13杯目 ポーションと燗酒

「では、次は燗酒を作りましょう」


 いつの間にか雨も上がり、外は完全に夕方になった。すっかり燃える陽に染め上げられた食堂も、これから徐々に夜が侵食し、暗くなっていくことだろう。


 もう少しするとお客さんが入ってくるに違いない食堂で、リンは冷や酒を大量に煽ったせいか、「うし、呑もう」と陽気に体を伸ばしたり縮めたりしていた。


「そういやお前さ、そういう酒の知識、独学で学んだのか?」

 彼の質問に、憩は「いえいえ」と首を振る。


「仕事の先輩女性で詳しい方がいたんです。私、お酒は強かったですけど、そんなに飲む方じゃなくて。でもその先輩に日本酒の店に連れて行ってもらって色々教わって、そこから一気に好きになりました」


 出産でもう仕事辞めちゃったんですけどね、と続けながら、頭の中には燗酒について教わった記憶が蘇える。



 よく「熱燗」という表現をするけど、厳密には50℃くらいの酒をそう呼ぶ。

 冷や酒と同じく、常温(20℃)から温度が上がるごとに細かく呼び方が分かれているのだ。

 細かいといえば細かいけど、繊細といえば繊細。


 30℃が日向ひなた


 35℃が人肌燗


 40℃がぬる燗


 45℃が上燗じょうかん


 50℃が熱燗


 そして55℃以上が飛切とびきり



 人肌燗なんて気持ち悪いわよね、と苦笑いしていた先輩の顔を思い出す。

 日本に戻ったら、久しぶりに連絡してみようかな。



「おい、イコイ、ボーッとしてないで燗酒! 燗酒を早く飲ませろい!」


 待ちきれないリンが、空の瓶を下に向けて振り、わずかばかり器に落ちたポーションをちびっと舐めていた。


「そうですね、じゃあ作りましょう。すみません、おじさん、厨房をお借りしても良いですか?」

「え? ああ、構わないけどよ」


 すぐ終わりますからね、と言って、陶器の瓶とポーションを持って厨房に駆けていく憩。


 そしてその陶器に、分量を確認しながら、ゆっくりと酒を注いだ。


「あまり入れすぎると、温めたときに吹きこぼれたり、熱の伝わり方にムラが出たりするんです。昨日飲んだポーション、とっても上手に温められてましたよ!」


 彼女の絶賛に、料理長のおじさんは「そりゃあうちの名物だからな」と指で鼻の下を擦る。


「で、水を張った鍋に入れて、鍋を熱します。今回は2本入れて温度の違いを楽しみましょう」

「はあん、冷や酒の反対の作り方ってわけか」


 リンの相槌に、「へえ」と唸るおばさん店員。


「アンタ、見かけによらず賢いんだね」

「次に同じこと言ってみろ! この食堂を毛まみれにしてやるからな!」


 ゴロゴロと厨房を転げ回る猫。料理長が足で踏み、「ぐおっ」と止まった。


「あと、ポイントは瓶の口に蓋をすることですね。ポーションは注いだ瞬間から香りが立ちますから、あまり外気に触れさせないようにしないと」


 言いながら憩は、適当な板切れを見つけて蓋をする。

 自宅ならラップでやっているところだが、今回はこれで我慢。


「よし、いまのうちにおつまみを出しちゃいますね。酒場で作ってもらいました」

「さすがイコイ! デキる女だ!」


 料理長から皿を借り、買ってきた袋からザアッと開ける。

 見たことのないその茶色っぽい料理に、リンは後ろ体重で匂いを嗅いだ。


「……なんだ、これ」

「魚の骨を揚げてもらったんです」

「なんでいちいち貧乏くせえんだよ!」


 憩の太ももに跳びつく。爪を立てるタイミングが遅かったのか、そのままズリズリと彼女の長いスカートを降りていった。


「あら、安くて美味しいんですよ。軽い味だからお酒に合いますし」

「お前の料理の基準は『酒に合うか』だからな……」


 リンはがっくり肩を落としながら骨せんべいを口に放り「うめえし……」と漏らした。





「よし、出来ました!」


 片方の瓶を引き上げ、一口飲んで温度を確かめる。自分の体温と近い、人肌燗。


「昨日飲んだ燗酒より少し温めにしてます。皆さん飲んでみてください」


