☆貴方の名前を知らない

※蜘蛛と酔猫読了後推奨です。九日目のお話。



 馬車は荒れ地を進んでいた。揺れる荷台は乗り心地はさほど良くはないが、それでも歩いていくことを思えば快適だ。

 今日は旅だって九日目。神殿には後一日でつかなければならないが、彼等の旅路はさほど切羽詰まったものではなかった。

「今日は、多分、割と余裕あると思うんだよ」

 ふと考え事をしていた彼女は、いきなり馬を御していた彼に声をかけられて少しどきりとした。

 彼女たちの乗る馬車の荷台は、幌が付いているので強い日差しは差し込んで来ないが、それでも荒地を走るので気温は高い。

 だが、意外と病み上がりの彼は元気そうだった。彼は彼女が実は少し慌てたことに気づいていないようだった。それもそのはず、彼女は表情の乏しい娘なのだ。だから、他人からその表情を読まれることは少なかった。

「だから、今日はあんまり強行軍はしないつもりだよ」

「そうね」

 彼女はそう答えた。

 彼は今では粗末な白い服を身に纏っている。顔の周囲を白い布で覆っているので、相変わらずその顔立ちははっきりとはわからないが、表情は驚くほど分かりやすくなっていた。

 ふと、彼はきょとんとして小首をかしげた。

「あれ、なんだ寝ちゃってるのか? 静かだと思ったら」

 彼の視線の先には、寝込んでいる少女がいた。縁あって彼女と同行している少女は、気が強くてしっかりしていた。しかし、緊張感からくる心労もあっただろうし、疲れがたまっているのだろう。いつの間にかぐっすり眠っている。

「シャシャも旅の疲れが出ているのかしらね」

 あるいは乗り物に揺られているせいかもしれない。乗り心地はけしてよくない馬車だったが、適度な揺れは人間に眠気を催させるものらしい。疲れているなら余計だろう。

 危険な目にもあった旅路で、穏やかに旅ができている安心感のせいもあるのかもしれない。ここ二日は目に見えた危険はなく、彼らは比較的穏やかに旅をしていた。そして、人間関係的にもだ。

 それは彼の変化によるところも大きかったのだが。

「寝かしてやったほうがいいよ。色々大変だったしね」

 彼のそれは、旅を始めた頃からは考えられないほど穏やかな物言いだった。はじめの頃の彼はあからさまに荒れていたものだ。

 しかし、それにしても、庶民的な口ぶりだった。彼女は、彼が高貴な身分の人間だとは薄々気づいている。しかし、普段の彼の口調は、いつも妙に庶民的だった。それは隔絶された環境で生活している彼女たちよりも、市井の一市民として溶け込めていることが示していた。

「それに昨日は、俺がちょっと無理して急がせたからさ。それで疲れさせたんじゃないかなって。悪い事したな」

 彼はそう言って、面目なさげに頭をかきやった。

「今日はだから余裕があるから、俺、ゆっくり進むつもりだから。姐さんも休んでたほうがいいよ」

「ありがとう」

 そう言われて反射的に礼を言って、じっと彼を見る。

 自分は彼から姐さんと呼ばれている。

 彼は自分の名前を知らない。そして、彼女も彼の名前を知らない。

 お互い名前を名乗らなくて、シャシャが呼ぶ名前をお互いなんとなく断片的に知っているだけ。最初は彼とは険悪なところもあって、別に名前を名乗る必要はないのかもしれないと思っていた。彼が名乗りたがらないと思っていたし、自分の方は、今名乗れる名前はただの源氏名で本当の名前ではない。

 今は名前を名乗ってもいいほどに親しくなったけれど、けれど、今更お互い名乗る必要がなかった。旅ももうすぐ終わる。

 きっと、もう名前を名乗るつもりもお互いない。

 でも、よく考えたら。

(私、彼に、なんて呼びかけたらいいのかしら)

 そんな事を考えていると、急にドキッとしたように彼のほうが振り返る。視線が合ったことに驚いたようだった。

「ど、どうしたんだい? 姐さん」

「え、あの……」

 彼女はそっと視線を伏せる。

「あの、あのね……」

「な、なに?」

 彼は少し不安げに尋ねてきた。彼女はちょっとそれを見上げる。地面の照り返しがきついせいか、今日は光が入りやすく、彼の瞳の色が青く見える。意外に彼は綺麗な目をしていた。宝石か、魔よけのガラス玉みたいな深く青い瞳。

 が、不意に彼の方がはっと目を逸らす。それで彼女は我に返ったように首を振った。

「ごめんなさい。なんでもないの?」

「そ、そう……。だったら、いいんだけども」

 彼はなにやら気になっているようだが、それ以上も聞けずに頷いただけだった。

 しばらく気まずく沈黙が流れる。

(私、臆病だわ……)

 ただ、名前を聞いてしまえばいいのだ。

 彼が自分に呼んで欲しい名前を聞いてしまえば、それでいいだけなのに。

 そこで本名を名乗るとも限らないし、ただ彼が自分を姐さんと呼ぶみたいに、お兄さんとかそんな風に呼んでと言われるだけかもしれないのに。

 自分は、ただ、自分が彼を呼ぶ名前が欲しいだけ。

 そんな風にいいきかせながらも、彼女は怖かった。本当は、わかっていた。

 彼は本当は雲の上の自由な人。自分とは違う。鳥籠の中の不自由な身の自分の手は届かない。この旅が終われば二度と会えないのだから、名前など聞いてしまえば心を残してしまいそうで怖い。

 だから、自分は彼の名前を聞くことが怖いのだ。だからこそ、自分の名前を彼に伝えることなんて、それ以上にできやしない。

(私、本当にダメだな)

 彼女は膝を抱えてため息をつく。

「あのっ……」

 自己嫌悪に陥っていると、彼の方から声をかけてきた。それが妙に真剣だったので、彼女はきょとんとした。

「なあに?」

「今の。俺が、目を逸らしたの、悪気ないからね」

 いきなり汗をかきながらそんなことを言い出した彼に、彼女は小首をかしげた。

「今の?」

「いや、ほ、ほら、さっき、俺が目を逸らしちゃったの、失礼ぽかったから」

「別に気にしてないわ」

「いや、それならいいんだけど……」

 彼はほっと安堵した様子だ。その様子に、彼女はふと尋ねてみた。

「でも、なぜ目を逸らしたの?」

「ええっ、な、何故って」

 無邪気に尋ねただけなのに、彼は急に困った様子になった。

「い、いや、だから、悪気も下心もないから」

「ないから?」

「えっ、いや、その……」

 ただ聞き返しただけのつもりだが、彼は異常に慌てると、思わず深呼吸をした。

「いや、その、さあ。ね、姐さんもそういう事あるかな? 綺麗な人をさ、間近でみると、うっかりまじまじ見てしまって、なんか罪悪感ってゆーか……」

 考え込む彼女に、急に彼は頬をかすかに染めつつ言ったが、言った途端に急に慌てて首を振った。

「あー、やっぱ今のなし! いや、その、ね、姐さんが綺麗なのは確かだけど、今の発言俺がやばいやつみたい……」

 自分で言いながら頭を抱えつつ、彼はため息をついて、視線をそらしつつ、ようやく冗談半分を装いながらそっと告げた。

「いやね、その、今の俺が不審なの、全部綺麗だからって事にしておいて……」

「綺麗って?」

「そ、そりゃ、姐さんがって意味だよ」

 他に誰がいるの?と言いたげに彼は再びため息をつく。

 彼女はきょとんとしていたが、ようやくある程度意味を把握して微笑んだ。

「ありがとう。嬉しいわ」

 そういうと、彼はほっとした様子になった。

(姐さんか……)

 そうやって彼に呼ばれるのは嫌じゃない。だから、自分も呼び掛ける名前が欲しかった。

 本当のことを言えば、彼女も、彼の呼び名を一つだけ知っている。

 暴君、紅楼の殿様。

 彼は楼閣でそう呼ばれていた。

 そして、今の彼はその面影を全くなくしていた。あれは、彼の本当の姿ではないのを彼女は知っている。

 だから、彼女はその名で彼を呼ぶことはないし、それは彼女の欲しい名前でもなかった。

 彼の本当の名前は、ここにいる誰も知らない。おそらく、彼の世話をしていたあの夕映えですら。

 だとしたら、彼の本当の名前は、どんな響きを持っているのだろう。だが、それはきっと、心地よい響きを持つ音なのだろう。

 彼はとても素敵な人だから、その名前もきっと良い響きを持っている。自分はその名前を聞くことを許されないだろうけれど。

「貴方の本当のお名前は、とても素敵なんでしょうね……」

 思わず彼女はぽつりとつぶやく。

「え?何か言ったかい?」

 うっかり心の声が漏れていたらしい。怪訝そうな彼に、彼女は首を振った。

「いいえ、なんでもないの」

(私に名前をきけるぐらい、勇気があればなあ……)

 彼の名前を口にできることを、彼女は夢見心地に憧憬していた。

 夢を見るぐらいなら彼女にだって許される。そして、夢を見るのは今の内だけ。


 なぜならもうすぐ、旅が終わってしまう。そうすれば、この夢から目を覚まさなければならないから……。

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