涙の塗り薬
男は大学病院の待合室にいた。たくさんある椅子の一つに座り、目の前を行き交う人々を目で追うこともなくだたみていた。
ふと意識を戻すと、隣の椅子に黒いスーツを着た女が座っていた。ビジネスバッグを太ももの上に置いている。保険勧誘員のような装いだった。
「こんにちは」女性が明るい声でいう。
「こんにちは。保険はもう間に合ってるよ」
「えっ?」
「もうあなたで三社目かな。病院に長くいると勧誘員はよく話しかけてくる。でも、いくつも保険に入る経済的な余裕もないし、気分も乗らない」男はあらかじめ決めておいたセリフを感情のこもらないいままに言い放った。
「えっと・・・私は保険を売りに来たわけじゃないんですが・・・」女はあからさまに困惑した様子だった。保険勧誘員と間違えられることに慣れていないかのようだった。
「それは失礼した。では、何のご用件で?」男は軽いお辞儀をし、女が話しかけてきた理由を尋ねる。
「あなたに紹介したい商品があるんです」女は先ほどの明るい調子に戻り、バッグの中をあさり始めた。
「ってことは、あなたはセールスマンってこと?」
「そうですね。セールスマンというかセールスウーマンというか・・・」
女は男への受け答えよりもバッグの中から商品をさがすことに集中していた。やがて、あったあったと言いながら小さな小さな缶ケースを取り出した。蓋を回すと中身を取り出せるような形状だった。
「なんだいこれは?」男は女の手元を見ながら尋ねる。
「こちらは‘‘涙の塗り薬”という商品です」
「涙の塗り薬?」
「ええ。この薬を塗られた人はもれなく大声で泣きます。よく、その薬に刺激物が入っていてその痛みから泣いてしまうのか、という質問を受けるのですが、まったくの的外れでして、無味無臭、無添加、無刺激物であるこの薬は、塗った時に何かを塗られた感覚しか起きません。そしてまもなく泣きます」
「そんなことあるわけ・・・」
男は自分の目頭をぎゅっとつまんだ。もしかすると自分は幻想を見ているのかもしれない。ここ最近はまともに寝られた覚えもないし、幻想と会話している可能性があった。しかし、自分と女以外の人々はいたって普通の様子で、男が幻想に憑りつかれてしゃべっているのだとしたら、訝しの目を向けてくるはずだが、そんなこともなくただ目の前を通り過ぎるだけだった。女は本当に存在するのかもしれない。だとすると、今の自分の状況に似たような人を見つけてはこのような怪しい商品を売り歩く悪商人なのではないか、男はそう推測する。その道のプロであれば、最悪の状況に陥っている人を察知することができ、そういった人はあり得ないまがい商品でも言いくるめられて買ってしまうのではないだろうか。
「信じるか信じないかはあなた次第なのですが・・・できれば信用してほしいですね。だって商品が売れないですから」なぜか女にふざけた様子は少しも感じられなかった。
「あと、あなたは・・・泣いた経験がないですよね?」
「えっ」男は声を詰まらせる。確かに自分は今までつらいことや悲しいことがあっても涙を流して泣くことはなかった。これからも、という保証はできないが。
「どうしてそんなことをあなたが知っているんだ・・・」
「今はそんなこと気にしなくていいのです。あなたは負の感情を心の中に溜め込んでしまうタイプです。本当ははっきり表したいのに塞いでしまう。周りに迷惑が掛からないし、忍耐力もつくかもしれません。でも、あなたの心はいつか限界を迎えます。限界を超えると今までの負の感情は凶器となります。誰かが傷つくかどうかはわかりませんが、確実にあなたは苦しみ、苛み、後悔します。なのでこの塗り薬はあなたにうってつけです。使えば負の感情が滂沱の涙となって零れ落ち、あなたの気分はとても楽になることでしょう。」
男はしばらく考え込んだ。病院の床の冷たさが足裏から伝わってくるのを男は感じる。
「悪いけど、その薬は遠慮しておくよ。僕たち、つまり、僕と妻はこれからとてつもない悲しみに打ちひしがれる。たぶん、きっと、その薬を使わなくても・・・」
泣くことができる、と言いかけたが口ごもった。もし、泣くことができなかったら・・・結局そこまでの悲しみだったということになるのだろうか。
「そうですか・・・。あなたがそこまで言うなら無理強いはしません。ただ、大声で泣くことがとても大切なんだってことを知っておいてください」
女は明るさを消し、表情も心なしか暗くなった。無理強いはしないセールスマンなんているのだな、男は申し訳なく思う。大声で泣くことは大切・・・
「ちょっと待って。その薬って誰でも泣くことができるのかい?」
「ええ、まあ」女は少し驚きながら応えた。
「じゃあ、一つ、試しに買ってみるよ」
本当ですか!、女のまとっているオーラはコロコロ変わる。
「あなたは特別なお客様です。一人一つ限定、特別価格、100円です!」
「100円?あまりに安くはないかい?」
「この塗り薬、一人に一回しか使えないんです。だから、くれぐれも慎重に。あと、誰かに塗るときは手袋をはめてくださいね。あなたの皮膚に付くとあなたが泣いてしまうので」
女はそう言いながら不敵な笑みを浮かばせた。
(三日後・・・)
「こんにちは」
聞き覚えのある声が後ろから聞こえたため、振り向くとやはり以前待合室で話した女が立っていた。前と同じ黒いスーツを着ている。
「塗り薬、使いましたか?」
女が尋ねてから数秒、男との間に沈黙が流れた。
「ええ、使いましたよ。大声で泣きましたよ」男は震えた声で言う。
「それは良かったです・・・ってあなた、今泣いてるじゃないですか!もしかしてさっき塗ったんですか?!」
いつの間にか男の両目は涙で溢れていた。まともに女を見ることができない。
「いえ・・・僕自身には塗ってないです。元々検査で死産だってわかってたんです。でも、奇跡が起きるかもしれないからって妻は頑張って産んだんです。僕も立ち会いました。でも、やっぱり息はしていませんでした。僕はどうにでもなれとの思いで、薬をわが子に塗ったんです」
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