ヴィンセント海馬

藍澤 誠

最初はVAN(前篇)

最初は不安だった。


4月5日木曜日。高校の入学式。いきなりパパもママも来られなくなっちゃったから不安しかない。乗ろうと思ったバスは満員が続いて「すぐ後ろに次のバスが来るのでそちらへ乗ってください」と運転手さんに2回も言われた。バスはぜんぜん来ないし2回とも満員で、3回目のバスには乗れたけど、良かったなんて思えない。買ったばかりの時計を見る。時計って、右腕につけるのか左腕につけるのすぐに忘れちゃう。時間に余裕を持って出たはずなのにどうしよう。きっと、かなりあぶない時間だ。


この日の渡辺さんは、家から学校まで近いのにわざわざバスを選んだ。新しい高校には同じ中学の友だちはいない。いるかもしれないけれど、よく知らない。ということはつまり、自転車通学だと帰りにボッチになる可能性がある。


もし万が一友だちができたら、その子たちといっしょにバスに乗って帰ろう。初日からボッチは絶対マズイ。教室に入ったら3秒以内に近くの子に話しかけよう。ここはもう、勇気を出す一択。シンプルに「おはよう」でいい。「何中?」「制服、めっちゃ似合ってるね」――ひとまず笑顔を連発だ。


バスが信号で止まるごとにつり革から手を離し、スマホで親にLINEしたり、いろいろなバージョンの作戦を頭でリアルに何度もシミュレーションしていたら、学校前のバス停を行き過ぎてしまった。しかも気づいて降りたのは2つ先のバス停。

もどるバスがなかなか来ない。渡辺さんは高校では無遅刻無欠席を目指していたのに、入学式初日から遅刻というハプニングに見舞われた。パパとママになんて言おう。ていうか1人で遅れてクラスに入ったら・・・めっちゃ恥ずかしいって! 

あだ名はきっと『遅刻ちゃん』になる。渡辺さんは恐れた。ついこの前、美容師さんからこんな話を聞いたばかりだったから。


美容師さん:入学式はホント気をつけた方がいいよ

渡辺さん:緊張します!

美容師さん:俺の高校の友だちでさ、入学式におならしちゃったヤツがいるんだよ。そいつのあだ名、何てなったと思う?

渡辺さん:え? わからないです。

美容師さん:プーさん


反対方面のバスに乗ると、ガラガラだった。渡辺プーさんが涙でうるんだ目でバスの外を見ると、歩道をあり得ない速さで走っている男の人がいた。オレンジのド派手なジャージ。


「え?!」


渡辺さんは陸上部に所属していたからわかる。あの速さは、市民大会1位だった男子のキャプテンよりも圧倒的に速いペース。道路が空いていてバスもそれなりのスピードが出ているのにバスが追いつけない。

学校前のバス停を降りると、オレンジの男の子が待っていた。


「おはよう」


いきなり声をかけられた。


「あ、はじめまして!」


せ、先輩・・・かな? 


「はじめましてじゃないよ、3度目だよ。渡辺さん」

「3度目?」

「1度目が2月23日、2度目が3月1日。3度目が今日」


1度目と2度目は、入試の日と合格発表の日だ。


「よかった、今日は紅い」

「何が? え? 何が赤いんですか?」

「ほっぺ。あのとき真っ白だったから」


たしかに受験の日も発表の日も緊張しっぱなしで、明け方の哀しい時のお月さまのように真っペイルだったと思う。ていうかなんで赤の他人、いや青の他人のほっぺの色を覚えているの? あり得ない。



ピ ン ポ イ ン ト す ぎ る



しかもこの人が着ているジャージ・・・見たことないくらいレトロで、なんだか古着みたい。受験っていうことは同い年? でもちょっと大人っぽいし。


「センパイ・・・ですか?」

「同じクラスだよ。1年4組。配信された名簿見てないの?」

「え!」


ヴィンセント・VAN・海馬(びんせんと・ふぁん・かいば)。彼を知っている者ならやすやすと予測がつくであろう。学年全員の名前が記載されているリストを彼に渡そうものなら、その場でひと目で暗記してしまうことを。


「わたなべ・ゆい、でいいのかな。ずっと気になっていたんだけど。結ぶって字はゆいって読みでいいんだよね?」

「わたしの・・・何で名簿だけで、わたしの顔がわかるの?」

「入試のとき隣の席だったから。受験票にも名前が書いてあったし」


渡辺結には信じられない。



テ ス ト 中 よ ゆ う あ り す ぎ



「ウソ! よくそんなの覚えているね」

「結って、きれいな字づらだったから。美しい響きだね。なんでゆいの友だちは渡辺って呼び捨てにするの? もったいないな」


そのときの結のほっぺはきっと月から太陽にかわっていただろう。顔マッカッカなフィーリングを隠すために、渡辺さんはバスの中で何度も練習していたフレーズを少年に向けて吐き出した。


「じゃあ・・・あの、よろしくね。えっと、名前、聞いていい?」

「オレの名前?」

「うん」



ヴィンセント・VAN・海馬――


長い名前のどのパーツを言おうか彼は迷った。

迷うことなんてないか。

どれを言っても結局聞き返され、説明を求められるのだから――



「ファン」

「え? フアン?」

「そう」

「わかる! わたしも。私もめっちゃ不安」

「ん?」

「しかも、わたしたちいきなり遅刻しちゃったよね、どうする?」

「遅刻・・・してるの?」

「もう8時55分だよ。やばい、どうしよ!」



海馬くんは少し目を閉じた。

頭の中の記憶をたどっているようだ。


(後篇につづく)

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