第八話 妛原閠の神前談話・下

前回のあらすじ


 呼 吸   を  。








 声に、私は我を取り戻す。

 勢い良く息を吸い込もうとして、或いは吐き出そうとして、そのどちらとも取れず混乱したまま何度か咳き込んで、私はようやく正しい呼吸を取り戻した。


「思い出したかしら」

「……ッ、は、あッ……はー……くー……ふー……死ぬ間際は、ね」

「あの後あなたは実際に死にましたわ。不健康な食生活と短い睡眠時間、ホルモンバランスの乱れその他諸々からくる……まあ、ざっくり言えば心臓発作が死因ということになるのかしら」

「まだ若いと思ってたんだけど」

「あら、死は老いも若きも等しく襲いますわ。あなたの場合不摂生が原因だけれど」

「社会に殺されたってことにしよう」

「生かされてもいたでしょうに」

「生かさず殺さずに失敗したなら、やっぱり殺されたんだよ」


 どうやら私は異世界転移ではなく、異世界転生組だったようだ。一回死んでるんだな。そりゃすっきりしてるわ。


「それで」

「それで?」

「死んでる間に、テンプレな異世界転生会話でもあったってわけかな」

「そうですわね。一応許可は取ったわ」

「許可」

「未練がないなら使わせてもらってもいいかしらって」

「よくそれで私はオーケー出したね」

「そしたら『たすけて』っていうものだから」

「それ多分許可出したんじゃなくて苦しんでただけでは」

「結果は同じですわ」


 まあ、神様相手に拒否などできまいよ。

 こうしてただ微笑んで佇んでいる姿を前にするだけで、正直吐き気が止まらないレベルの圧迫感を感じているからね。吐いたら殺されるかもって思うから吐かないだけで、すでに喉の奥がすっぱい。


 はー。しかし、まあ、本当に、そんな軽いノリで私は生まれ変わらされたようだな。


「まあ、未練がないのは確かだから、いいはいいんだけれど」

「いいんですのね」

「まあ、うん、そうかな」


 退職届も出してないし引継ぎも終えてないけど、今となってしまうと、なんだかもう、知ったことかと言いたいくらいだ。私が苦しかった時に助けてくれなかった連中がどうなろうと知ったことじゃない。なんてすっきり思えるかというとそうでもないのだけれど、正直しこりみたいなものもあるのだけれど、それでも。


「死んじゃった、んだもんなあ」


 幽霊みたいなものだ、なんて粋がってはいたけれど、本当に死んでしまったのだとなると、なんだか何もかもどうでもいい、とまではいかないけれど、考えるのが馬鹿らしいという位には思う。


 他に未練なんて思い当たるところはない。

 母は私を生んですぐに亡くなってしまったし、父も少し前に亡くなってしまった。父は他に身寄りもなかったし、母方の祖父母はまだ存命だけれど、そちらとも縁は切ってしまっている。


 しいて言うならば《エンズビル・オンライン》でちょくちょく絡みのあった《選りすぐりの浪漫狂ニューロマンサー》のメンバーに一言残しておきたかったけれど、まああのギルドも最近ログイン率が低下していたから、そこまで未練もない。


 ない、んだけれど。


「本当に私、なんにもなかったんだなあ」


 私という仮定された有機交流電燈の一つの青い照明は、結局のところ、あらゆる透明な幽霊たちと因果交流を結ぶこともなく、或いは結んだとしても表に出ないまま、ひかりが遺ることもなくその電燈自体も失われてしまって、今こうしてこんなところにあるのだなあ。


