第四話 更待月の夜 遠江 掛川宿
退いたが負けのにらみ合い
静岡県掛川市は人口11万の都市。東海道遠州地方の難所である大井川と天竜川に挟まれた場所にある。
宿場町としてだけでなく城下町としても栄え、山内一豊が大改修した掛川城は東海の名城と親しまれてきた。しかし幕末の大地震により崩壊。現在の天守は平成6年に復元されたものである。
また戦国時代に始まった茶葉の生産は江戸時代に盛んになり、現在は静岡県茶葉生産量の約1割を担っている。深蒸し茶が有名である。
(お茶か。本場静岡の緑茶を是非とも飲みたかったのだが、猫はお茶飲んじゃダメ、と言われて冷めた白湯しか飲ませてもらえなかった。口惜しいことだ)
今、私は掛川にいる。東海道23番目の宿場。ほぼ中間地点だ。
「う~ん、荒ちゃん……」
日本橋を発って今日で10日。新月まで残り9日。ギリギリの日程だが予定通りに進んでいる。
「荒ちゃん、お茶飲んだらダメって言ってるでしょ、むにゃむにゃ」
最後のツアーは1週間後だ。それが済めば熱田神宮から実家へ帰り、家族に状況を説明して最終日に伊勢へ行く。完璧だ。このまま何事もなければ倭姫に課せられた試練は無事達成できるはずだ。
「お茶の代わりにお酒を飲むのです。ささ、グビっと一杯……」
(ええい、さっきからやかましい。いい加減に寝ろ、この酔っ払い!)
と心の中で叫ぶ。ふかふかのベッドは心地好いが、こうもきつく抱き締められていては苦しくて仕方がない。
「なに、あたしの
下着姿の賀衿が私の顔を胸の谷間に押し付けた。
私は今、賀衿と共にホテルの一室にいる。他のツアー客は600年近い歴史のある法泉寺温泉の旅館に宿泊しているが、社員にそんな贅沢はさせられない。安価な宿を利用するよう規約で定められているのだ。
「荒ちゃ~ん……」
先ほどまでひとり酒を飲んでいた賀衿は、あられもない姿でベッドに横たわっている。
(これほど酒癖が悪いとは思わなかったな。それともよほど不満がたまっているのか。取り敢えず眠ってしまうまでこのまま好きにさせておこう)
体の力を抜いて賀衿の胸に身を預けると、三島から掛川に至る1週間を回想した。
* * *
原宿でバスを降りた私の鼻息は荒かった。過去2回のツアーで発生していた紛失物多発案件。その原因を遂に突き止めたからだ。
旅行会社社員としての血が騒ぐ。このまま奴の好き勝手にさせていたら、ツアー客から「急がされるから忘れ物をした」などと苦情が来るのは避けられない。会社の信用にかかわる問題だ。なんとしてもこれ以上の被害を防がなくてはなるまい。
(さりとて猫の身ではやれることにも限界がある。賀衿に教えるか)
しばし考える。が、それはやめることにした。賀衿は感情がすぐ顔に出る。声に出る。態度に現れる。ツアー客の中に悪党が紛れ込んでいると知れば、添乗員の業務にも支障が出るだろう。
(とにかく私だけでやれるところまでやってみよう。ツアー中に警察を呼ぶような真似はしたくないからな。奴の動きを封じる、これが最善の策だ)
それから私は例の男の監視を続けた。神社に行く時はそれとなく賀衿をあの男と会話するように仕向けて用を済ませ、それ以外の時は常に男の近くで見張っていた。
(これは、かなり手慣れているようだ)
男が狙うのはバスの中だけではなかった。ズボンの後ろポケットが膨らんでいる相手に背後から近付いたり、鞄をベンチに置いて会話している老人を見詰めていたり、何気なく話し掛けて相手の注意を逸らそうとしたり、何年もこの道を歩いてきた
(猫の体が幸いしたな)
