第2話 亡霊と隠れ蓑
前回のあらすじ
26歳事務職の妛原閠は、ゲーム内のキャラクターの体で見知らぬ場所に目覚めた。
そしてついうっかり出会い頭の罪もない野生動物をキリステし、このファンタジー世界の無常を噛み締めるのだった。
少しかじった程度の知識なのだけれど、神道には
今まで私はこの穢れという概念をそういった文献上の言葉としてしか認識していなかったのだけれども、今回間近で死に立てほやほやの死体を目にするにあたって、穢れというものを体感した。
恐ろしいとか、自分のしでかしたことに対する不安とか、そういったものよりも先に、暖かさを失っていく物言わぬ
ただそれだけだった。
直前まで生きていたものだった。もし彼或いは彼女が友好的で、のんびりと鼻先を出してきたりなどしたら、私はもしかしたらおっかなびっくり撫でてやって、そしてその暖かさや、硬くてちくちくする毛の感触にいちいち驚いたり笑ったりしていたかもしれない。洗っていない獣のにおいに顔をしかめたり、べろんちょと舐められて汚いなあと手を拭ったかもしれない。
しかしそういった出会いは得られなかった。
彼
容易く首をはねられ、こうして横たわる
虫もたかっていない、腐ってもいない、しかしどうしようもない気持ち悪さがそこにあった。
当然、そんな惨状を作り上げた右手は、どうしようもなく汚れていると感じられた。
あまりに素早い切断だったし、すぐに血を払ったから、一見汚れているようには見えない。しかし手袋越しにも血と脂のぬめりが感じられ、手袋越しだというのに得体の知れない何かがしみ込んでくるような気さえして、吐き気を覚えた。
だくだくと流れ落ち、地に染み込み、そして大気に流れていく血の匂いが、拍車をかけた。
私は吐き気をこらえて駆けだした。川の匂いがしたのは確かなのだ。川の匂いなど嗅いだことはないけれど、しかしもはや自分の感覚を疑う気にはなれない。薄暗い森の中を真昼のように見通し、苔や下生えで不安定な足元をものともせずに足音もさせず駆け抜ける身体能力。それを自然に扱える自分に、いったい何を疑えというのだ。
水の流れる音が聞こえてすぐに、木々が開けて澄んだせせらぎに出た。
私はもういてもたってもいられず、すぐに川辺にかがみこみ、ひやりと冷たい川水で丹念に手を洗った。革と思しき手袋はまるで水を通さず、そのくせひどく薄くて私に流れる水の感触のいちいちまで伝えてくれた。これも見た目通りの品と思うよりも、まったくのファンタジーな品だと思った方がよさそうだ。
「ファンタジー、ね」
ありがちな異世界転生ものだとか異世界転移ものだと、物語の冒頭はもう少し運命的なものだと思うのだけれど、ずいぶんと血なまぐさく陰湿な始まりになってしまったものだ。
異世界転生もので文化や価値観の相違に悩まされるのはよくある展開だが、それよりも以前にこんな洗礼を受ける羽目になるとは。
手を洗い、水気を払って、拭くものもないので仕方なくコートの裾で拭い、私は川辺の大き目な石を選んで腰を下ろした。少し休んで頭を冷やさなければ、そう強く意識して体を休めようとすると、奇妙なことが起こった。
うつむいて視線を下ろした先には、私の膝がある。何故だかその膝を透かして、椅子代わりに座っている石が見えるのだ。目の錯覚かと思って何度か目をまたたかせ、ごしごしとこすっても見たが、それでも変わらず半透明に透けてしまった足を通して向こう側が見える。どころかこすった腕自体も半透明で、見れば全身半透明に透けて向こうが見えるのだ。
まさかショックのあまりいつの間にか死んで幽霊にでもなったのだろうか。まあ生きてる時も幽霊みたいないてもいなくても変わらないような人生は送ってきたけれど、そういうことでもないだろう。
少なくとも座っている感触はあるし、相変わらず風の匂いや川のせせらぎも感じられる。ただ透けているだけなのだ。そのただ透けているのが問題なのだけれど。
どういうことなのかと立ち上がってみると、不思議と今度は透けない。太陽に掌をかざしてみれば、ちゃんと掌の形に影が落ちてくる。うろうろと歩き回ってみるけれどやはり変調はない。