 涙が出るような悲しさがあったわけではない。心が張り裂けそうな辛さがあったわけでもない。

 ただどうしようもなくやるせないものがあって、それはつかみどころのない靄のように私の胸の中で漂っていて、温度のないそれを私は扱いかねていた。

 或いはそれをこそ未練とでも呼ぶのかもしれなかったけれど、いまやそれはどうすることもできないのだった。


「わたし、は」

「ええ」

「私は、必要とされてこの世界に来たの?」

「あなたは何と答えてほしいのかしら」


 神様の微笑みはどこまでも優しい。私が求めるのならばきっと、プルプラはどんな言葉でも与えてくれることだろう。

 だって、きっとこの神様にとって、私の存在などどうでもいいことなのだろうから。


「神様ってのは残酷だね」

「こんなにも優しくして差し上げてますのに」

「だからだよ」


 でも私にとってはその平坦さと冷淡さこそ心地よい。

 神ならぬこの身にはわからない理由が、きっとあるのだろう。それはこの世界にイベントを引き起こす一石なのかもしれないし、どうでもいい番外編のモブキャラクターとしての抜擢なのかもしれないし、或いは本当に意味なんてないただの気まぐれなのかもしれない。

 けれど神々のお遊びにしか過ぎないという、そのどこまでもどうでもいいという突き放した距離感こそが、好きに生きていいのだという免罪符のように思えてならなかった。


 好きに生きていい。それはどこまでも恐ろしい透明な嵐の中へ放り出されることでもあり、かつての私が何よりも怖れた籠の外の世界に他ならない。

 或いはこの神は、それに怯えておっかなびっくり歩む私を見て愉しんでいるのかもしれない。

 しかし今の私には幸いにも、かつての私にはないものがある。


「本人に言う気はないけれど」

「あら、なにかしら?」

「リリオに会わせてくれたことを感謝しています。それが神の思し召しならね」

「それが神々のはかりごとの一環だとしても?」

「あなたに悪意があるとしても、そうと知るまでは私にとって天祐だ」

「あなたは今を生きるのね。未来には興味がないのかしら」

「私にあるのは過去と今だけ。未来はリリオに任せるよ」

「随分と重きを他人に預けるのね」

「死者に未来はない。幽霊は幽霊らしく、生者の後をふらつくのがちょうどいいもの」


 果たしてその答えに神が満足したかどうかは定かではない。

 けれどプルプラはその平坦な笑みを最後まで変えることはなかった。


「あなたたちの紡ぐ物語に幸多からんことを」


 その言葉を最後に、恐らく、がずれた。

 あの謎多き神の姿は消え、代わりに訪れたのは礼拝堂を行き来する人々のさわめきだ。


 何度か瞬きを繰り返し、周囲を見回してみれば、あれだけ人気のなかった礼拝堂はいつの間にか多くの人たちが出入りしている。

 いや、プルプラの言葉通りならば、むしろ最初からこうであって、私だけが少しずれたところにいたのだろう。それが正常に戻っただけの話なのだ。


「…………私、神様と話しちゃったんだな」


 見てもいないもの、なんて風呂の神官との会話で言ったけれど、見たからには、信じる信じないどころの騒ぎではない。とはいえ、誰に言ったところでこんな経験信じてもらえないだろうけれど。


 プルプラの神殿を出て空を仰いでみた。

 随分長いこと話していたように思うけれどしかし日の傾きからして、ほんの数分も経っていないようにも思える。

 相変わらず布教に熱心な神官たちと、それをあしらう信者たちの声で神殿街は賑やかなものだし、人々はみな生気に満ち溢れて誰も死んだ目で歩いたりはしない。


 そして私も多分、もう死んだ目などしていないのではないかと思う。

 相変わらず未来なんてものは見えないし、生きている意味も分かりはしない。

 けれど少なくとも、私は神様からお墨付きをもらったのだ。神々からすればお前の人生に意味なんてないのだと。この世界は何でも受け入れるし、なんでも突き放す。それはとてもとても残酷で、優しいことだ。


 私は大きく息を吸い、大きく息を吐き、また大きく息を吸い、また大きく息を吐き、それからもう一度大きく息を吸い、もう一度大きく息を吐いた。


 大丈夫。私は今日も呼吸をしてる。

 この世界の片隅で、ちっぽけな塵芥に過ぎないかもしれないけど、でも、確かに生きて、息してる。

 胸を張って誇れるようなものは、何一つ持ち合わせていないかもしれない。


 けれど。

 それでも。

 だけれども。


 私は今日も、生きている。










用語解説


・私は今日も、生きている。

 死者と嘯きながらも、その心臓は確かに動いている。


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