帰り道
蛙が鳴いている
帰り道
仕事帰りであろうたくさんの人が電車からホームに吐き出され、一斉に改札を目指して歩き出した。人と人とが無理やり詰め込まれ、蒸し風呂のようだった状況から解放された気持ちと、肌に触れる空気が涼しくて心地よかった。
エスカレーター前には行列が出来ている。時間をかけてエスカレーターをあがると、改札にも列ができていた。Suicaの残高が不安だったので、精算機で千円をチャージしてから改札を出た。
駅を出ると時計が立っている。時刻は21時半を過ぎていた。
信号待ちの集団に混ざる。ほとんどが仕事帰りの人だろう。飲み会が終わるには早い時間なので、酔っ払いはいない。みんなこんな時間まで働いてご苦労様なことだ。さらに世の中にはもっと遅い人だってたくさんいるのだと思うと、本当にすごいなと思う。どうかしている。
仕事を辞めて半年以上が過ぎた。
ふらふらといい加減に生きている僕からすれば、朝早くから夜遅くまで拘束されるなんてとても恐ろしいことだと思う。
何年ものあいだ僕も同じように働いてきたはずなのだが、思い返してみるとそれは遠い昔のようで幻のような感じがする。
もう拘束されたくないし、責任も背負いたくない。
信号が変わり集団が一斉に歩き出す。
曲がる人、直進する人、パチンコ屋に入る人、居酒屋などのあるビルに入る人、それぞれがそれぞれの方向に散っていく。
なんとなくいつもと違う道で帰ろうかなという考えが頭に浮かんだので、一つ目の角は曲がらずに直進した。
線路沿いの道を歩く。僕はイヤホンをして、ラジオを聴いている。前を歩くスーツの男性は誰かと電話をしているようで、イヤホンをしながら一人で喋っていた。
歩道と車道の間の植え込みからは虫の声が聞こえる。昼間はまだまだ暑いが、夜はすっかり秋になっている。蝉の声は聞こえない。空気は少しひんやりしていて、秋のにおいみたいなもの感じる。虫の種類はわからない。コオロギなのだろうか、もしくは童謡のようにマツムシとかクツワムシとかそういうやつなのだろうか。
幼稚園の前を通り過ぎる。外壁には卒園生によって絵が描かれている。ライオンやウサギやパンダの絵。恐竜もいる。園内ではヤギを飼っていると聞いたことがある。微かに獣のにおいがしたような気がした。
電話をしていたスーツの男性は幼稚園の先の角で曲がって行った。駅前で信号待ちをしていた集団は徐々に人数を減らしていき、僕の前を歩く人は誰もいなくなった。後ろから笑い声が聞こえたので振り返ると、中学生くらいの自転車に乗った男子が二人がいた。おそらく塾帰りだと思われる。
赤信号だったので足を止めると、自転車男子二人が横に並んだ。僕はポケットに手を入れて、ラジオの音量を一つ上げた。
ラジオではパーソナリティーが仲間たちと草野球をした話を軽快に話していた。中学生たちは片方の子に彼女がいるそうで、そんな話で盛り上がっていた。
信号が青に変わり、自転車男子二人が走り出した。その背中を見て、少し羨ましくも思った。僕も中学のときは駅前の塾に通っていて、あんなふうに友達としゃべりながら自転車に乗って帰った。同じ塾に通っていた当時好きだった人のことがよぎった。
今の知識のままあの頃に戻ったら楽しいだろうな、なんて月並みなことが浮かんだ。
だけどまあ、そんなことが起こるわけがない。それに多分、戻ったとしてもあまり変わらないんじゃないかとも思う。
二人組の中学生はもう見えなくなっていた。
時間は過ぎるなあ、と思った。本当に時間は過ぎる。しっかりと。
前職ですごくプレッシャーだった業務も、帰宅後にミスに気付いて不安で眠れなかった日も、終わらないんじゃないかと絶望した資料作成も、しっかりと時間は過ぎ去って、しっかりと終わった。
最終出勤を終えて会社を出たときは有り余るほどの自由な時間があると思っていたが、有休の消化も終わり、毎日を自堕落に生きていたらあっという間に時間が過ぎた。
思い返せば学生時代だってそうだ。無限のように思われたつまらない授業だって、時計が壊れてるんじゃないかと思うほど針の進みが遅く感じたのに、ちゃんと時間は進んで授業は終わった。そして過去になった。
しっかりと時間は進む。当たり前だけど。
過去といっても、本当にそれを経験したのかどうかわからなくなってくる。そのときに見た光景みたいなものは思い出せるが、靄がかかっているようでぼんやりとしている。前職のことも、学生時代のことも、その前の記憶も、思い出せはするがどれも同じように、やはりうすらぼんやりしている。それは本当に自分が体験したことなのだろうか。
どちらにしろ、やり直すこともできないし、思い出したところで何か変わるわけでもない。そのうちどうせ忘れるのだろう。
とにかく時間は勝手に進むのだから、これからのことを考えようと思った。
