第十六話
「それで、イギリスへはいつ帰るつもりなの?」
朝食の席で、女が唐突にそう言った。
男が不意を突かれた表情で食事の手を止める。
言った女は無感動な顔つきで、紅茶の香りを楽しんでいるふりをしている。
二人が日本にやって来てから、今日が五日目なのだった。
滞在予定の一週間はもう間もなくだ。
私は、男が女に何と答えるのか、給仕の手を動かしながら聞き耳を立てた。
男は白々しい口調で言った。
「ああ、もうすぐ一週間になるのか。早いものだね」
「ええ、帰りの船の手配はしてあるのでしょう?」
「ああ、いや……」
言葉を濁す男をねめつけて、女は口ぶりだけは穏やかに言う。
「けれど、一週間という話だったのではなくて?」
「だが、絶対に一週間で帰国しなければならない理由もない。
もう少し、日本にいても構わないだろう。
まだやるべきことが残っているし」
「随分こだわるのね、仕事でもないのに。
それはあなたにとってそんなに大事なこと?
帰ってからバース卿にまた嫌味を言われても知らないわよ」
「会わなければならない人がいるんだ」
「その人は、私を放っても会いたいくらい大事な人?」
穏やかさのかき消えた女の声に、男は沈黙でしか答えられないようだった。
「あなたにつき合っていると、こういうことがよくある気がするわ。
もう少し、また今度、と予定を延ばされているうちに、いつの間にか日本に永住することになっていたりしてね」
「君は、日本で暮らすのは嫌か?」
男の言葉に、女が、そして横で聞いていた私も愕然とした。
日本に永住する?
この女と一緒に?
腹の底でくすぶっていた火が、かっと燃え立った。
冗談じゃない。
それはきっと私の顔に出てしまっていただろうが、幸い気づかれることなく、二人は自分たちの会話に没頭している。
「日本で暮らす? どういうつもりなの」
「いや、ただそれもいいかもしれないと考えたことがあっただけだ。
日本はいい国だから」
「私たちが道を歩いているだけで、刃物で切りつけてくるような人間がいる所が、いい国ですって?」
「そんな日本人はもういないよ。ジョウイの時代は終わったんだ。
今のこの国には、外国人を見て斬りかかってくるサムライはもういない」
「そうだとしても、この国で安心して家庭を築けるとは思えないわ。
大体、あなたはお義父さまの、バース卿の仕事を引き継がなければならないのに。
あなたはバース家の跡取りでしょう」
「…………」
会話の間に流れる空気が、不穏な様子を漂わせはじめた。
その雰囲気を払おうとしてか、女の口調がふと穏やかそうに変わって言う。
「ねえ、田舎に住みたいのだったら、イギリスにもいい場所はたくさんあるわ。
田舎に別荘を持って、余暇をそこで過ごせるようにしたらいいじゃない。
何も仕事を捨ててまでこんなところに移り住むことはないわ。
イギリスの田舎で、休暇にはあなたのお好きな詩でも戯曲でも、いくらでも研究なさればいいじゃない」
「……家を継ぐつもりなどなかったというのに」
男が溜息と共に低くそうつぶやいた。
食堂の時間が、音を立てて凍りつき、止まった。
「……ウィリアム、あなた……」
女が唇をかすかに震わせながら、静かな声音で言う。
「あなた、本当に私と結婚してくださるの?」
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