第二章 僕と獣人とドラゴンと
第23話 うんち、香る
朝起きて真っ先にすることは人によって異なります。
まず顔を洗う人、水を飲む人、外の空気を吸う人、もう一度夢に戻る人など。いえ、最後のはもちろん冗談ですが。冗談ではなくそうしてらっしゃる方もいるかもしれませんけど。
そして僕の場合は、朝はトイレから始まるのでした。
清々しくない――こともない朝を迎えた僕は、早速そのルーティンであるところのトイレを済ませたいのですけれど、生憎嫁に馬乗りになられているので、すぐに向かうことは出来ません。
「おはよー、ルアンさま!」
「……やぁ」
朝日に照らされた無邪気な笑顔はとても可愛らしくて我が幼妻には笑顔で同じく「おはよう」と挨拶を返したいのですが、それは叶いません。叶える訳にはいかないのです。
『いってらっしゃい』で家を半壊させる
「……あいさつしないの?」
「したいのは山々だけど僕死んじゃうから」
むすっとした顔も可愛いですが心苦しさもあります。助けを求めようかなとベルを伺いましたがもう居間に移動したらしく姿は見えません。まぁベルがいた場合も頼りになるかは不明なのですが。
しかしそれでもハアトは僕とおはようの挨拶がしたいらしく。
「だいじょうぶ! きをつけるから、たぶん!」
「最後の一言が無ければ安心したかもしれないのになぁ」
「ルアンさまはカマキリとかクモのふうふかんけいってしってる?」
「何で今その話したの? 僕物理的に食べられるの?」
「ほねはひろうてきな!」
「洒落になってないから」
よく考えれば我が家もメスの方が本当の姿だと数十倍体格が大きいのでそういった意味では例に出したように自然界的と言えるでしょう。ですが我々が目指すべきは人間的な夫婦関係です。かの熊さん(故)の後輩にはなりたくないので、ここはハアトに納得してもらうしかないでしょう。
「ともかく、挨拶はハアトの変身と相談しながら、ね。あとそろそろ起き上がりたいのでどいてくれると嬉しい」
「うーん、しゃーなしなのかな? にんげんはみんなあいさつするんじゃないの?」
「しゃーなしだよ。しない夫婦だっているんだし」
「ならいいや! またこんど!」
人間でもしないことがあると伝えたからか、意外とあっさり引き下がってくれました。彼女は驚異的な跳躍力で天井すれすれを行きながら僕の上から飛び退きます。お陰で腹部に隙を生じない二段構え的な一撃を受けることになりました。便意も加速するというものです。
起き上がった僕は取り敢えず伸びをして、改めて下腹部やや背面寄りに確かな便意を感じます。ベルは幸いいないですから、ここはハアトにも退出してもらいましょう。
「ハアト、僕これからトイレするからちょっと出て貰える?」
「トイレ? ハアトみててあげるよ?」
「見てて頂かなくて結構です」
そもそも好んで見るものでもないはずです。それともハアトにはそういう趣味があるのでしょうか。いえ、城の近衛兵にも一人いましたから誓って差別意識はありません。ですが妻がそういう趣味だとこれからの夫婦生活に色々と懸念が。ドラゴンで幼妻でスカトロ趣味って属性盛り過ぎじゃないですかね?