男が怪しい素振りを見せると私はすぐに反応した。大声で鳴く。ズボンに飛び付く。鞄をいたずらする。気を逸らそうとした男の気を逸らすべく足元にじゃれつく。
大の男がこんな行動に出れば変人扱いされるだろう。だが猫ならば何の不自然さもない。しかも非常に機敏で瞬発力もある。私が邪魔立てすることで男の企みはことごとく潰されていった。
「ちっ、いまいましい猫だな」
やがて男は私の存在に気付き始めた。何か事を起こす前には必ず私の姿を探すようになった。私の姿が目に入れば何もしようとしない。
(ふっ、少しは用心し始めたか)
男も私も互いに互いを監視し合う状況である。気が休まらないがここで退くわけにはいかない。監視続行だ。
「皆様、本日最後の宿場、由比宿に到着です。宿泊は清水市ですのでお間違えのないように」
バスが停まる。ここで私は重大なことに気付いた。
(まずいな、旅館の中では男の監視は無理だ)
見学などで建物に入る時は賀衿に頼んでバスケットの中に入り、そっと蓋を持ち上げて監視をしていた。しかし旅館ではその手が使えない。賀衿と客の宿泊先は異なるからだ。
私の目がなくなれば、たとえ旅館の中であろうと犯行に及ぶに違いない。ツアー客に注意を呼び掛けてもあれほどの熟練者となれば、多少の用心では太刀打ちできないだろう。
(さて、どうしたものか……)
「荒ちゃん、難しい顔してどうしたの」
猫の難しい顔って一体どんな顔なのだとこちらから訊き返したくなる。しかし実際難問に直面していたのだから、きっと難しい顔をしていたのだろう。賀衿の直感はなかなか侮れない。
名案が思い付かないまま由比宿での自由時間が終了し、宿泊先へ向かうことになった。バスの前に立って賀衿が書類をチェックしている。ツアー客と宿泊先のリストだ。
(待てよ……)
賀衿の足にじゃれつく。両前足を顔の前で揃え、何かを読んでいるような仕草をする。すぐ気付いてくれた。
「えっ、荒ちゃんも見たいの? 仕方ないなあ」
渡された宿泊先リストを見て私の心配は杞憂だったと判明した。座席表を見て知っていたあの男の名が書かれたホテルには、他のツアー客の名は1名も書かれていなかった。
(ホテルの宿泊客が自分だけでは、盗みたくても盗めまい)
もちろんこのツアーとは関係ない一般客は泊っているだろう。が、そこまで面倒は見切れないし、見なければならない義務もない。
(自由度を高くしておいて正解だったな)
東海道五十三次弾丸ツアーは、ツアーと銘打ってはいるが個人旅行に近い。必須利用項目は集合場所から解散場所までのバスだけ。その他の往復交通手段、宿泊先、食事、お土産、おやつなどは全てオプションだ。自分の財布と相談して自由に決められる。
多くの客はこちらが提案するプランを選択するが、特に費用がかかる宿泊先は好みに応じて様々だ。男は一番安いビジネスホテルを選択していた。高齢者が多いツアー客ならばまず選ばない宿泊先だ。
(夜だけは気兼ねなく眠れそうだな。やれやれ)
「それでは皆様、これより本日の宿泊先へ向かいます」
バスは順番に宿泊施設を回っていく。最後のツアー客を無事に送り届けてから賀衿が言った。
「荒ちゃんはどうするの。こっそりホテルの部屋に連れて行ってあげようか。その方が安心して眠れるでしょ」
私は頭を横に振った。無断で猫を持ち込めば建造物侵入罪に問われる恐れがある。部下をそのような目に遭わせるわけにはいかない。手助けは必要最小限で十分だ。
「そっかー。なら、また明日ね」
賀衿は少し残念そうな顔してホテルに入っていった。その夜はいつも通り近くの神社で眠った。
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