状況認識だけは即座にはできなかった。
「私らさ、昨日からこの近くの温泉に泊まってるんだ。どうせバイト代も出るしさ。花に水やってくれてる?」
「・・・はい」
「よかった。アンジルも嫌になって出てきたのかと思った。で、彼氏さん? この子は夕方にも花に水やらなきゃいけないから早く帰してやってね」
「・・・彼女にバイト代払わないの?」
「あんたが口出ししなくていい。これはアンジルと私らの契約だから」
「契約?」
「アンジルは私らのメイド。学校でも学校の外でも。対価はいたぶりをこの程度で済ませておくこと」
「なんて身勝手な」
「あんたもあんまり私らをイライラさせないでよ。こいつが男と一緒にいるってだけでムカついてんだから。あんたが正義感かざせばかざすほど帰ってからアンジルをいたぶりたくなるから」
「・・・」
ついに彼も無言になってしまった。
水谷美咲たちは進学校の生徒らしく声は荒げずにこれらの暴言を吐いてそのまま立ち去ってくれた。彼女たちがあの家にまた戻ると言い出さなかったことでほっとしている自分がいる。
「まだ、名前聞いてなかったね」
「・・・わたしの名前はアンジル」
「それはあだ名でしょ。ほんとの名前は」
「ほんとの名前があったって誰も呼んでくれなきゃないのと同じ」
「僕が呼んであげるよ。ねえ、教えて。お願いだから」
「・・・カノ」
「どんな字?」
「華に乃で、
彼の顔の前の空間に指で書いて示した。
笑顔になる彼。
「カノさんか。僕は希望の人で、
「キトくん?」
「変わってるでしょ」
「ううん。すごくいい名前」
「カノさんもいい名前。君の人格も外見も全部表現してる」
「そうかな」
「そうだよ」
「でも昨日会ったばかりなのに」
「時間じゃないよ。君の同級生はずっと一緒に居たってそれに気付けない。君の名前はカノ。これしかないよ」
わたしは本当に久しぶりにほんとの名前で呼んでもらえた。
嬉しい。
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