25 狂気礼賛

 ユートピアの著者トマス・モーアの家に滞在中に書き上げたエラスムスの痴愚神礼賛を、ミシェル・フーコーは狂気礼賛と再解釈した。その後、狂気は精神病(精神障害)と再定義された。

 ところが2038年、国際精神医学会は、突然狂ったように「精神病は存在しなかった。精神病の歴史は虚偽の歴史だった」と総括し、学会の解散を宣言した。これ以来、精神病は再び狂気に戻った。ほかに適当な言葉がなかったからである。だが、狂気はもはや精神病ではない。

 かつて統合失調症(精神分裂症)、気分障害(双極性障害、躁鬱病)、PTSD(ストレス、トラウマ)、コンプレックス、ノイローゼ(神経症)、ヒステリーなどと言われていた異常心理や異常行動は、今日ではバランス失調症と診断されている。もちろんこれは治療可能である。バランスを回復すればいいのである。

 2010年代には、脳神経科学(脳科学)が進歩すれば、脳の全機能が解明され、精神を人工知能で再現することもできると考えられていた。だが2020年代以降の脳神経科学の進歩は逆の知見をもたらした。精神は人工知能のようなデジタル電子回路で再現できるものではなく、無限に多様で連続的な化学物質が織りなすアナログ絵画だったのである。この化学物質は脳から生み出されるだけではなく、全身の臓器から生み出され、血液とリンパ液によって脳に運ばれていた。全身を包む電子化学回路の中で、もちろん脳は卓越的な存在ではあったが、独裁的な存在ではなかった。脳が人工知能を代替することはできる。永久脳がそれを実証した。しかし人工知能が脳を代替することはできない。

 かつて精神と呼ばれていたものは、TVのような脳の電子回路の写像ではなく、まさしく精神と語源を等しくする幽霊のような全身の電子化学回路の写像だった。精神病と呼ばれていたものは、この電子化学回路の不調であり、脳の気質疾患ではなかった。脳の中に精神はなかったのである。精神病とは身体病だったのであり、精神病というものはなくなったのである。

 かつて自殺の原因は脳の病気であると考えられ、自殺予防の観点から抑鬱に対してベンゾジアゼピンやSSRI(選択的セロトニン再吸収阻害剤)などによる薬物療法が行われてきた。

 現在、自殺は過逃避行動(ハイパーエスケープ)と考えられており、自殺が予知された場合にはただちにサポートチームが編成される。自殺者の99%は自殺の予告行動や暗示行動(ほのめかし行動)をするからである。SNSの自殺サイトや引きこもりサイトは貴重な情報源である。自殺予知プログラムによって自殺の90%以上が阻止されている。このプログラムでは、セーレン・キルケゴールの理論に基づき、自己からの逃避(自分自身でなくなるための逃避)と自己への逃避(自分自身であるための逃避)を区分している。危険度(自殺完遂率)が高いのは後者である。なぜなら自分自身でなくなることはできないけれども、自分自身であることはできるからである。

 サイコパスやパラノイアによる残忍な無差別殺傷事件、銃乱射事件、監禁事件、ストーカー殺人事件が、たびたび耳目を驚かしてきた。サイコパスやパラノイアはもちろん精神病ではないし、バランス失調症ですらない。これこそが紛れもない狂気である。

 今日ではエラスムスと同様に狂気は礼賛されており、誰もがサイコパスやパラノイアであり、またそうありたいと望んでいるし、その願望を隠さない。ただし殺人事件を許すことはできないから、その願望はヴァーチャルに満たされる。サイコパスやパラノイアのためのサイバー空間は無数に用意されており、どんなに邪悪な願望も解放される。それは創造性の源にもなる。古来から偉大な芸術家も哲学者も冒険家も政治家も科学者も宗教家も、みんなサイコパスかパラノイアだったのである。皇帝ネロはサイコパスだっただろうし、コロンブスはパラノイアだっただろう。無差別銃乱射事件を起こした銃器マニアと、それでも銃規制を実施しようとしないアメリカ大統領は、どちらがより深刻なサイコパスだろうか。ヒットラーが礼賛されたのには理由があった。今では誰もが公然とヒットラーを礼賛し、ホロコーストを礼賛する。それを望むことは、同性愛が認知され礼賛されてすらいるのと同様に、人間の本性の可能性として認知されているのである。

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