 お猪口の形状をした陶器のグラス4つに注ぎ、全員で啜るように飲んでみる。リンだけは、火傷しないようにおそるおそる口をつけていた。


 憩もじっくりと味わう。



 温めたことで口の中を駆け巡る、山イチゴのような香り。そしてその香りに被さる、シャーリの産地ならではの瑞々しい甘さ。

 ハーモニーの中で、香りと甘みを交互に楽しみ、飲み込んだ後に残るのは心地よい温かみ。



「……美味しいですね! ご主人、どうですか?」

「ああ、このくらいの温度だと、シャーリやコージュの香りが広がりやすいんだな。口の中で膨らむ」


 料理長は、骨せんべいを齧ってもう一口飲み「ああ、魚の風味と相性いいね!」とご機嫌。


「冷やすと、それまで隠れてた味や香りを引き出せることが多いんですけど、このくらいに温めると元々の香りや味そのものが膨らみやすいんです」

「これもうちの新メニューに入れてもいいわね、アンタ!」

「だな、ちっと考えてみるか」


 なんとなく予想していた通り2人が夫婦だと分かり、彼女の心は燗酒の効果も相まってほんわかと温まった。



「さて、もう1つの方も飲んでみましょう」


 すっかり熱くなり、布で包まないと持てなくなった瓶。試飲したうえで、また4つのグラスに注ぐ。

 

これは熱燗より上、燗酒の最上級、飛切燗だ。


「どれどれどんな――だあ熱っちいなクソ! 昨日のより熱いじゃねえか!」

「そうですね。えへへ、今のリンさんには燗酒の良さは分かりにくいですね」


「なめんな! このくらい飲んでやるよ!」

 そう言って冷まさずにゴクリと飲み、「だおおおおっ!」と胃の熱さにのたうち回る。



「では改めて私も頂きます」


 口に含んだ瞬間の香りを堪能するため、ジュルジュルっと音を立てて飲む。



 ここまで熱すると、人肌燗で感じたような香りの膨らみはなくなり、シャープになる。シャーリの香りではなく、アルコールの匂いが強くなり、気分だけはすぐに酔ってしまいそう。


 燗独特の飲みやすさに、シャーリを直接食べているかのような輪郭の鮮やかな味わい。そして、飛切燗ならではのキレの良さ。飲み込んだ後にはほぼ余韻を残さず、「どんな味だったかな」と次の一口を誘惑する。



「ああ、温まりますね!」

「ふう、ふう……熱いけど旨い! イコイ、これやっぱり、冷や酒や燗酒、それぞれに適したポーションがあるんだろ?」

「ええ。今回はお店で試飲して合いそうなの探してきました」

「そこでも飲んでるのかよ……」


 試飲せずに色々冒険してみるのも面白いですけどね、と憩が笑っていると、隣から「アンタ!」という叫び声が。見ると、料理長の主人が横になってゆらゆらと揺れている。


「ちょっとアンタ! 弱いのにたくさん飲むから!」

「へへ……美味いから、ついよぉ……」


「こりゃ料理できそうにねえな……」

 呆れた目で溜息をつくリン。おばさんは「困ったね、お客さんもうすぐ来るのに……」と狼狽している。



「分かりました! おばさん、今日はポーション中心のメニューにしましょう。温度の違いで飲み比べしてもらうってことで。私も手伝いますから」

「本当かい! 面白い企画だし、助かるよ」


 両手で憩の手を掴んでぶんぶんと振るおばさん。


「おい、イコイ。余計なことに首突っ込むなって」

「リンさん、あっちの酒場で魚の骨をたくさん揚げてもらってください。大量に余ってるって言ってたので」


「あのな、何で俺がそんな――」

 彼の言葉を制したのは、ヘルプと期待とを存分に込めた、彼女の眼差し。


「リンさん、国王様直轄の組織にいる、期待のエリートですもんね。困ってる人、放っておけないですよね」



「…………ったく、今回は大サービスだかんな!」



 心無しか尻尾を嬉し気に振りながら、リンは食堂を走って出ていった。



 こうして、呑み助の慌ただしい夜は過ぎていく。

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