最終話 秋の日のヸオロン

前回のあらすじ

お な べ お い ひ い !

お ふ ろ し や わ へ !


ねる。






 生き物の体温に慣れていないというのは本当だった。


 などと言い訳じみたことを考えたのは、夜中にふと目が覚めたからだった。


 夜闇の中でも見通す目に映ったのは、両側から私に抱き着いてすやすやと眠っているちびっこどもだった。道理で重苦しいし寝苦しいわけだ。でも、鳥肌は出ていない。


 私は起こさないように丁寧にこの二匹のけだものたちを体から引きはがし、そっと布団をかけ直してやった。

 そうして覗き込んでみた顔の何と無防備で無警戒な事か。

 私も眠っている時はこのような顔なのだろうか。いいや、きっと苦虫でもかみつぶしたようなしかめ面に違いない。


 まったく、あどけない、と言うのはこういう寝顔を言うのだろうか。


 起きている間は絶え間なく表情をくるくると変えるリリオの顔は、すとんと眠りに落ちてしまった今はまるで本当にどこかの貴族のお姫様のようだ。実際にそうであるらしいけれど、話に聞いただけで、私はそんなお姫様なリリオに、寝顔以外でお目にかかったことがない。


 リリオがきちんと洗練されたお姫様のようにふるまう姿は、ちょっと見てみたいような、見てみたくないような、複雑な気持ちだ。笑ってしまうかもしれないし、そしてきっと、不安になるからだ。

 たとえお姫様のようにふるまっても、リリオの本質はきっと変わりやしないだろう。

 でもきっとだ。

 それは、きっとだ。

 必ずってことじゃない。

 たとえそれが見かけの上の事であっても、変わるということはなんだか恐ろしく思えた。


 私はおもむろにリリオの頬に手を伸ばし、その餅のように柔らかな子供の頬をつねってみた。夢の中でも何かにつままれたのか、むうむうと眉を寄せる、その子供っぽい表情に、私はほうとため息を吐く。

 それは多分、安堵の為に。


 反対側に向き直れば、トルンペートがおすまし顔も放り出して、すやすやと安らかに寝入っていた。

 いつも勝気そうにツンと尖った眉尻も目尻も、いまは柔らかに落ち着いている。

 起きている時はシニョンにまとめた髪も、いまは安全な野営地だからか解いているのだけれど、それがふわふわと波打って、なんだかこちらもお姫様のようだ。


 お姫様二人に挟まれているっていうのは結構な贅沢なのかもしれないけれど、私はやっぱり少し怖くなって、眉尻をぐりぐりと押してみた。そうすると、ちょっといつもの不機嫌そうなおすまし顔の猫みたいな、ツンとした感じが鼻先に出てくる。

 また、安堵。


 いつもの姿が垣間見えることへの、安堵。

 そうだ。

 私にとって変化とはある種の恐怖だった。


 生き物の体温に慣れていないというのは本当だった。


 父は私と触れあうということが得意ではなかった。

 いや、違う。記憶を誤魔化すな。忘れられない癖に。


 そうだ。父はよく私に触れた。

 頭をなで、肩を撫で、背中を撫で、抱きしめて担ぎ上げて、体温を共有してくれた。

 父は愛するということがよくわかっていない人だった。

 父は愛というものが理解できていない人だった。

 けれど父は、とてもとても原始的な部分で、きっと爬虫類の脳みそで、私とつながりを持とうとしてくれた。

 体温の共有は、決して理解し合えない私たち父娘にとって、それでも分かり合えるものだった。


 私が生き物の体温を拒むようになったのは、そんな父が亡くなってからだった。

 最後に遭った時、父の体はすでに大分体温の低い状態であった。

 私は、ああ、そうだ。私はあの日、自分でも不思議なほどに、珍しく父の手を長く長く握っていた。

 頭ではわかっていたからだ。父の死が迫っていることを。

 翌日触れた手は、私の移した体温などまるでなかったかのように、冷たいものだった。


 あの変化が。

 あの致命的な変化が。

 あの致死的な変化が。

 私に変化というものへの怯えを、生き物の体温への恐れを生んだのは、今思えば確かな事のように思う。


 いま握っている手の温度が、翌日には冷え切ってしまっているかもしれない。

 いま話している相手の声が、翌日にはもう聞けなくなっているかもしれない。


 そう思うと、私は人とのつながりを持つことにさえ病的な恐れを持つようになっていた、のかもしれない。


 すべては今になって、それこそ後になって、後づけながらにこじつけてみた話だ。


 父の体温など関係なく、私は生き物の生暖かさが嫌いだったのかもしれない。

 単に私と言う個人が人とのつながりを保つことが面倒だったのかもしれない。


 けれど、こうして穏やかに眠る二人と、それに挟まれて横たわる自分と言う光景を俯瞰してみた時、私は確かに幸福というものを感じるのだった。そしてそれを失うことへの形容しがたい恐怖を。それは言い訳のしようがない事実だった。


 今日、ウールソに尋ねられた質問が反芻され、思い出された。

 私はリリオの見せてくれる世界を見たいと思った。リリオの見ている世界が見たいと思った。

 でもそれは本当に私が見たいものなんだろうか。

 本当に私が見たいものって何なんだろう。

 リリオの背中を見て歩いていても、きっと私はある程度の満足を得られるだろう。

 そうして満足の中に緩やかな諦めを得て、最後には鈍い痛みと別れを得られるだろう。

 胸を裂く痛みとともに別れるより、それは苦痛の少ない人生だろう。

 でもそれは私の人生なのだろうか。

 私は一幕の劇を観ているつもりだった。

 異世界という舞台で演じられる、リリオと言う女優の演じる劇を。

 でも、気づけばその劇にはトルンペートが加わり、いつの間にか私自身も、観客席から駆け上って混じりこんでしまった。

 一度死んでしまった自分が、いったい何になれるというのだろうか。

 一晩眠ればかき消えてしまう、夢のような存在に過ぎないというのに。

 ああ、でも、劇作家はこういっていた。人は夢と同じものでできていると。

 異世界このよが夢で包まれているのなら、私もそこにいていいのだろうか。

 リリオの背中だけを見ていたい。

 でもリリオの背中だけを見ていてもいいのだろうか。

 自分の目で物を見なくてはならない。

 でも彼女と離れたくない。彼女たちと別れたくない。


 隙間風もない魔法のテントなのに、耳に届く秋の風がひどく寒く感じられた。

 酷く切なく、寂しく感じられた。


 わたしはゆっくりと布団に体を横たえる。

 せめて夢の中でくらい、うっとうしい考えから逃れたかった。




             ‡             ‡




「……寝てる」

「……寝てますね」


 私たちが起き出したころ、珍しいことにウルウがまだ目を覚ましていませんでした。

 いつもなら誰よりも早く起き出しているというのに。

 私たちはなんだか物珍しくってついついウルウの寝顔を覗き込んでしまいました。


 三つ編みに編んでいた髪は緩く波打っていて、そこに沈み込む寝顔は、いつも頭巾に隠れているから分かりませんでしたけれど、驚くほど白くて艶やかです。

 起きている時は不機嫌そうか、それともぼんやりとしているか、どちらにせよ余り表情を作らない顔はいま、なんだかとても幸せそうにうっすらと微笑んでいるようでした。


「こうしてると……ね?」

「そうです、ねえ」


 私たちは顔を見合わせてそっと笑いました。

 貴族の娘の私が言うことでも、その侍女のトルンペートが言うことでもないのかもしれませんけれど。


 こうしていると、まるでお姫様みたいでした。

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