Sentimentalisme (前篇)

人間失格——とまではいかないが、国語教師としては失格という自覚はあった。

高校時代の自分と比べて、文学の知識が圧倒的に増えたという自負はぜんぜんない。国語の知識が不足していても高校の先生になれてしまう、そしてひとたび教員になれば、よほどの能力不足でない限りやめさせられることのないシステム。


そんな自分に教わる生徒はかわいそうとさえ思っていた。だってそうだよね、小説の執筆なんてできない。読書を楽しいとも思えないんだよ。ピアノも弾けない、音楽もぜんぜん聴かない音楽の先生がいる?


「『人間失格』は太宰治だよ、覚えておいてね」


——なんて言ってるくせに、『人間失格』を読んだことがない。いや、知識のなさを指摘されるのがこわいから、名作のあらすじや受験で問われる一通りの知識は有している。授業の予習も懸命にする。不安だし恐いから。定期テストでみんなを評価しなくてはいけないから。まるで親や先生に怒られるのが怖くて勉強する生徒みたい。リトル・美月(中1)が、過去に友だちに言われたセリフを引っ張り出す。


「美月、なんで教科書ぜんぶにフリガナ振ってるの?」


理由は30字以内で答えられる。

音読しろと指名されたときに、読めなかったら恥ずかしいから。

たとえば『読む』という字にすら、念のためフリガナを振っていた。似たような思いをさせないために、美月先生は生徒に音読させないと宣言している。そのかわり、自分が教科書を読む。さすがに『読む』という字にフリガナは振らないが、怪しい字がないか必死に調べる。授業中にかまないように何度も音読する。生徒からすると深く突っ込んだ質問もされないし、音読もさせられないし、課題もほとんど出されないからとてもラクだ。ラクだが興味は深まらない。これでは誰の得にもなっていない。


でも——


昨日、茨木のり子の詩が、すごくいいタイミングで頭から出てきてくれた。それは誰得の音読練習を、何度も何年も繰り返していたご褒美かもしれない。



あらゆる仕事

すべてのいい仕事の核には

震える弱いアンテナが隠されている きっと・・・



昨日、美月は初めて『羅生門』の音読を宿題に課した。人にどう思われてもいい。自分なりに精一杯のいい仕事をしたい。みんなにとってはただの宿題かもしれないが、美月にとっては画期的な一歩だった。

放課後、授業を終えると美月は閉鎖された図書室へと向かった。今の時代、スマホで何でも調べられる。学校にはパソコン室もある。一方、蔵書も少ないし、利用している生徒もそこで読書などせずスマホで遊んでいる図書室。高校にそんなスペースはいらないという結論に至り、3階の日の当たらない場所、廊下の突き当りにあるひと気のないその部屋は、2月の末に封鎖されてしまった。


しかし——


いきなり素晴らしいアイデアが降ってきた。美月にとってもリトル・美月たちにとっても、図書室はいつでもお気に入りの大切な場所だった。誰にも使われなくなってしまったあの場所、学校から見捨てられたその場所でひとり、次の授業の準備をしよう。あそこならパワーをもらえる。少しだけかもだけど、クリエイティヴになれるはず——それは美月にしては新鮮で革命的で非日常的なアイデアだった。

ドアに手をかける。


「あれ?」


カギが、開いている。


美月は冷然と小さく息を吐く。

もう、驚かない。

いる。

確実にいる——


「お、美月先生! ちょうど完成したところに!」


いつだって前触れもなく、いきなり。

ちょうど完成したって、何が?


ヴィンセント・VAN・海馬

そして渡辺結ちゃん。


先を越されていた。

ふぅ——


Sentimentalisme


自分の革命的アイデアが存外、平凡だったことに美月は失望した。この子たちにとっては、封鎖された図書室に忍び込むなんて、革命的でもなんでもない日常なんだ。


もう、いい。

リトル・美月たちは黙っていて!

わたし、すねている?

うらやましい?

能力とかエネルギーに嫉妬している?

