異界管理官の意地

「いい加減、諦めなさいよね!」


 流石のじゅんも疲労を隠せない。

 短時間にこれだけの〈世界セカイ〉を横断することなど、今まであった試しがない。

 体力だけならば巡の比ではないテトも、次から次へと途切れることのない異界跳躍いかいちょうやくに集中を緩めることができず、刻一刻とすり減っていく神経を気力でどうにか支えているという状態だ。


 事ここに至っては『諦める』などという選択肢はなかった。

 もはや二人を突き動かしているものは『意地』でしかない。


 理性の鈍りきった頭の中には『引いたほうが負けならば、引かなければいいのだ』というひどく単純な思考だけが意味のあるものとして残り、ならば身体が文字通り擦り切れて〈あちら側〉に送還されるまで、それこそ永遠にだって追いかけてやると巡は思う。


 男が通路を開こうとする。

 巡は金色の枝を乱れ打って妨害する。

 仕留めた――と思った次の瞬間、男は不可思議な動きで光の矢を全て躱した。

 まただ。

 またを外された。

 巡は心の中でギリギリと歯噛みをする。

 男が通路に姿を消す。

 巡はすかさず通路を押さえ、テトと一緒に飛び込む。


 能力に集中しているのはテトだけではない。巡も〈因果律操作プロフェータ〉で世界と相手の因果を読み、どうにか異世界跳躍を阻止しようとしているのだが、そのことごとくが失敗に終わっていた。

 追えば追うほど、読めば読むほど、相手のことがわからなくなっていく。

 男は確かに因果律操作の使い手だろう。こちらの能力に対抗する瞬間、確かに世界の因果律が収束するのを巡は感じた。なのにどういうわけか、相手のの気配が全くといっていいほど感じられないのだ。

 使い手の練度を抜きにして語るなら、巡の〈因果律操作プロフェータ〉は異界管理官いかいかんりかんの能力の中でも特に強力な部類に入る。いくらか――というかかなり――実力に欠けるとはいえ、それでも異界管理官である巡のそれを凌ぐほどの使い手が飛沫世界ひまつせかいに存在するなんて、露ほども思わなかった。

 以前に不覚を取ったのは、完全に不意打ちだったからだ。

 だが今回は違う。相手がそれだと分かっているし、対処する余裕もたっぷりあった。

 それなのになぜ、その手の内すら見えてこないのか。


 何かを見誤っている。

 何かを間違えている。


 通路を抜けるとそこは市場だった。

 世辞にも広いとはいえない通りを覆う屋台の庇の下は、多くの人で賑わっている。巡は即座に因果を読み込む。相も変わらず男のは見えないが、下手の考え休むに似たりの精神でとにかく手を出す。

 籠の鶏が逃げ野良犬の群れが乱入しクルミが路面に撒かれ三階の窓辺から植木鉢が落ち痴話喧嘩中の家の窓から包丁が飛び出す――が、そのどれもがブラフであり、本命は次の一歩の先にある水路の蓋で、見た目にはなんの変哲もないが、踏めばひとたまりもなく割れて、無慈悲に脚を折る落とし穴になるという寸法なのだが、


 ――また外された。


 男は何事も無かったかのように市場を通り抜けていった。

 例のごとく部分的な因果律の収束を見せただけで、男は全てを切り抜けた。

 やはり相手は巡よりも速く深く因果を操れる稀代の手練れなのだろうか。

 ならば、作戦を変えるしかない。

「テト!」

 巡は相棒にだけ聴こえる声で言った。

「アイツが通路に飛び込む前に、その通路がどの世界に繋がっているか、観測できる?」

 テトは耳だけをぴくりと巡に向けて、

「頑張れば、なんとかね」

「じゃあアイツが通路を渡る前に、私らの通路で先回りできる」

「罠を張るってこと?」

 とテトは巡の顔をちらりと見て、

「奴の通路は1対1じゃない、だからどこへ飛ぶかは追っていかないとわからないよ。できなくはないとけど、賭けになるよ」

「オーケイ! じゃあ頼んだわよ」

 無論、その間にも巡と男との攻防は水面下で続いていた。

 男は複雑に入り組んだ路地を迷いもなく突き進むが、実を言えばそれは巡の誘導によるものだった。真っ当な読み合いに持ち込めないなら、搦め手でいくしかない。複数の手を平行して走らせ、相手の選択肢を圧迫する。手数が増えれば増えるほど、技の精度や深度は粗く浅くなっていくが、それこそが巡の狙いである。高きから低くへ流れる水と同じく、人もまた無意識的に楽な方を選択する。橋の掛かった河を泳いで渡る馬鹿はいない。要するに『誘い』をかけたわけだが、あからさまなそれに乗るほど相手も愚か者ではない。あくまでもこちらは『手数で圧倒する作戦』を装いながら、そこに僅かなを作ることで、相手に「罠を破っている」のだと思わせなければならない。