「にんげんのうんちするとこみてみたい気がしなくもないけど、そういうならいいや」
「うんちとか言わないの」
訂正します。どうやら生物学的な興味だったようです。余計に質が悪いような。それにしても幼い少女の見た目なので「うんち」がギリギリ許されていますが、これをドラゴン状態で言うと一種のシュールギャグだったと思います。閑話休題。
兎にも角にも、無事ハアトは別のものに興味を示して部屋を出て行ってくれたので安心して用を足すことが出来ます。例の茶色い素焼きの鉢を取り出して腰を下ろすわけです。
「よいこらー……相変わらず邪魔だなぁこの棒」
はい接触事故。ベルが設置して鉢にそそり立つ棒が僕と不要なチャンバラを起こします。完全に失念していました。以前もそうしたように鉢を回して邪魔にならない位置へ移動、再び踏ん張ります。
出ます。
会心の便です。略して快便です。
「……そう言えばトイレ問題も早めに解決したいなぁ」
脱力感に包まれ天井を眺めながらそんなことを考えます。
棒の問題は僕が譲歩することで解決はしましょうが、しかしハアトも一緒に暮らすとなると人族と獣人族だけの問題ではなくなるわけです。
下世話な話ですが、ドラゴンのトイレはどんなもんなのでしょうか。さすがにドラゴン状態での排泄は我が家の内では有り得ませんけど、人族に変身している状態なら人族と同じスケールで出てくるのでしょうか。獣人族みたいに何か修正が絡んでいたりするのでしょうか。
「うん、これは考える必要がある」
すっかり出きったのでベッドの藁を少しだけ拝借して始末に充てます。生活の基本には衣食住が挙げられますが、食がある以上排泄の問題は避けられません。当のハアトが人間らしい生活を望んでいるだけに尚更です。
さて、いつまでも部屋の中に自身の排泄物を放置していればそれこそ家畜と大差ありませんので、若干重くなった鉢を抱えて窓の外へ投げ捨てます。朝からちょっとした運動……と呼ぶにはあまりにも簡易ですが。
「すっきりしたー?」
「すっきりした。……うわっ」
思わず反応してしまいましたがいつの間にか部屋の入口にハアトが戻っていました。さすがに排泄は見られていないでしょうけども。
「びっくりしたー?」
「びっくりした」
ハアトが僕のことをびっくりさせない方が珍しいのですけれどね。未だに慣れません、まだ日が浅いので。足湯すら出来ない浅さです。
珍しいと言えば、どうやらこの鉢のようなトイレもハアトには珍しいようで、興味津々に寄ってきます。まぁ、想定の範囲内です。
「これがにんげんのトイレ?」
「うん。あっ嗅がないの」
衛生観念がどうかしてるレベルです。幸い顔をしかめなかったのでそこまで臭くはなかったようですが。良かった。いや何も良くないが。
「ハアトもこれつかってみたい!」
「やっぱりそう思うよね、知ってた」
人間らしい新しいアイテムの登場、しかも直前に僕がお手本の如くそれを使っているのですから使いたいと思うのは道理です。さながら親の真似をする子供ですね。微笑ましい。
しかしここでおいそれと使わせる訳にもいきません。ついさっき考えを巡らした通り、ドラゴンの排泄に関して僕には何の知識もないわけですから下手をすればまた魔法に頼ることになります。ともかく、まずは情報確認です。
「使っても良いんだけどいくつか聞いていい?」
「おっ、むちなにんげんらしいね」
「至らない点が多いかと思いますけれど」
「だいじょーぶ! かまわんよ!」
体の大きさに劣らぬ器の大きさです。僕から言わせればドラゴンが博識かどうかもハアトを見ていると怪しい気がします。知識量としては大して変わらないのでは? 絶対言いませんけど。
「ハアトって人間の姿のままトイレできる?」
「えっ……どうだろ」
「えぇ……」
試したことがなかったらしいです。いやまぁ、そもそもはドラゴンでこの姿でいる方がおかしいのですから人間の状態でトイレしたことなくても何ら不思議はないのですけど、だとしても僕らにとっては死活問題ですので。
悩んだハアトはと言うと、中空を睨みながら手をぎゅっと握り締め少しだけ顔をしかめます。
「……たぶんだいじょーぶ!」
「今踏ん張ったね」
「うん!」
素直でよろしいですが若干の不安さは残ります。しかしここで詰まっていても何も進展しないのでその素直さに免じてこの問題はクリアとしましょう。
「じゃあもう一つ」
「えー、どうしても?」
「そこをなんとか」
「よかろう、おろかなにんげんよ。ハアトをたのしませてみせよ」
「がんばります」
なんだこの茶番。ハアトはどうやらお喋りも好きで気まぐれなようなので度々こんな感じになります。垣間見える残酷さも素敵です。僕自身もお喋りは好きなので満更でもありません。
「ハアトの……その、アレってどんな具合?」
「ハアトのうんちがどんなかんじかってこと?」
