第36話 それぞれの言葉、多くを語らず

 『流されやすい』。

 ……一体いつから僕がこの能力というか特性というか性質を得たのか分かりませんが、ともかく母に聞いてもベルに聞いても僕の記憶でも、幼少の頃からだったようです。最初の流される可能性があった流産を避けられたのは奇跡としか思えないくらいには。

 水場には近付けません。川も海も池も風呂も、ありとあらゆる水場に近付けば足をさらわれて流される、もしくは溺れるのが定番でした。ですから外出時には必ずベルか他の兵士とかが付いてました。

 更にこの『流されやすい』、人によっては僕がたまに迷子になると「人に流された」、とか僕の意見がスルーされると「話を流された」……なんて概念的な使い方をする場合もされたもんですからたまったものではありません。……まぁ、自分でもそう解釈する方が納得のいくことは多々あったのですが。


 そんな哲学的な解釈はともかくとしても。

 海に面し、海上貿易が主力とも言えるロイアウム王国の王子がそんな難儀な体質な訳ですから、乳母や侍女なんかにも「あの王子様はいつ死んでもおかしくない」と囁かれていました。もちろん、僕自身異論はありませんでしたとも。何度死ぬと思ったかは分かりません。


 そして。


「……………………」


 遠ざかる海面と黒い巨大な影を見上げながら、いよいよその時が来たかと感じていました。

 息は苦しいですが、もうその苦しみも随分遠く感じます。それこそ影との距離くらいには。心はいっそ穏やかです。諦めの境地……なんでしょうか。もしかしたらもう死んでるのやもしれません。だとしたらこれは目に焼き付いた光景なんでしょうか。

 さすがにロイヤルの生まれと言えど死ぬのは初めてです。死にそうになったことは多々ありますけど。


「…………………………」


 心残りがあるとすれば……やっぱり、ベルとハアトでしょうか。ベルには悪いことをしました。あれが最期になろうとは……きっと怒るでしょうし、なんだかんだ優しいので泣くでしょう。でも僕がいなくても生きていける強さはあります。

 むしろ気になるハアトのこと……を考えようと思ったのですが、意識が遠くなってきました。いよいよ死ぬとみえます。まぁ彼女はドラゴンですし、それこそ人間の死ぬとこなんて何度でも見てるでしょうから、心配ないでしょう。

 なんだなんだ、僕の家庭は安泰じゃないですか。村の人たちもいるし、先は明るいぞう!

 ……でも。

 …………ただ。

 …………もし彼女らに一言残すのであれば。

 …………駄目ですね。何か残そうと思ったのですけれどベルはともかく、今の僕にはハアトになんと言葉をかければいいかわかりません。

 ………………口だけは達者、のはずだったんですけど。







 天国にしてはやけに暗い。

 もしや僕は神々の下ではなく罪人や悪しき魂の行くという冥界へ辿り着いたのかしら、確かに少なくとも二人の女性を不幸にしたし可能性はある……そう思いながら目を開けば、一面の黒。


「…………」


 光沢を帯びているくせに、飲み込まれそうな……そう、思わず『触れてしまいたくなりそうな』黒が視界を覆っていました。ですが幸いなことに、僕はその黒色に触れてはいけない――いや、触れられないことを知っています。

 そしてそれを知覚すると同時に全てがなんとなく把握出来て……思わず、笑ってしまうのでした。


「ははっ、ぐ……かはっ! ……うぇ」


 からからと軽快に、それこそ何度死線をくぐったか分からぬ歴戦の傭兵のように笑おうとしたのですが、生憎喉だか胸だかに水が残っていたらしくむせてしまいます。相変わらずかっこつきません。ダサいなぁ僕。

 僕がみっともなく息を吹き返せば、もちろん助けてくれた彼女はそれに気付きます。


「ルアンさま! おきた!」

「ははは……僕、生きてる?」


 少女の明るい声と共に、視界が一気に開けます。……というのもどうやら僕は親鳥が卵を温めるように、彼女の下にいたらしいです。強靭な四肢が伸ばされて、黒い天井が高くなります。もちろん、触れてはいませんでしたけど。長い首が伸ばされて僕の頭頂部を嗅ぎます。