団地を突っ切ると自宅までかなり近道になる。『私有地のため通り抜け禁止』と書かれている看板が目に入るが、気にせず団地の敷地内へ入る。もしも誰かに何か言われたときは、友人宅に行くとでも言えばいい。実際中学のときに仲の良かった友人がこの団地に住んでいた。本人はもう家を出たかもしれないが、ご両親は多分まだ住んでいると思う。
秋が近づいてきたとはいえ、歩いていると少し汗ばむ。Tシャツが背中に貼り付くのを感じる。
そういえばこの団地に住んでいた友人は、中学の三年間クラスメイトの女子とずっと付き合っていた。卒業式の日には僕も他の友人たちもそのカップルに、結婚式に呼べよー、と声をかけた。高校に入ってしばらくしてもまだ続いているらしいと聞いていたが、やがて風のうわさで別れたということが耳に入ってきた。
ふたりとも今どこで何をしているのだろうか。それぞれが違う人と付き合い、結婚なんかもしているのだろうか。中学のときはよく一緒に遊んでいたけれど、高校に入ってからやがて疎遠になった。
他にも中学の同級生は何人かこの団地に住んでいた。もうほとんどの人が家を出て、ここには暮らしていないかもしれない。
僕は実家で暮らしている。さらに仕事もしていない。なんでこんなふうになっちゃったのかな、なんて思うときもある。
団地の敷地内を歩いている人はおらず、誰ともすれ違わなかった。建物を見上げてみると、ほとんどの部屋の電気はついていて、仲の良かった友人の家の電気もついていた。
団地を抜けて公道に出た。人通りは少ない。次の十字路を直進してしばらくすると自宅で、左折すると中学校がある。中学の友人のことを思い出していたせいか、中学校へ行ってみようと思った。ところどころにある歩道の植え込みからは相変わらず虫の鳴き声が聞こえる。十字路を左へ曲がる。
十五年くらい前には毎日この道を通っていたのだなと歩きながら考えていた。朝日に照らされた光景が浮かんだが、だけどその記憶はどこか他人事で、本当に自分が体験したものなのかわからない。ドラマか何かの記憶に操作されたもののような気もする。
記憶は曖昧だし、すぐに都合のいいように操作をする。ぼんやりと光景が頭に浮かんで、なんとなく楽しかったなあとか今思えばいい経験だったなあみたいなことを思う。
中学校は選挙の投票所になっているので、卒業をしてからもたびたび来ている。だから特に懐かしさは感じない。明かりはついておらず、グラウンドの向こうがは暗くて見通せない。夜に見る校舎はなんとなくじめっとしていて湿っぽい印象だった。この校舎に通っていて、グラウンドで身体を動かしていたことが遠い昔のようで、またどこか現実味がなくて、自分の体験したことじゃないような気がする。だけどついこの間のことのような気もする。
十五年前、と思った。長かったのか短かったのかわからないようなこの時間をもう一度体験すると、四十歳半ばになる。そのときの自分はなにをやっているだろうか。
時間は過ぎるのだ。本当にもう、しっかりと確実に過ぎる。待ち遠しかった行事も、時計の進みがとんでもなく遅かった授業も、自由過ぎてなにもしなかった大学時代も、無能な上司の下についていた地獄のような時間も、大金とプレッシャーかかった商談もすべて終わった。終わって、時間が過ぎて過去になった。
ふと自分の手を見てみた。働いていない。実家暮らし。じっと手を見てみる。左手。皺があるが手相の見方はわからない。生命線くらいはわかる。
もしもこの手に何か能力があるとしたら。
右手も目の前に広げて、両手を見てみた。
もしも何か能力があるとしたら、自分には何ができるだろうか。
今までそれなりに色んなことをこなしてきた。可もなく不可もないくらいの出来だったと思う。とりわけて得意だと思うこともあまりないし、これがやりたいと思うこともない。
生命線は緩やかな弧を描いて伸びている。
自分はこれから何をやるのだろうか。五年後、十年後、何をしているのだろうか。
時間はしっかりと過ぎて、今が過去になる。そして未来が今になる。五年後、十年後は確実にやってくる。そのときに無職だった頃の自分のおかげで今の自分があるのだな、と思えるようになっていたいとは思う。
がんばろう、と思った。何をどうがんばればいいのかなんてわからないし、がんばっていないわけでもない。がんばったから結果が出るわけでもない。どうなるかはわからない。だけど、がんばろうなんて思ったのだ。
特にやりたいことなんてない。得意なこともわからない。耳の中ではラジオが流れていて、両手をじっと見つめてながら、自宅へ向けて歩き出した。
帰り道 蛙が鳴いている @sapo
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