SALES TALK

うにまる

忘却のスイッチ

 そのスーツ姿の男は、葬儀場の片隅でまっすぐに立っていた。目は遺影の方に向けられている。


 「すみません、夫の知り合いの方でしょうか」


 女は男に声をかけた。


 「いえ、会ったことは一度もありません。もちろん、あなたともこれが初対面です」


 「では、なぜここに?」


 「あなたに商品のご紹介をしようと思いまして、やってまいりました」


 「つまり、あなたはセールスマンってこと?」


 「そう思ってくれてかまわないです」


 女は驚きあきれた。四十年連れ添ってきた夫を失った悲しみに暮れている自分を前に、悠々と商売をしようという男の気が知れなかった。


 「悪いけど、今は何かを買おうという気持ちになることはできないわ。帰ってちょうだい」


 「そう言わずに。私が紹介したいものはこちらです」


 男は持っていたビジネスバッグを開け、中から小さい機械のようなものを取り出す。赤いスイッチが一つだけ付いているだけのシンプルなデザインだった。


 「これは・・・機械?」


 「ええ、いかにも。これは人を一人だけ忘れることができるスイッチです」


 「どういうこと?」


 「こちらのスイッチを押しながら忘れたい人を思い浮かべると、その人に関連する記憶を一生思い出さなくなります」


 「そんなこと、できるわけないでしょ」


 女は男を訝った。そんな機械を聞いたことないし、それに・・・


 「嘘だと思って試してみてください。必ず忘れます」


 「あの、そもそも、なぜその機械を私に、しかもこのタイミングで販売しようとしたの?」


 「亡くなった旦那様のことを、忘れたいかなと思いまして」


 「ふざけないで!四十年以上も一緒に過ごしてきたのよ?どうして夫のことを忘れなきゃいけないの」


 気持ちが高ぶる女とは裏腹に、男は冷静で沈着だった。


 「何かを失った悲しみというのは、ときに巨大で鋭い刃のように心を刺すことがあります。そして、失った何かと長い付き合いであればあるほど、心の奥まで突き刺さり、激しい苦しみを伴うことになります。あなたは齢六十四歳ですが、ずっとその痛みを誰にも分かち合うことなく背負っていかなければならないのです。しかし、このスイッチを使えば何かを失ったことすら忘れます。つまり、今後待ち受けている傷心から解放されるのです」


 滔々と語る男をみて呆気に取られつつ、女は夫を失ってから今までの記憶をさかのぼっていく。激しい喪失感。起こることのない未来。そびえたつ孤独。


 「今までの夫との記憶はどうなるの」


 「旦那様との記憶はすべて忘却されますが、それらの記憶は適当に他の記憶に置き換えられます。つまり、旦那様と食事に行っている記憶があるとしたら、その記憶はあなたがあなたの友達と食事に行っている記憶となったり、一人で本を読みながら食事を楽しんでいるといった記憶へと変わります」


 「今までに撮った写真とか、知り合いの記憶は」


 「写真もあなたの記憶の都合に合わせて変化致します。あなたと旦那様の関係がなかったことになるのですから、あなたはあなた、旦那様は旦那様として知り合いの記憶も変更されます」


 「ずいぶんと・・・複雑なのね」


 「複雑ですが、単純です」


 女は改めて男を見る。男は何一つ表情を変えることなく、こちらに目を向けていた。


 「あなたは不思議な人ね。わざわざ葬儀場まで来て、見ず知らずの女に商品を売り込むなんて。それに、私の年齢はいつ知ったのかしらね」


 「そのようなことは些末なことでございます。私はあなたにこのスイッチを紹介しているだけなのです。あなたは特別なお客様です。一人一つまでの限定で、お値段は特別価格一万円です。どうですか、買いますか」


 「ええ、わかったわ。一ついただきましょう」


 「まいどあり」


 男はそこで初めて口角をあげた。目は細くなって、ずいぶんと愛嬌のある顔になる。男は一万円を受け取ると、すっとその場から姿を消した。


 

 深夜、女はゆっくりと目を閉じて想像する。そして強くスイッチを押す。




 (二か月後・・・)


 

 女は行きつけの居酒屋で一人カウンター席に座っていた。


 「大将、もう一合日本酒を!!」


 「お客さん、飲みすぎですよ。今日はそのくらいにしておきなさいな」


 「いいのよ!どうせ帰ったって家にはだれもいないし。だいたい、あのダメ夫、なんでわたしより先に向こう側へ行っちゃうのよ!!少しは私の身にもなってみなさいよ!!」


 女は屈服し、目からは大粒の涙がこぼれる。この締めつけられる感情は、いつまで続くのだろうか。夫の笑顔を思い出せる限り、永遠なのだろう。


 「すみません、お勘定を」


 女が座る二席隣でスーツ姿の男が立った。そして、何も知らなかったかのようにその場を去っていく。




「お客さん、さっきまでいたスーツ姿の男性と知り合いなんじゃないの?さっきからちらちらとお客さんの方見てたよ」


「どうだろう・・・誰だったか思い出せないわ」

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