1-9 探偵は忘れた頃にやってくる
「僕の……ですか」
「うちで出来るのは、ある人間の中からある人間を消すということなんだ。今日のことを忘れさせるみたいな都合のいいことはできない」
「それじゃあ無理なんですか?」
「いや、今日のことの関係者を全部消せば、彼女の中から今日のことは消える」
それで依頼人の男の子にも何を覚悟する必要があるのか伝わったみたいだった。
「関係者全員というのは……僕も含まれているんですよね?」
「どうする少年、それでも今日のことを消すかい?」
「どうするって……」
それにしても残酷な提案だと思う。
彼女を助けたいと思ったこの依頼人に、彼女の中から彼のことを消すというのだから。
この二人がどういう関係なのかは知らない。でも彼が彼女をどう思ってるかくらいは今日会っただけの私にだってわかる。
なのに、どうするかを本人に選ばせるなんて。どうしようもなく残酷だ。
「消してください」
でも、さして迷う時間もなく彼はそう答えた。
「もう少し考えた方がいいんじゃないの?」
私は余計なことだと感じつつも、確認せずにはいられなかった。
「彼女のためなら、僕が忘れられてしまうくらい大丈夫です」
この依頼人、最初にここに来た時は頼りない感じだったけど、今は自分のすることに確信と自信を持っているみたいだった。
「でも一つ、お願いがあります」
そしてそれには彼のお願いというのが関わっていたようだ。
「なんだい?」
翼くんは尋ねながらも、少し笑ってるように見えた。彼が何を言うのかもうわかっていたのかもしれない。
「僕が今日のこと覚えてるのもイヤだろうから、僕の中からも彼女を消してください」
それはお互い、完全に他人に戻るということだ。どころか今後、もう互いの存在を意識すらしない関係になるかもしれないのだ。
「本当にそれでいいの?」
ただの勢いじゃないのはわかった。なのに私は彼の心を確認してしまう。
「いいんです。ただの僕の片思いでしたから」
それが彼にさらに覚悟を求める質問だとわかっていても。
「ならそれに応えるのが俺たちの仕事だろ」
翼くんは私の頭にポンと手を置いて、それから目を見た。
もうこれ以上、言うなということなんだろう。
「そうだね」
だから私は短く返事だけをした。
○
忘却作業が済んだ二人はしばらくビルの前でぼーっとしていたが、やがて意識をハッキリと取り戻すと、互いに気付くこともなくそのまま違う方向へと帰っていた。
それは二人が他人になってしまったことを意味していた。予想通りのことだったけど、いざそれを見ると、やはり悲しい。
二人は今日のことも、私たちのことももう覚えていない。それは別にいい。
でもお互いのことを覚えていないのは、やはり寂しい。
彼はあの娘を助けるためにあんなに必死だった。それすらも否定されたみたいで。
「本当に彼の片思いだったと思う?」
私はビルの屋上から二人が見えなくなるまで、ずっと追いかけていた。翼くんも隣で黙っていたけど、同じことをしていたんだと思う。
私の質問に翼くんはしばらく答えなかった。何か考えてると言うよりは、ただ聞こえてなかったみたいに変化の無い彼の横顔をじっと見る。
「なんだ、俺に聞いてたのか」
翼くんは私の視線に気付いて笑いだした。
「ただの独り言だと思った?」
「だって答えはもうわかってるだろ」
確かに翼くんの言う通りだった。
私には答えはわかっているし、翼くんがそれと違うことを言い出しても、きっと納得はしない。私は答え合わせをして、そして翼くんが今、同じ気持ちであって欲しいと思ってただけなのだ。
「いずれにせよ、
翼くんはいつだってそうなのだ。仕事は仕事だと割り切ろうとする。本当にそう出来てるのか私にはわからないけど、いつだってそうあろうとしている。
「そういうところ、すっごいドライだよね、翼くんは」
「意外と人は落ち着くところに落ち着くものなのさ」
翼くんは時々、そう言った楽観的なことを言い始める。本人の普段の言動からはちょっと信じがたいことを。
「本当にそう思ってるの?」
もしそうなら、私が感じてるよりは彼は少しは幸せな人なのかもしれないけど。
「信じたいと思ってはいるさ」
でも翼くんの言葉はそれを肯定してはくれない。
ただ私はそれでもいいと思っている。仕事をすることだけが残りの人生みたいに思っていた彼よりはずっと健全だから。
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