霧衣物語
水戸けい
第1話
「晴信様」
気遣いの色を含む声に、
「これで、父上の命も民の安寧も、保たれるのだろう?」
力なく微笑んだ晴信の大きな瞳が、キラリと揺れる。痛みを堪える晴信を力づけるように、克頼は頷いた。
「このまま、お父君のなさりようを放置していては、この
「わかっている。……わかってはいるが、父上が憐れだ」
晴信は目元を曇らせ、文に目をもどした。それは姉の嫁ぎ先である
「娘婿の所でお暮らしになるのですから、多少の不自由はあっても命を狙われるより、よろしいかと」
唇を噛みしめて、晴信は目を閉じた。まだ幼さの残る横顔を、克頼はまっすぐに見つめる。元服し、屋敷の外に馬を走らせるようになった晴信に、民が孝信の非道を訴えた。父、孝信の気性の荒さを、晴信は知っていた。だが、機嫌を損ねたという理由で、相手を無造作に斬り伏せているとは、思ってもみなかった。たまたま行く手を遮る形となった幼子を殺し、若く美しい母親を、誘拐まがいに愛妾の館に連れ帰ったと聞いて、愕然とした。そういう女が数多く、愛妾となっていると訴えられて目の前が暗くなった。
「仕方が無かった」
晴信はうめくように漏らした。文を握る手が震えている。
「父上の命を救い、民を守るためには、俺が国主になるしか無かった」
愛妾の館は、晴信やその母が暮らしている蘇芳の館から、馬で一刻ほど行った先に
ある。離れているので、晴信は愛妾の館がどういったものかを知らなかった。
「俺は、何も知らなすぎた」
「晴信様」
「もっと早く知っていれば、父上を止めることができたかもしれない」
克頼は、そっと晴信の肩に手を置いた。たとえ晴信が知っていたとしても、孝信を止める事は出来なかっただろう。だが、そうは言えなかった。重臣たちでさえ諌めることのできなかったものを、元服前の世情を知らぬ子どもが、なんとかできようはずもない。それは晴信もわかっている。それでもなお、父を追放したという行為を悔しくも情けなく感じている。その気持ちが、幼き頃より共に育った克頼に痛いほど伝わっていた。
「文の返事をすみやかにお書きください。お父君をお引き受けいただいた礼品の手配は、出来ております」
晴信は、うらめしげに克頼を横目でにらんだ。
「克頼は、何も思わないのか」
「晴信様は、ご決断なされたのでしょう」
軋む音がするほど歯を食いしばった晴信は、文を克頼に投げつけた。
「克頼は、主君であった父上のことを、少しも思わないのか!」
「それとこれとは、別の話。孝信様は民の心をないがしろになされた。国を守るために、我らはおります。国を滅ぼす国主を、そのままにしてはおけません」
くやしげに震えた晴信は荒々しく立ち上がり、克頼に背を向けた。
「文を書いた後、晴信様が国主となられたことを、内外に示さねばなりません。そうしてすみやかに、この国の建て直しを。でなければ、
「……わかっている」
やるせない気持ちをそのまま音にした晴信は、がくりと膝を着いた。
「わかっているが、気持ちの整理がつかないんだ」
「晴信様」
肩で大きく息を吐いた晴信は、肩越しに克頼へ顔を向けた。
「父親を追放した男が、この国を守れると思うか」
「民の声を聞き、それを受け入れて実行なされた晴信様だからこそ、この国を守れるのです」
きっぱりと言い切った克頼に、いささかの迷いも無いことを見取り、晴信は苦笑した。
「強いな。克頼は」
克頼が小さく
「晴信様ほどではございません」
「嫌味か?」
「本心です」
くすりと鼻を鳴らした晴信が元の場に座し、克頼は彼が投げた文を差し出した。
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