人が伏せたのにわざわざ暴かれてはたまったもんではありませんね。
「まぁそうなんだけど」
「それおよめさんにきくことかな?」
「いや普通聞かないけどさ。でも我々種族が違うので」
「めんどくさいねにんげん。やめちゃう?」
「やめないで」
さっきからちょいちょい洒落にならない台詞が紛れています。わざとからかっているのか、或いは本気でポロッと言っているのか。どちらにしろ悪質ですし、恐らく後者なのでより怖いです。
僕は鉢を指しながら質問の意図を告げます。
「いや、これで収まらないとか対処できないタイプだったら困るからさ」
例えば尋常じゃない量だとか捨てる際に苦労しそうな粘液っぽい感じだとかすると、ハアトには申し訳ないですがこれを使ってもらうのは難しくなります。
ハアトはしばらく悩んでいましたが、笑顔で答えってくれます。
「わかんない!」
「そうじゃないかと思ってたけどね」
したことないんでしたね、そりゃわかりませんよね。これは僕の質問の落ち度でしょう。さっきは実際に試してみてくれましたが、何が出るかは出してみないことにはわかりません。さながらガシャです。いえ、何の話だって感じですけど。
しかしここは運要素があまりにも大きすぎます。ウンだけに。……すみません、晩年の父のようになってしまいました。高官たちをぎこちなく笑わせていた姿を見てああはなるまいと思ってたんですけど。
ともかくイチかバチかにしても外した時のデメリットが想像出来ないので、ここは安全策を講じることにしました。
「じゃあハアト、今回は一旦これ使わずに外でやってみない?」
「ルアンさま、よこしまなこころ?」
「邪な心はないです」
なんで僕は野外露出が趣味みたいな扱いになろうとしてるんですか。ベルに聞かれたら軽蔑待ったなしです。もちろん違います。限りなく
「一回出してみないとわからないんだったら試してみようってこと」
「なるほどー。だいじょーぶだったらハアトもそのトイレつかえる?」
「そこに断る理由はないからね」
するとハアトは合点がいったらしく、「まってて!」と言い残すと窓から颯爽と外へ飛び出しました。……いや窓て。確かに出口に見えるかもしれませんけど、彼女にはもう少し人間らしい振る舞いをしてほしいところです。
「朝から随分と賑やかですね」
「あぁ、ごめん。迷惑だった?」
気付けばベルも戻ってきていました。相変わらずクールな横顔が辛辣なものにも思えます。うんちうんちと連呼していただけに。
「いえ。川まで水を汲みに行っていましたので」
「ご苦労様」
「ところでハアトは窓から飛び出して何を? とうとう気が触れましたか?」
「言い方がキツいよベル。トイレしに行った」
気が触れたとは随分な形容です。
「トイレですか……窓から?」
「窓から。戻ってきたら玄関から出入りすること教えとく」
「お願いします。では、私は朝食の――」
何気ない会話だったのですが、ベルが自身の言葉をちゃんと紡げたのはそこまででした。
「ぅ……!」
ベルは突然何かに反応したように全身を一度震わせると、そのまま白目を剥いてその場に卒倒したのです。
「ベル!?」
幸い倒れた方向にベッドがありましたので怪我こそなさそうでしたが、突然倒れた彼女に僕も同様が隠せません。気絶しているのか、揺すっても唸るばかりです。
いったい何が、と思った直後――僕もその理由を思い知ることになりました。
「ルアンさま、みて!」
窓から呼ぶ声に反応して外を見てみれば、そこには嬉しそうなハアトの姿がありました。指さす足元を見てみれば……その、あまり丁寧な描写は避けますが彼女のものであろう便があります。
なるほど、それは特異なものではなく、僕も見知っているような人間らしいサイズのそれでした。ただ人間のものとは違い、白いソース(隠喩)が掛かっていましたけれども。
ですが、そうではないのです。
問題は、そこではありませんでした。
「うぐ……っ!」
ハアトに呼ばれて視線を移した直後、僕は意識が反応するより早く口と鼻を覆っていました。同時にベルが卒倒した理由と自身の浅慮を思い知ります。
匂いです。端的に言って、とんでもない臭気でした。
突然現れましたから、原因はあの便と見て間違いないでしょう。犬の獣人であるベルは僕より嗅覚が優れていますから、それが災いしたんでしょう。あのまま部屋の中で致されていたと思うとぞっとするレベルの臭さです。
「これは……そうか、そういう……」
ドラゴンのトイレの特性が一つ見えました。
まだドラゴン状態での排泄を知らないので厳密にはわかりませんが、晩年の我が父・先代国王と我が妻・ハアトの言い方を用いるならば、少なくとも――
「……マズいぞ、これは……!」
ドラゴンのうんちは、クソほど臭いということです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます