第164話 なお、人生史上最も無駄な努力とする
コンクリートが打ちっぱなしになった壁を見渡す。話す度に少しだけ声が反響してる気がした。こんなところ、私なら絶対住みたくないな。ずっとやまびこごっこで遊べちゃうもん。どう考えても寝れない。
しかし、この部屋の主、知恵はもうとっくの昔に慣れてしまっているのだろう。物珍しそうに室内を見渡す私に、「早く座れよ」と呆れながら促した。
クッションの上に座ると、用意されたオレンジジュースを一口頂く。知恵は私の顔を覗き込みながら、なんだろう、顔色を窺っている。
「え、何?」
「美味しいか?」
「え。うん」
「そうか。二日切れてても大丈夫なんだな」
「それ賞味期限の話だったら怒るよ」
自分で呼び出した客人になんてことするんだ、コイツは。
そう、私は知恵の家に来ていた。一人で来いと言われて、初めはボコボコにされるのかな? と心配したが、いざとなったら私の方が強い、と思い直して彼女の家を訪れたのだ。
しかし知恵は私を好意的に招き入れ、部屋まで案内してくれた。わざわざ一人でなんて言うからちょっと緊張しちゃったけど……どうやら昨日露店で買ったメリケンサックは必要ないらしい。
「まぁ、お前も見て分かると思うけど、ほら、うちって金無いだろ?」
「うん、廃墟だと思ったら知恵の家だった」
「泣くぞ」
知恵の家は、完全に幽霊屋敷だった。失礼だと思うかもしれないけど、本当にそれ以外に言い現しようがないのだからしょうがない。築百年をゆうに超えているらしく、家の中はさながら博物館のようだった。歴史的なものがたくさんある。黒電話とかいうのも初めて見たし。触らせてもらったけど、ダイヤルのところに指を挟んだのであの機械のことは嫌いになった。
彼女の部屋は地下に降りる階段の先にあった。日光が差さない子供部屋っていうのもかなり珍しいと思うけど、本人はこの空間を大層気に入っているようだ。言われたワケじゃないけど、なんとなく分かる。
「あと、お金無いからって私に二日も賞味期限切れてるオレンジジュース飲ませていい理由にならないから」
「ごめんって……夢幻のことだから「水? 味ついてないのに飲む意味ある?」とか言うと思ったんだよ……」
「私のイメージどうなってんの」
「水の方が良かったか? 持ってくるぞ?」
「味ついてないのに飲む意味ある?」
「正しいイメージだったんじゃねぇか」
まぁオレンジジュースについてはこのまま頂くとして、私は早速本日呼び出された理由について訊ねた。すると、彼女はきょとんとして私を見つめた。
「え……いや、理由なんてないけど……誘ったらマズかったか?」
「だって、一人でってわざわざ言うから……殴り合いなのかと思って……」
「その解釈はおかしいだろ」
知恵はため息をついて私を見つめた。おかしくないわ。アンタ自分の外見分かってんの。本当にただのヤンキーなんだからね。
「ほら、志音も誘うとお前らイチャイチャするだろ」
「しねぇよ」
「たまにはゆっくり二人で会ってみたいと思ってな」
「イチャイチャしないってことについて「そうだったんだな、ごめん」って言葉もらわないと私はこの話題から離れないから」
「お前めんどくせーな」
知恵は私のコップにオレンジジュースを足しながら「ごめんごめん」と言って笑った。見た目はヤンキーだけど、明るくて性格も比較的まともだし、彼女と交友を深めるのはやぶさかではない。
そうしてやっと思い至ったのだ。一番に警戒しなければいけない、あの女について。
「え、ちょっと待って。今日のことは、菜華は……?」
「あぁ、伝えてあるぞ。あとでバレたら厄介そうだし」
「よかっっっっったぁーーー………」
「ちょっと用事があるから今日は会えないって言ってある」
「ねぇバカ。知恵バカ。千葉」
「千葉ってなんだよ」
なんでわざわざ浮気してるって誤解されそうな言い方するの? こいつわざとやってるのでは? 出番がないと思っていたメリケンサッ君まさかの大活躍では?
「冗談だぞ。夢幻と遊ぶってちゃんと伝えてあるぞ」
「冗談にも限度があるでしょうよ」
いきなり「これからお前の永久歯を全部抜くから」って言われて笑える人がいると思ってるのか、コイツは。
でも、ちゃんと許可を取っているのは素直に感心した。やっと私が普段から注意していることが分かってきたみたいだ。まぁ私はいちいち許可取ったりしないけど。志音の物じゃないし。
知恵は私の向かいに座ると、胡座をかいて首を傾げている。
「付き合ったりしたことなかったから普通ってのが分かんねーけど、こういうもんなのか?」
「さぁ。私はしないけど。そもそも普通じゃない人と付き合ってるんだから普通じゃない対策取るのは当然じゃない?」
「それもそうだな。しかもそれを普通じゃない奴に聞くって、色々とおかしかったよな」
「喧嘩売ってる?」
私はテーブルにあった謎の装置を手に取りながら、知恵を睨んだ。これはなんだろう。見たところ四角い目覚まし時計のようだけど、時間が表示されていない。天辺の大きなボタン、押しても大丈夫だろうか。
「あぁ、それレコーダーなんだ」
「レコーダー?」
「おう。菜華がいきなり、いいフレーズが浮かんだなんて言って演奏を録音したがったりするから。上のボタンを押すだけで録音できるようにしてんだ。一応スピーカーもついてるし、外部出力できるようにもしてるぞ」
「え? 知恵が作ったの?」
「おう」
「貧乏ってすごいね」
「てめぇ蹴り飛ばすぞ」
既に知恵は胡座を崩して私の膝をがしがしと蹴っていた。痛いわ。
部屋に入ったときから気にはなっていたけど、この部屋はガラクタが凄い。もしかすると、それがこんな風に生まれ変わったりしている、ということだろうか。
「玩具とか買ってもらえなかったからな。家電やパソコンを拾っては、修理したり改造したりして遊んでたんだ」
「高度過ぎるでしょ」
「捨てられた物の中には、まだ普通に使えるものも多いんだぞ。でも、それを壊したとしても誰にも怒られないし。結構楽しい」
「へぇ……」
知恵の家の事情がヘビィなのはなんとなく想像付いてたけど、そういう環境があってこそ今の彼女があるんだと思った。
「知恵がデバッカーになって稼ぎたいって言った意味。今ならわかるよ」
「……おう」
「友達に賞味期限切れたジュース出すほど貧窮してるんだもんね」
「言っとくけど、夢幻が来なかったら普通に捨ててたからな、それ。流石に菜華に出す訳にいかないし」
「なんで私なら飲んでも大丈夫ってことになってんの!? 失礼じゃない!?」
「実際大丈夫だったろーが!」
「まだ分かんないじゃん! これから下すかもしれない!」
知恵とこんな口論をしておいてなんだけど、お腹を下す気配は全く無い。母が賞味期限切れの食材を普段から使ってるせいかな。鍛えられてしまっているのかも。もういっそのこと、自分の腹部を数回殴って、”お腹壊す(物理)”みたいにしようかな。
私は少しでも便が緩くなってくれることを祈りながら、視界に入ったギターを指差した。
「これ? 前に菜華が言ってた、ストラトって」
「あぁ」
「なんで外人っぽい名前なの? 出目助とかの方がいくない?」
「名前付けてる訳じゃねーし、日本人っぽい名前を付けるとしても出目助だけはぜってー無い」
折角提案してあげた名前を”ぜってー無い”って失礼すぎない?