おとなげないか。

平凡なわたし。

クッソ平凡なわたし。

国語教師失格でいつもビクビクしてて、

仕事を辞めたいけど辞められないわたし。

決意してはそれをすぐ引っ込める、情けないわたし。


でも——


表情を失った美月を2人の男女が見つめている。

健気に、わたしの下の名前を読んでくれている生徒がいる。


震える弱いアンテナが、感受した。

わたしはもう、守られる側じゃない。



自分の生徒くらい 自分で守れ ばかものよ



ここで国語教師はつとめて明るく、一方で到底4月らしからぬ、火桶が欲しいほどの寒いジョークを、高校1年の男女に向けて放った。


「ありがとう。わたしの制服を作ってくれたのね」

「あれ? 先生、なんでわかったんですか?」



あ た り ?



渡辺結が見開いていた目を一層大きくして答える。


「みてください、これ! 龍之介!」


濃紺の和服。

芥川龍之介も美月先生の好きな作家の1人だ。


「わあ! すごい! 何これ? いいの?」


男の人の着物を着てみたかった。

新任の時分、若気の至りでちょっとだけ思ったことがある。和服を着て授業をしたらカッコイイかもって。生徒のみんなは強烈なインパクトを受けて、文学に関心を持つんじゃないかって。

でもそれは妄想の域を出なかった。

まず帯が無理。ひとりで着られない。誰に手伝ってもらう? そうだ! だったらいっそ、簡単に着られる男の人の着流しなんかどう? コスプレみたいだけど、面白そう!! 似合うかどうかは別として。


しかし——頭で素敵だとか面白そうと思ったアイデアも、いざ実現しようとすると躊躇してしまう。何よりクビにされたらどうしよう、みんなに笑われたらどうしようという思いが先に立ってしまう。そもそも自分が関心を持っていないのに、人に関心を持たすことができると考えることが思い上がりだ。


でも、この子たちと一緒なら——妄想を現実にすることができるかもしれない。


「ありがとう。でも、わたし、似合うかなぁ」

「あ、先生のユニフォームはこっちですよ、先生は羅生門の老婆の・・・」



ろ う ば 



「は?! 老婆って!」


——下人に蹴落とされるあの人?!

海馬は天井を睨みつけるようにして、朗読を始めた。


「下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりである。下人は、剥ぎとった檜皮色の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた」

「すごい! 覚えてるの?」


驚かされる水野先生に対し、渡辺結はちっとも驚かない。


「音読を宿題に出したのは先生ですよ」

「そうだけど——」

「この人、一発で覚えてました。すごいですよね」

「別に覚えたからってすごくない。それより、ひわだ色って初めて聞きましたよ。色って色々あるんですね」


どこから集めてきたんだろう——ヴィンセントは机に山積みされた茶系の、古い着物を次々と手に取り識別した。


「これはどんぐり色、こっちは木蘭。これは生壁色、ここはかわらけ茶。これが柿しぶ色、そしてそれがひわだ色・・・茶色だけでこんなにある。すごい。面白い」


宿題を出したのは昨日。

1日あればこの子はあっという間に進化してしまう。


「先生、おれ、芥川龍之介について、けっこう詳しくなりました。先生のおかげです。ありがとうございます」



ありがとう——


海馬くんの『結構』は『途轍もなく』と受け取って問題ないだろう。


それより——


自分の影響で生徒が作家を好きになってくれたことが、美月にとっては画期的で革命的だった。これまでどれだけ本をすすめても、誰も手にとってくれなかった。がんばって書いた図書だよりはゴミ箱に捨てられていた。得点には入れない、出しても出さなくてもいいと言った夏休みの読書感想文は、誰ひとり提出してこなかった。

教師になって初めてだと思う。

ようやく、伝わった。

ずっと求めていたんだ、この喜びを。


先を越されたとか、ちっちゃかった。


Sentimentalisme


涙が出るほど嬉しい。


「芥川龍之介、わたしも、好きな作家だよ」

「しかも芥川賞ってあるんですね」

「うん」


名前とほんの少しの情報しか知らない。純文学に贈られる賞だということと、半年ごとに選考があること。受賞者は時の人となり、テレビのニュースに取り上げられインタビューを受ける。念のため受賞作品の名前とあらすじは覚えている。ただ美月には純文学の正確な定義はわからないし、受賞作は1冊も所有していない。


「先生、オレ、ひとつ先生にお願いというかリクエストがあるんです」

「うん。わたしに出来ることなら」

「先生——」


ヴィンセント・VAN・海馬は、濃紺の着流しを羽織る。


「オレ、先生に——」


芥川のようなポーズを取ってさらりと言った。


「芥川賞を取ってほしいです」


(後篇につづく)

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