この空の下で君に詠う

ハル

その者 古の御言にてこの地に降り立つ

世の導きに その力 使う也




その日は記録的な猛暑で、誰もが僅かでも涼を求めていた。

私も強烈な熱気と湿気の中、転職して早3ヶ月の職場で汗を拭っている。

河野瑞希、21歳。

派遣会社で製造業だが、任される仕事も増えてきた今日この頃。

やり甲斐とまではいかないが、その責任は充分に感じ、日々の糧を得ていたそんな日だった。

定時の鐘で1日の終わりだ。

こんな暑い日は、早々に帰って汗を流すのが一番である。

自宅といっても狭い1ルームのアパート暮らしで、今のところ生活に潤いを持たせる相手も無かった。

コンビニで発泡酒1缶とちょっとしたおかずを購入して、家路につく頃には月光が瞬いていた。


「今日は満月かぁ…」


アパートの入り口から見える月は低く、赤い色を帯びて不気味に闇を照らしている。

何気なく見やってから部屋へ入った。

シャワーを浴びた後のお楽しみに発泡酒を冷凍庫に入れる。

キンキンに冷えた喉越しを想像すると、この暑さも悪くない。

そそくさと衣服を洗濯機に放り込むと、なるべく低温のシャワーで全身の汗を流して清潔にしていく。

浴室を出ようとした時だった。


「………」


僅かな声音にギョッとした。

驚きで振り返ろうとした私の身体は、何かに引っ張られるようにぐらりと傾き、そのまま浴槽の床に倒れ込む、その衝撃を想像して硬く目を閉じた。

が、倒れ込んだ先は水の中。

湯船にお湯は張ってなかったはず。

もがく様にその場で立ち上がると、腰の高さまで水に浸かっていた。


「冷たっ!」


それは紛れもなく冷水。

いくら夏場でも、冷水にいきなり浸かれば身震いもする。

それに、湯船には何も入れてないはずではなかっただろうか。

そこで、漸く辺りに見を走らせた。その暗さに一瞬戸惑うが、すぐに仄かな灯りに顔を上げた。


「…赤い…満月………あれ?」


先程帰りがけに見た満月と幾分も変わらないが、なぜ見えているのだろうかと混乱した。

自分の居場所を確認する。

満月の灯りに照らされて目に飛び込んで来たのは森の木々。

どうやら自分は森の中の小さな湖に入っているようだ。

更に混乱した。


「…え?…何で?」


いくら冷静になろうとしても、心はなかなか落ち着いてくれない。

しかし、その内に身体が冷えてきたのを感じて、兎に角岸に上がろうと動き出した時だった。

木々を掛け分ける音と共に、男の声と姿を確認した。

何を言っているのか理解できない言葉とその出で立ちに暫く呆然としていると、男は目線を反らして何かを言ったあと、クルリと背中を見せた。

その様子に、ギクリとしてあることを思い出してしまった。

ゆっくりと自身の身体を見下ろす。

シャワーを浴びていたのだから当然といえば当然ではあるけれど、私は見事なまでに裸だった。

ハッとして身体を隠すようにその場で腰を屈める。

冷水が肌に痛い。

裸体を見られた恥ずかしさで、声も出せずにその場から動く事もできなかった。

状況の把握も出来ないまま、身の危険まで迫っている。

オロオロと辺りを見回すが、その場で蹲るしか出来なかった。

すると、先程の男が森の奥に向かって何かを発している。

少し慌てた様子で叫んでいた。

そして、何かが近づいてくる気配がある。

身が震えるのは冷水のせいだけではなかった。

更に男が声を荒げる。

すると、暗闇から布らしき物が投げ出された。

男は受け取ったそれを、背を向けたままこちらに差し出した。

その際に何かを言ったが、やはりわからない言葉だ。

ここは外国?相変わらず混乱していたが、男が私を気遣って布を差し出しているのは理解できた。

また何かを言う。早くしろとかそんな感じだろうか。

兎に角、このまま此処に居ても状況の進展はないだろう。

不安を抱えつつも、そろそろと男に近づいて布を受け取った。

月明かりの中、震える手で確認すると、ただの布ではなく着物のようなものだった。

男物なのか、袖を通すとだぶついた。

しかし、肌は隠せる。細い帯らしき物もあって、凍えた指先でなんとか結び終えた。

