The moment【LOVE】
詩章
case 1
就職で上京してから2ヶ月が過ぎようとしていた頃、桜庭浩は自宅の周囲を散歩することにした。
引越しや初めて社会に出て働くということ、更には慣れない都会の生活に少し疲れていたのだ。ただただ過ぎていく時間に必死にしがみつくばかりの生活。それでも自分の生活のリズムができ、仕事や職場の環境にも慣れ少しずつ余裕ができ始めていた。
引越してきた頃は東京の人の多さに目が回り外に出るたびに人ごみに酔っていたのだが、今ではほとんどそうしたことはなくなっている。
そんなある休日、一人でゆっくりできるところを探すために散策を開始した。まだ自転車の購入は考え中だったため今日は徒歩での散策だ。
住宅地であるため田舎にあった川原のような場所はないようだったが、地域の案内看板によると少し歩けば大きな公園があるようだったのでひとまずはそこを目的地にすることにした。
住宅地の中に作られた巨大な公園。テニスコートやサッカーコート、芝生の広場など様々なスポーツを楽しめる施設も完備された大きな公園がそこにはあった。
ベンチが等間隔で設置された歩道は広く、ランニング用にやわらかい材質の舗装がされている。一周どのくらいあるのかと歩いていると女性が一人でベンチに座り本を読んでいるのが見えた。
少し強い風が通り過ぎた。
耳に掛けられた長く艶(あで)やかな黒髪が風に遊ばれて乱れる。
彼女の横顔が隠れてしまう。
乱れた髪を指で梳(と)き、再び耳に掛ける。その動作がやけに艶(なま)めかしく感じた。
無意識に彼女に視線が吸い込まれていく。
あらわになった横顔に見とれていると躓いて転びそうになってしまった。
白く透き通るような長い指が再び髪を梳く。珍しくもないごく普通の仕草ではあるのだが、もう彼女から目が離せなくなっていた。
距離が近づき彼女の表情までもがわかるようになる頃には、浩は恋に落ちていた。
真剣に本に向き合うその表情はどこか幼さの残るものの、長くキレイな髪が大人っぽさをまとわせる。そのアンバランスさがとても魅力的だった。
結局彼女と目が合うことはなく、なんのコンタクトもとれずに通り過ぎてしまった。さすがに初対面の女性に声を掛ける勇気は浩にはなかった。
結局当初の目的は有耶無耶のまま彼女のことばかりが気になってしかたなかった。来週はまたいるだろうか。そんなことを考えているといつのまにか自宅に戻ってきてしまっていた。
翌週。
浩は本屋で売れ筋のコーナーから適当に一冊購入すると例の公園へと向かった。
目的は言うまでもない。
彼女は先週と同じ場所で読書をしていた。
気付かれぬように彼女から遠くのベンチに腰をかけ本を取り出す。
「あ・・・」
思わず声が出たのは、警戒されないように距離を取ったのはいいが今度は遠すぎて表情も分からないのだ。
仕方がない。週ごとに少しずつ距離を詰めていくか。
でもあんまり近づくと変に思われるかな。でもどうにか声を掛けたいんだけどどうすればいいのだろうか…
浩は今まで一目惚れという経験が無かったのだが、今回はまさにそれである。こういう場合はどうやって距離を縮めていくかがわからない。そもそも知り合いになるまでのハードルが高すぎて泣きそうだ。
ひとまず物理的に距離を詰めて何かのタイミングで偶然を装おい話し掛けようという作戦だ。
そこからは非常に長い戦いであった。
そんなある日ある変化が起きた。
いつも通り先週よりも一つ隣のベンチに腰掛けて読書に耽(ふけ)る。ふと彼女の方を盗み見ると違和感を覚えた。
これまでずっと定位置から動くことの無かった彼女が少しこちら側にずれた位置で本を読んでいる。その日は何かの間違いだろうと特に気にせずいつもより距離が近づいた(物理的に)幸運をかみ締めて家路に着いたのだった。
翌週。
アレ?またこっちに来てない?これは何?なんかの意思表示なの?とりあえず落ち着け。あんま深読みはよくない。平常心だ平常心。
更に翌週。
やっぱそうじゃん!向こうも寄ってきてるじゃん!なんでだ!嬉しいけど!まぁ落ち着け。このままいけばあと3週間くらいでお隣さんになれるんだ。そしたら話しかけよう。あと少しの我慢だ。
3週間後。
アレ?来ないな。
いつもなら先に彼女がいる時間なのだが、今日はまだその姿を見せない。
俺なんかやらかしたかな。そもそもこの作戦自体良く考えたら気持ち悪いしなぁ。でもだったらなんで彼女も近づいてきたんだ?謎が解けず頭が混乱していた。
「あーもうわっけわかんねえ!」
ベンチの背もたれにもたれかかり空を見上げて思わず小さくぼやいてしまう。そのまま目を閉じ不貞寝でもしようかと思っていると突然上から声が降ってきた。
「何が?」
目の前に彼女の顔がこちらを上から覗いていた。
「うわぁ!何で!?」
思考停止中。
「今日はお隣さんの日でしょ?ちょっと家のソファーでうたた寝しちゃってさ。ごめんね。」
なんだ、そういうことか…
「あ、いや謝んないでよ。それより色々聞きたいことがあるんだけど。」
次から次に質問が浮かぶ。
「あー私も。でもさーとりあえず歩かない?こんなにいい天気なんだし風も気持ちいいしさ。なんなら走っちゃう?」
彼女は目をつむり風を感じているようで、たなびく髪は陽光でキラキラと眩しい。
綺麗だ。
でも走るって…子供じゃないんだからなぁ。
「いや走らんでしょ。元気だね君。」
「だってこんなことって初めてだからワクワクしちゃってさー。貴方はどう?」
思わずニヤけてしまいそうだ。今までの何週間かのことを思い浮かべる。長いような短いような、モヤモヤとした日々。突然の展開に頭はまだ混乱しているのだが、心臓の鼓動が「早く早く!」と急かすのだ。では参るとしようか!
「よし!走るか!」
当てのない無意味なダッシュが始まる。
そこにはいつまでも跳ね回るふたつの影が並んでいた。
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