「わかんない! たしかめてみる?」

「やめとくよ」


 どうやって確かめるのかは知りませんが試せばもう一度生死を彷徨うことになりそうなので遠慮しておきます。


「よっ、と……んぐぅ、ぐぇ」


 体をゆっくりと起こすのですがその拍子にまたむせます。むせるというか喉の奥から水がせり上がってくる、って感じです。いやだな、また嘔吐系男子とか言われる。誰にも言われたことないけど。


「うぅ……気持ち悪い……」


 まだ体が万全ではないのか逝ってた魂が定着してないのか知りませんが、ぼんやりして何か見えてくる気がします。そう、あれはさっきまで談笑していた井戸――じゃねぇ、お父様。ついでに建国神話の父も見えます。筋肉モリモリマッチョマンの英雄が。


 ……さすがに冗談ですが、ぼんやりと浮かぶ光景があるのは事実です。体の記憶か魂の記憶かは判然としませんが、ここに運ばれるまでのことをなんとなく覚えていました。

 あのまま沈むかと思われた僕は、次の瞬間には水上へ巻き上げられていた……と思います。具体的な様相は思い出せませんが、たぶんハアトの魔法で。そのまま運ばれて、今は巣。


「……一応大切にされてるってことかな」


 ハアトには聞こえないように、小さく呟きます。いえ、輸送方法が完全に彼女の『たからもの』の聞いていた輸送と同じだったので。

 ハアトは珍しく静かに僕の上から退いて、四つ足をまた折り畳むと隣に座っています。僕は体と頭がはっきりするのを待ちつつ色々考えて……取り敢えず、一言。


「……ごめん、ハアト」


 何故この言葉が出たのか、自分でも一瞬分かりませんでしたが……でも、最初にかけるべきはこれだと思いました。

 本当は「ありがとう」であるべきなんでしょうけど……僕のせいでハアトにも嫌な思いをさせたのは、その……あの一瞬に見開かれた赤い瞳が目の奥に焼き付いて訴えていました。


「うん」


 ハアトから返ってくるのは、それだけ。

 たった二音の短い返答に、僕は伸ばした――いや、伸ばしてしまった自分の手とこちらに背を向けている彼女を交互に見つめます。


「…………」

「…………」


 ハアトにも何か思うことがあるのか、それとも未だに嫌悪を抱いているのか。或いは、何でもないのか。……さすがにいくらか慣れてきたとは言え、鱗で覆われた巨躯は冷たく何も語りません。

 とにかく今は生きていたことを喜んでさっきまでの団欒に戻るべきなのかもしれませんが、海側へぽっかり開いたもう一つの入り口、その水面に映る赤い夕陽を見ていると……その、触れるなら今しかないという気になります。

 聞いてみなきゃ、分からないですから。


「ハアトは触られるの嫌い?」

「きらい」

「……そうだね」


 即答は予想以上に強い語気を孕んでいて、まるで反射的に突き付けたようなその言葉に僕は分かっていたことながら肩を落とします。

 彼女からは触れてくれる、というかハアトからのスキンシップは多いのですが彼女はとにかく触れられることを嫌いました。それが何故なのかまで聞こうと思っていたのですが、しかし今の拒否を見る限りこれ以上触れればそれこそ逆鱗かもしれません。


「……きらい」


 もう一度、ハアトが小さく呟いたのを最後に僕はこの話題を終わらせることにしました。ですので言いそびれていたことを付け加えます。


「あとありがとうハアト。助けてくれて」


 彼女がいなければ僕は確実に今頃海の底です。さすがにここで礼を欠いては僕が許さないので、少しふらつきつつも立ち上がり、片膝をついて両の拳を地につけるロイアウム式最大礼を示します。……誓いの時もそうでしたが、ドラゴンに意味あるのかは知りませんけど。

 ハアトはその礼に満足した……訳ではないでしょうが、自信満々に振り返って満面の笑みです。ドラゴンの邪悪な笑み。いえ、無邪気なんですけど。


「にんげんにできないことできるからね! ひんじゃくしゅぞくめ!」

「申し開きもございません」


 強いてあるなら水場の弱さに感じては全人類がこうではないということくらいですけど、彼女の世界は狭いので。


「それに……」

「それに?」


 ハアトにしては珍しく言い淀んだので顔を上げて先を促せば、彼女はこう言い放ちました。


「にんげんをたすけるって、にんげんみたいでしょ」


 実にハアトらしい発言ではあったのですが、その言葉にゆらぎのようなものを感じたのは、僕がまだ意識が完全に戻ってないせいだったのかもしれません。





 僕は(というか恐らくハアトも)今日は巣に二人で寝泊まりするつもりだったのですが、意外なことにハアトから今日は帰れとのことだったので、僕は風に送り届けられて自宅に戻ることになったのでした。

 明日来い、とも言われず拍子抜けするくらいだったのですが返れば蝋燭の暖かさとベルが待っていました。僕が戸を開けて帰宅を告げれば驚きを微かに浮かべて出てきます。


「今日は巣で泊まられるものだと」

「僕もそのつもりだったけどね」

「我々が散々働いた後に悠々帰宅とは、さすが元・王子様はいいゴミ、いえ御身分でいらっしゃいますね」

「今ゴミって言った?」

「まさか!」


 そこからしばらくは彼女から畑の進捗やジョーくんがどれだけ立派な青年かということを聞かされたのですが、それを聞いていれば聞いているほど、なんだか申し訳なくなってきて。

 僕は彼女の話がひと段落した辺りで耐えられず、頭を下げました。


「ベル、ごめん」

「何ですか急に謝って……」


 ……理由は、答えらえませんけど。

 でも僕は彼女の言いつけを破って死にかけたのだと思うと謝らずにはいられなくなった結果の行動でした。我ながら突飛すぎます。

 しかし、ベルも何かは察してくれたようで。


「……理由は?」

「……話せない。まだ」


 我ながら話せばいいのに、とは思うんですけど。意地なのか……或いは、ハアトのことがあるからか。


「……いいでしょう。謝罪は受けます」

「うん。ありがと」

「くれぐれも気を付けて下さい。私はルアン様の従者で、あなたが帰るべき家はここです。いいですか」

「わかった」

「なら良し。……何があったかは聞かないけど今日は早く寝たら?」

「そうするよ、ありがと」


 僕は背中で彼女のクールさの中に見える暖かさに感謝しながら藁のベッドが待つ寝室へ向かうのでした。





 朝にしてはやけに暗い。

 もしかして僕は寝付けずまだ人ならざる者の時間帯なのかしら、だとしたらまだまだ寝られて最高、ビバ自堕落……と思ったのですが瞼越しの世界は暗くとも耳に届く小鳥のさえずりやベルのものであろう生活音は朝を告げています。目は夜、耳は朝。これってなーんだ。……うーむ、難問です。

 答え合わせすべく目を開けば。


「よう。ちょっと朝弱いんじゃねェのか、坊主!」


 目の前には輝く小麦色の上裸と煌めく良い笑顔の漁師さん。


「うわぁ!?」

「これでおめェの寝顔を見たのは二度目だな、はっはっは!」


 驚きまくった僕がベッドから転がり落ちたのでカルロスさんは豪快に笑いながら手を掴んで起こしてくれます。相変わらず頼れまくる腕力。そして家中に響かんばかりの大声。


「上手く暮らしてるか? ン?」

「お陰様で」

「はっはっは! そりゃァ何よりだ」


 久々の登場に僕としては度肝を抜かれます。なんせ彼の本来住んでいる浜からここまでは一番遠いので……何故か来てくれることを約束してくれてるんですけど。


 ちなみにカルロスさんの言った通りもう朝は過ぎているらしく、そろそろ昼と言っても差し支えないくらいでした。どうやら死にかけたのは体にダメージとして蓄積されていたようで。


 いえ、そうじゃなく。今は昨日を振り返っている場合じゃありません。いくら『いつでも来るぞ!』みたいな快諾をしてくれたカルロスさんとは言え何の理由もなく来ることはないはず。僕は日課の脱糞より前にそれを尋ねます。


「カルロスさん暇なんですか?」

「暇な訳あるかボケェ」


 オレぁ漁師だぞ、と額にそこそこ痛いデコピンを貰います。危うく涙がちょちょぎれるくらいの。目覚めには良い一発です。


「ではどうしてまたこんな辺鄙なとこに……」


 ひりひりする額をさすっている涙目の僕へ、彼は自信満々の顔で言い放ちました。僕らの生活をまた一つ大きく変化させる、その一言を。


「仕事がな、決まったんだよ。おめェと獣人の姉ちゃんのがな」


 それは、僕の万歳無職生活の終焉を告げる一撃に他なりませんでした。

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