 そしてその計略は、見事に機能していた。

 今のところ、男は巡の企てに気づいていない。気づいていないフリをしているだけかもしれないが、その可能性を読めば真意を悟られかねないため、推測にとどめておく。

 なんにせよ、相手がこちらの思惑通りに動いているというのは事実だ。

 だから、賭けに出るなら今だと巡は判断した。

 男がひと気の無い裏路地に入る。

 袋小路の突き当りに、光が弾け、


「いくよ巡!」


 通路が開いたかと思った次の瞬間、巡たちは別の世界へと走り出ていた。

 森と原野の境界だった。

 ほとんど同時に、二人のすぐ近くで光の通路の出口が出現した。

 テト絶技に感心する暇など無かった、巡は〈因果律操作プロフェータ〉を最大範囲で発動させる。

 巡の見立てでは、男が作る通路はそう遠くまで繋がっていない。やはり自分と同じように、手数を優先させるには強度を犠牲にせざるを得ないようだ。

 そこに『ゆらぎ作戦』を仕掛ける。

 近隣の世界の出口に片っ端から「巡とテトが待ち構えてい」るという可能性を立て、こちらに誘導する。

「何があっても、絶対に手を出さないでね」

 そう念押しして、巡は通路の前にゆっくりと歩み出た。

 丸腰である。

 まさに伸るか反るかの賭けだった。

 通路に渦巻く光が、ひときわ眩く脈動した。

 ――来た。

 男が通路から姿をあらわした。

 巡の姿を認めた男の顔に、明らかな驚愕と戸惑いが浮かんだ。その胸の内に湧き起こった逡巡までもがありありと見てとれるほどの動揺だった。

 へえ、と巡は思う。

 そんな顔するんだ。

 だがそれも束の間、再び鋭い眼光を取り戻した男は直剣を抜き放ち、真っ直ぐに突き込んできた。


 躱せたはずだった。

 迷いか、それとも手心か――

 どちらにせよ、酷く単純な狙いの刺突だった。

 なのにその切先は、いともたやすく巡の腹を貫いた。

 胸の内に飛び込んできた男を、巡は両の腕で抱きとめた。

 衝突した勢いのまま、二人は絡みあうように草の中に倒れ込んだ。


「やっとつかまえた」


 皮脂にまみれ砂礫に洗われた黒髪を抱きすくめ、巡はその耳にささやいた。

 逃走の気配はない。腕を緩めると、柔らかな胸にうずまっていた頭がそろりと離れる。

 その表情を隠していた前髪が、横に流れた。

「あら、結構かわいいじゃない」

 少年である。

 まるで憑き物の落ちたようなその顔には、どうあっても隠し切れない幼さがあった。

「別に取って食おうってわけじゃないわ。ただ少し、アナタの話を聞かせてほし――」

 まったくの不意だった。喉の辺りでゴボリと粘ついた音が鳴り、腹の奥から突き上がってきた不随意な痙攣を抑えこむ余裕すら無かった。

「ぇぶっ」

 血とよくわからない体液とが混ざり合った鮮やかな紅色の泡が、少年の頬にべっとりと張り付いて湯気を立てる。

「あら、ごめん」

 巡は何でもないふうに言って、その頬を手の平で拭ってやる。

 出し抜けに、はっきりとした怯えの色が少年の瞳に浮かんだ。

「あ、――」

 待って、と声をかける間も無く、飛び退くようにして立ち上がった少年は一目散に森の方へと駆けて行き、すぐに見えなくなった。

 巡はのろのろと身体を起こす。

 駆け寄ったテトは顔を覗きこんで、

「大丈夫?」

「大丈夫なように見える?」

 と答えた口の端から、ぬるぬると血がこぼれ続ける。

 不朽不滅の異界管理官とはいえ、刺されれば痛いし痛いのはつらい。巡は刺されるのが特に苦手だった。痛みもさることながら、身体の中を異物が貫く感触にはどうしたって怖気が走る。呼吸のたびに腹の中の剛体が臓物に食い込んで気持ち悪い。身をよじれば背中から生えた刀身の存在を如実に感じて気持ち悪い。刃先を撫ぜる草の柔らかさまでが伝わってきて気持ち悪い。もう何をどうしても気持ち悪いので、巡は俯いたまま動かない。

「抜こうか?」

 巡は、刃がぞりぞりと内蔵に擦り付けられる感触を想像して、

「このままでいい」

「そう……」とテトは傍らに座り込んだ。「結局逃げちゃったねえ」

「そうね。……でもこっちのよ」口元だけでにやりと笑い、「バッチリ〈枝〉を付けたわ。これでアイツの後を追える」

 〈枝〉とはもちろん追跡用の目印のことである。

 丸腰は相手を油断させるための罠だった。こちらの作為が通じないなら、向こうから来てもらえばいい。肉を切らせて骨を断つとまでは行かないが、相手を懐に招き入れ「仕留めた」と油断させた隙に、その身体へ直接〈枝〉を仕込んだのだ。

「凄いじゃん巡!」

 とテトは破顔して相棒の肩をバンバン叩く。

「あっ、こら、ちょっとやめ、――げぶぉ」

 盛大に血を吹き出した。みるみるうちに、白銀の衣が赤く染まっていく。そろそろ体の感覚がなくなってきた。手足は凍えそうなほど冷たく、しかし腹の底が燃えるように熱い。頭の奥を直に殴られるような痛みが襲う。ほどなくして、全ての感覚が遠くぼやけていく。

 なのに腹を犯す剛直だけが、ひたすら気持ち悪い。

「……テト」

「なにー?」

「やっぱり抜いて」

「あいよ――っと」

 ズルリ、とおぞましい感触が全身に響き、巡は自由になった身体を悶えさせる。

 いよいよ薄れていく意識の底でふと、柄を握る少年の手が震えていたことを思い出す。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る