暫く待っていたが、男は背を向けたままなので、恐る恐る口を開く。自然と声が震えた。


「…あ、あの…」


そこで漸く男が振り返る。

満月のおかけで男の顔を確認するのに苦労はなかった。

長身で体躯もしっかりしている。月明かりに照らされた端正な顔に思わず息を飲んだ。


『着たか』


相変わらず男の言葉は理解できない。不安な面持ちで小首をかしげた。


『…まさかこんな娘だとはな…予想外だ』


男は苦虫を噛み潰したような表情で何かを呟く。不安に思いながらも紳士的な態度の男に取り敢えずお礼を言う。


「…あの、服…ありがとうございます…」


その言葉に男は大きなため息を吐いた。


『…言葉も違うのか…厄介だな』


その時、森の奥から声が響く。


『キリトさん!まだか?"導き"は居たんだよな?』

『おぅ!今そっちに連れて行く!』


自分の浴室から突然解らない場所に来たこと、言葉も通じない事に酷く不安になる。

目の前の男はどんな人間なのだろう。じっと男を見ていると、突然その手が差し出される。

ビクッとして身構えると、男は一瞬躊躇した後私の手を静かに取った。


『言ってもわからんだろうが、各国が血眼になってあんたを探している。悠長にしてる場合じゃねぇんだ。悪いが、このまま俺達の所に来てもらう』


端正な顔立ちの男の鋭い眼光にビクつき、掴まれた手を引こうと試みたが叶わず、そのまま引き摺られるように森の奥へと誘われた。

数歩歩くと、男と同じような格好の4~5人の男達が姿を表す。

更に不安が増した。

男達は値踏みするかのように視線を纏わりつかせ、各々口を開く。


『…これが"導き"…普通の娘みたいだな…』

『いや、しかし、普通の娘とは少し毛色が違うぞ』

『…本当にこんな娘が?』


その視線がいたたまれなくて、私は掴まれた手を振り解こうと再度試みた。そこへ、落ち着いた声音が聞こえてくる。


『ほらほら皆、怯えてるじゃない。若い娘をジロジロ見るのは、あまり行儀良くないよ』


その声に一同が笑い出した。私はまたもビクつく。


『わはははは!確かにお前の顔じゃ怯えて当然だな!』

『何だよ、お前こそ人の事言えた顔かよ』

『違ぇねぇ!お前ら2人は下がってろ!』


大柄な男達の遠慮の無い大声に戸惑っていると、先程の静かな声音の主が近づいてきた。


『すみませんね娘さん。ガサツな男達ばかりで』


何やら優しげに声をかけられたが、その言葉を理解することは出来ない。

身長はそこそこ高いものの、線が細く見える。そして、とても綺麗な顔立ちは優しそうな雰囲気を纏っていた。


『クタニ、どうやら言葉が通じないらしいぞ』

『えぇ!そうなの?それは参ったね』

『あぁ、これからの事は戻ってからだ。急いで此処から離れよう』

『そうだね。グズグズしてると、また別の国の兵に出くわすかも知れないし』


一通りの会話が終わると、男達は私の手を引いて動き出した。

此処は何処なんだろう。これからどうなるんだろう。

私の心は恐怖と不安でいっぱいだった。


暫く森の中を引かれて歩くと、突然に視界が開けた。その光景に私は愕然とする。

野原になっている其処には、無数の人間が転がっていた。

誰もがおびただしい流血を伴っているそれは、遺体だった。

数え切れない人数が横たえる中を、一団は平然と横切って行く。

彼等の仕業なのだろうか。

胃の中の物が逆流してきそうで、私は口に手をやった。

その行く手には数頭の馬が見える。

少し前から思っていたが、彼等の服装や腰に挿した剣は、どうも私の日常とはかけ離れている。

何かの撮影かとも一瞬思ったが、カメラや器材の類は一切見当たらない。

そんな事を考えてる内に馬の所まで到着してしまった。

各々がそれぞれの馬に跨がる。私は手を引いていた最初に出会った男の馬に乗せられた。

後ろから抱きつく様な格好で馬を操る男に、今の私はそれどころでは無かった。

このまま、何処へ連れて行かれるのだろうかと不安になりつつ、しかし、どうにも出来ない現状に深い溜め息が溢れた。

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