っていうか、出目助って可愛いよね……? え、やだ……ネーミングセンス否定されたの、普通に傷付く……。
「呼んどいてなんだけど、あたしの部屋ってガラクタとギターくらいしかないからな。ちょっと触らせてもらおうぜ」
「それ知恵以外の人間の手垢がついても大丈夫なの?」
「いやー……確認したことないけど、大丈夫だろ」
「本当に……?」
「う、うーん……ことギターに関しては、あたしもあいつの基準が分からない時があるっていうか……」
「ねぇやめよ。ヤバい予感しかしないからやめよ」
私が知恵を静止していると、テーブルの上に置いてあった知恵の携帯が鳴った。このタイミングの電話って、ホラーみたいだからやめてほしい。
「菜華からだ」
「はぁ!? なんで!? もしかしてそのギター、盗聴器ついてんじゃないの!?」
「それは流石にないだろ!」
そうとしか考えられない。私達が口論していると電話はその振動を止めた。どうやら諦めたらしい。その場から一歩も動いていない筈なのに、何故か私の息は上がっていた。怒鳴り過ぎたのかな。
呼吸を整えながら、静かになった端末を見つめていると、なんとそれは再び振動した。
「めっちゃ鳴るじゃん! こわい!」
「大丈夫だ、今のはメールだ」
「電話とメールのダブルとか余計怖いんだけど!?」
ありとあらゆる手段でコンタクト取ってくるじゃん。怯える私をスルーして、知恵は端末を操作している。全然違う用事であって欲しい。「ギターは触らせちゃダメ」とか言われたらマジで泣くから。
「えーと……盗聴器は仕掛けてないって……え……?」
「いや仕掛けてるんじゃん! 仕掛けてるからそんな反論できるんじゃん!」
私は涙腺を決壊させながら抗議した。しかし、知恵は腕を組んでメールの意味を考えているようだ。うーんと唸って首をひねっている。ねぇそんなのいいから盗聴器探そうよ。
「あ」
「今度はなに!?」
「これ。お前、さっきここ押したか?」
知恵はお手製のレコーダーを持ち上げると、後ろのボタンを指さした。
「え? あーと、分かんないけど、そこを押したとしたら私のせいってこと? だったら押してない」
「その理屈はおかしいだろ」
いや、押した気がする。っていうか押した気しかしない。うん、「これなんだろ? キャップ? あぁボタンなんだ」って、確かめる為に謎の出っ張りに触れたのは覚えてる。
「こいつ、これでもネットに繋げてんだよ。んで、録音したデータをリアルタイムで指定先、菜華のパソコンに送ってるんだ。もっかい押したらそこでストップ。便利だろ?」
「あんたデバッカーよりも向いてる道あるよ、マジで」
私が知恵の謎の技術力に呆れていると、尻が震えた。おそるおそる手を伸ばすと、やっぱり。私の携帯が震えていた。
「おい、ケータイ鳴ってるぞ」
「鳴ってない」
「震えてるだろ」
「私の方が震えてるから大丈夫」
「何が大丈夫なんだよ」
知恵は私の隣に移動すると、横からドンと美少女を押し倒した。そして無防備になった隙に尻から端末を抜いて、あろうことか勝手に出やがった。
「もしもし? あぁ、あたしが気付いて切ったからな。練習中悪かったな。え? あー……いや、あたしはいいけど。あるぞ。分かった、夢幻に伝えとく」
そう言って知恵は電話を切った。正直、嫌な予感しかしない。何、私に伝えとくって。殺害予告かなんか?
っていうか二人ともごく自然に会話してるけど、あれ私の携帯だからね。斬新過ぎるでしょ。菜華は「どうして知恵が?」とか言え。せめて私に掛けたんだから、私に用事があるんなら「夢幻に代わって」くらい言え。あいつ、絶対「知恵が出てくれてラッキー」くらいにしか思ってない。そりゃ菜華からの電話は怖かったけど、ここまでぞんざいな扱いを受けるとそれはそれでなんかイヤ。
私が何とも釈然としない気持ちでいると、知恵は私にある本を差し出した。さっきから隣でごそごそしてると思ったけど……ギターの教則本だ。
「触っていいらしいぞ」
え、嬉しい。菜華が知恵と同じくらい大切にしているギターというものに、私が触れていいなんて。スタンドから外したストラト君を受け取ると、紐を肩に掛けてそれっぽく構えてみる。もうこれだけで楽しい。なんか自分がかっこ良くなった気がする。ありがとう菜華。
「っていうかコード3つ弾けるようになるまで帰るな、だとさ」
「は?」
前言撤回ね。もう菜華に謝意を感じた自分にすらイラつく。
コード3つ弾けるようになるまでってどういうこと? ちょこちょこっと触ってすぐ戻すつもりだったんだけど?
「できるようになったらさっきみたいに音源送って来いってさ。菜華がOKだと判断したら帰っていいらしい」
「お泊まり確定じゃん」
「あと、スタジオ練習が終わったら菜華もうちに来るらしいから、スパルタされたくなかったら1秒でも惜しんで練習しろって」
「お泊まりどころかおもらしまで確定してるじゃん」
私は半ベソをかきながら教則本を開いた。隣では知恵がケラケラと笑っている。「なに笑とんねん」とドスの効いた声で凄みながら胸ぐらを掴みたい気持ちで一杯だったけど、そんなことをしている場合ではない。
「知恵……弾ける?」
「多分、お前よりかは……っつっても、あたしも全然だけどな」
その日、私は知恵に教えてもらいながら、後半は菜華に教えてもらいながら、3つのコードを習得した。でも多分、翌日には弾けなくなってると思う。家に着いたのは夜の十時前だった。
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