柔らかな殻
僕は不思議に感じる。
セエノと逢うようになってから、突然悲しくなる頻度が減った。
時々は悲しくなるが、常時こびりついたものではなくなった。
「タカイさん。ご馳走さまです」
「ああ。いいよ、気にしないで」
「ほんとはイタリアンって余り好きじゃなかったんですけど、ここのは平気」
「平気・・・か。美味しい、じゃないんだね」
「タカイさん。世の中ってそんなに積極的肯定的に好まれるものばかりじゃないですよ。ところで、わたしの顔、平気なんですか」
「何を・・・」
「タカイさん。わたしは自ら進んであなたと会っています。こんなこと初めてです。だからこそ、わたしの
「・・・不快、というのとは違う」
「そうですか。でも、間違っても可愛いとか綺麗だとかいうことはないですよね」
「・・・意地悪しないでくれ」
「やっぱりタカイさんは正直者です」
ワインをボトルで追加した。
なんでもオーナーシェフはイタリアに渡航して現地のレストランで武者修行していたらしい。
イタリアのワイナリーに顔が利き、空輸で仕入れているそうだ。
「おいしい」
「君はワインの味が分かるのかい」
「一応はバーテンダーですよ。お酒の嗜み方はそれなりに」
ようやく
追加の白ワインを二杯飲んだところで彼女はストレートな質問をしてくる。
「どうしてキスしたんですか? 酔ってたから?」
「・・・いや。それはない」
「じゃあ、酔ってないのにキスしたのはなぜ?」
「言いたくない」
「あ。卑怯です」
「卑怯?」
「はい。繰り返しになりますけど、わたしが普通の容姿ならこんなことしつこく訊きません。あなたは精神科医でしょう? ならば人の心に不安を残すような応対はやめてください」
「・・・君が一生キスできないんじゃないかと思ったら可哀想になったから」
「はい。それでいいんです」
「すまない」
「なんで謝るんですか。タカイさんには感謝しかありません。その・・・タカイさんのキス、とっても素敵でした」
「ありがとう」
今夜は最初から酔った後に映画を観ると2人で決めていた。
レストランが入っているショッピングモールのシネコンで、やはりイタリアの小作品を観た。
「・・・泣いてるのかい?」
「ええ。あの子、ほんとに切ない演技をするから」
声を潜めてセエノは主人公の少女を讃えた。彼女がこんなに真っ直ぐに感動するとは意外だった。
肩を抱き寄せてみた。
「・・・やめて」
「ごめん」
軽く拒否されたが、ほとんど間を空けず、彼女の方から体を寄せてきた。
「タカイさん」
「なに」
「好きです」
「・・・・・」
「返事はしなくて、いいです。一生の内に一度だけ、言ってみたかったんです」
「映画に集中しよう」
「はい」
僕は迷った。
僕は別れた彼女から「好き」と言われたことは一度もなかった。僕もそう言ったことはない。
その別れた彼女だけではない。
これまでに何人かの女性と付き合い、『そういう』間柄になったこともあるが、誰からも「好き」と言われたことはないし、僕からその言葉を発することもなかった。
セエノにその二文字の言葉を僕が返せば、僕は楽になれるのだろうか。
それともどうにもならない苦悶に苛まれることになるのか。
彼女は頰で僕の肩のニット生地の感触を楽しんでいる。
僕はそのまま、ずっと迷ったままだった。
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