case 7

その日、南野瑞季は見てはいけないものを見てしまった。



 滝沢利奈。隣のクラスの人気者。人当たりが良く勉強も運動もできる。漫画に出てくるヒロインのような存在だ。

 そんな彼女が今、目の前にいるのだが…


 時刻は21時前。街灯の少ないこの町の夜はとても暗い。それでも、商店街だけは例外だ。

 等間隔に灯る明かりが異様な光景を映し出す。

 スプレー管から噴射される鮮やかな青は少し錆び付いたシャッターを染め上げる。数種類の色を使い分け、乱雑に重なる色は彼女の心を写しているかのようでとてもキレイとは言えないものだった。

 たまに聞こえる押し殺したような笑い声がそのただならぬ状況を強調する。

 夜の商店街で、滝沢利奈は閉められたシャッターにスプレーで笑いながら落書きをしている。そんな現場に俺は出くわしてしまったのである…

 この子、絶対ヤバイよ…狂ってる…

 逃げようと踵を返すが時すでに遅く、彼女の持参した懐中電灯でライトアップされてしまう。

「誰?」

 その問いに答えるか考えていると彼女が近づいてきた。

 俺は…彼女と逆方向へと走り出した。のだが、足の遅い俺は直ぐに捕まってしまう。

「お前、隣のクラスのやつだっけ?」

 こっっっわ…なにこの子、聞いてた話と違うんですけど…

「み、南野です。よ、よろしく。」

 とりあえず自己紹介してみた。

「お前何で逃げたの?チクるつもり?」

 恐い恐い恐い恐い恐い。

「いえ、関わらないようにしようかと思いまして…別にチクるつもりはないです。では、僕はこれで。」

 これ以上関わるとろくなことにならないと思いこの場を逃れようとする。

「帰すわけねぇだろ。」

 笑顔でそう言う彼女はやっぱり恐かった。

「で、ですよねー。」

 ひとまず場所を移すことにした。共犯に間違われたらたまったもんじゃないしね。


 少し離れた場所にある公園。砂場と滑り台とベンチしかない小さな公園で彼女と話をすることにした。どうやら話を聞いてもらいたいようだったのでお膳立てしてみる。

「本当にチクるつもりは無いから安心してください。とりあえず何であんなことしてたの?」

 彼女はまだ俺が信用できないようだった。

「嘘ついたらわかってんだろうな?」

 即座に首をコクコクと縦にふる。だからこえーよ!

 少し間を置き彼女は口を開いた。

「アタシさぁ、もう壊れちゃってるんだよね。」

 そう切り出した彼女の表情はとても悲しそうで、それでいて諦めという感情が滲み出た儚げなものだった。

「約束通りいい子でいたのに…なんで…こんなことになっちゃったのかな…」

 彼女の目から涙が溢れだした。

 俺は状況がわからないため、話の続きを待つことしかできない。

 しばらくして再び彼女がポツリポツリと言葉を紡ぎだす。

「ごめん…アタシのさ…両親さ…離婚…するんだ。」

 離婚するのが悲しいのか。うちの家族は家庭円満という言葉そのものだから気持ちがよくわからないな。そんなこと考えていると彼女がカーディガンを、そして制服の上を脱ぎ始め、とうとう下着のシャツ姿になってしまった。ブラジャーが少し透けていることに興奮を覚えていると、今度はシャツをめくる。露になるキレイなおへその回りには無数のアザがくっきりと浮かび上がっていた。

「それ…」

 動揺からかかすれた情けない声が漏れる。

「小さな時からことある毎に父から殴られてたの。今時信じられないでしょ?」

 そんなドラマみたいなこと現実にあるのかと驚いてしまう。

 彼女は父親からDVを受けていたのだ。

「最初はテストでいい点取って、運動会で活躍して、いい子を演じることで父の暴力はなくなったの。でもある日知ってしまったのよ。アタシが殴られていない間、父は母に暴力を振るっていたの。」

 最早言葉が出てこない。彼女は更に続けた。

「その日アタシは父にお願いしたわ。アタシを殴っていいから母に手を出さないでって。頻度は減ったけどそれでも母への暴力は無くならなかったわ。今度は母がアタシへのDVに気づいて離婚の話になったの。父は聞く耳を持たず最終的には裁判にまで発展したわ。もう…アタシの家庭は崩壊してるしアタシも壊れちゃってるの。こうやって何かで発散しないともうダメなのよ!」

 涙声になり最後は声を荒げていた。その姿がとても嘆かわしく胸が痛む。先程まで彼女に抱いていた恐怖はもう消え去っていた。

「でもさ、あれはダメだよ。君が辛いのはよくわかった。それでも他人に迷惑をかけていい理由にはならないよ。」

 彼女の鋭い視線が俺に突き刺さる。

「わかってない。全然わかってない!アタシがどんなに辛かったか、何度泣いたか、何もわかってない!」

 彼女は確かに悲劇のヒロインかもしれない。だからってこのままじゃ彼女は幸せにはなれない。そう思った。と同時に彼女を救いたい。そうも思ったのだ。

「そうだね。わからないよ。でも、だからこそ知りたいと思ってる。もっと聞かせてくれないかな?その…嫌な気分にならないならでいんだけどさ。それと、もう制服着なよ。下着が透けててちょっと…その…」

 最終的には締まらない返答に、彼女は納得したようで目尻の雫を指で払い、笑顔を作る。

 鼻を赤くし、小学生のようにくしゃくしゃなその笑顔がとても素敵だった。ずっとこんな風に笑っていてほしい。そう思った。

「ありがとう。」

 先程までの人物と同一人物とはとても思えないスッキリとした表情になっていた。

「あ、でもその前に掃除道具持ってくるから二人で落書き消しちゃおうよ。」

「あ、忘れてた。じゃあさ、ついでに前にやったやつも消すの手伝ってくんない?」

 急にあつかましくなりやがった…

「お前なぁ…」

「利奈。」

「は?」

「アタシの名前よ。これからは利奈って呼んでよね。」

「普通に嫌なんだけど。」

 わざと大げさに嫌そうな表情を作る。

「なんでよぉ!呼びなさいよ!あとアンタの名前も教えなさいよぉ!」

 アンタか…最初はお前って呼ばれてたしな。少しは距離が縮まったのかもな。

「それも嫌だ。」

「だからなんでよぉ!ふざけんな!」

 ギャーギャーと騒ぐ彼女の目尻はまだ少しキラキラと輝いている。それが妙に心をザワつかせる。今日彼女が流した涙は負の感情の塊だ。そんなものをいつまでも残していてはダメだ。そう思った。

「普段もそんな風に喋ればいいのに。俺はそっちの方が好きだな。」

 そう言って俺は彼女の涙を指で拭い去ってやった。

 すると、再び彼女の目から涙が溢れだす。

 でも俺は知っている。この涙は気が済むまで流していい涙なのだと。

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