「疲れてるのかな……いや体は全然疲れていないっていうかむしろ肩凝りもないし眼精疲労もなければ眠気もないし過去数年ここまで健康だったことない気がするけど」
しかし精神的には随分疲れた気がする。上司の朝令暮改や全く理解していない奴特有の中身のない無意味な指示とかも疲れるが、こうもわけのわからないことが続く疲れは久しぶりだ。
再び腰を下ろしてため息を吐いてしばらくすると、またもや半透明になる。半透明になるが別にそれで変調があるわけでもないし、害がないならそれいいのかなという気もしてきた。ここまで出鱈目なことが続けて起きているのだし、これもファンタジーと思えばいい。ファンタジーに理屈を求めても……いやまて。
そういえばこのファンタジーには理屈があるのだった。
正確に言うと今の私の体のもとになっているだろうゲームには理屈があった。
それに当てはめてみると、もしかしたらこれは無意識のうちに何かしらの《
ゲームの中では、いわゆる魔法などと同じように、《
私は今自分が使っているものが、《
これは使用すると一定時間ごとに《
《
《
例えば、《
この《
さらに上位のステルス
しばらくは危険の回避のためにも、《
それになにより
もともと戦闘したりなんだりが苦手な私が、なんだかんだで長くこのゲームを続けられたのは《
ともあれ、だ。
身体能力だけでなく《
せっかく肩凝りも眼精疲労も腰痛も寝不足もレクサプロもない人生に生まれ変われたのだ。ただ生きていることを続けていただけの生活に未練はない。死んでいるのと変わりのない、幽霊みたいな生活だったのだ。だったら、開き直ってもいいじゃないか。悲観的で厭世的で無意味で無価値な人生を送ってきたのだ。楽観的で楽天的で無責任で無関係な人生を謳歌したっていいじゃないか。明日も生きていくことに失望しかなくてゲームに逃げ込んだ生活を送るより、明日がどうなるかわからないけど少なくとも逃げ込めた先のゲームもどきファンタジーで自由気ままにロハスロハススタイルで生きた方がいいに決まっている。
私は決めた。
いま決めた。
誰にも見えない幽霊として生きていこう。
幽霊だから、死んでいこうかな?
朝はぐーぐー遅くまで寝て、気が向いたら起き出そう。
昼はのんびり気が済むまであちこちうろつきまわろう。
夜は誰もが寝静まった町中を、一人気持ちよく歩こう。
満員の通勤電車も人間関係だってないんだ。
会社も仕事も何にも考えなくっていいんだ。
死んだり病気になったりはするかもだけど。
ああ、決めた。
私は決めたぞ。
幽霊は幽霊らしく、生きている人間を草葉の陰から覗いて羨んで笑って弄って、そうしてのんびり暮らすのだ。
用語解説
・
ゲーム内ステータスの一つ。その他のステータスも含め以下にまとめる。
HP(ヒットポイント):キャラクターの体力を数字で表す。攻撃を受けたりした場合減り、ゼロになると死亡する。時間経過で徐々に回復する。
SP(スキルポイント):《技能(スキル)》を使う際に消費される。足りない場合発動できない。時間経過で徐々に回復する。
STR(ストレングス):力強さ。物理攻撃で与えるダメージに影響する。またアイテムの所持可能重量にもかかわる。
VIT(バイタリティ):生命力、体力。防御力や身体系バッドステータスへの抵抗に影響する。
DEX(デクステリティ):器用さ。命中率、クリティカルヒット率、回避率など確率のかかわる行動に対して影響する。
AGI(アジリティー):敏捷さ。回避率や命中率、また攻撃速度や移動速度などに影響する。
INT(インテリジェンス):かしこさ、知性。魔法の効果や精神系バッドステータスへの抵抗などに影響する。
LUC(ラック):幸運。運の良さ。確率のかかわる行動に影響する他、アイテムのドロップ率などが向上する。
・《技能(スキル)》
SPを消費して使用する特殊な行動。魔法や威力の高い攻撃などの他に、《
・《職業(ジョブ)》
キャラクターを育てていく上でどのようなスタイルにするかを決定する要素。《
妛原閠はゲーム開始時点の真っ白な状態である《初心者(ノービス)》から、素早さが高く《窃盗(スティール)》などの《
・《隠身(ハイディング)》
《
レベルを上げていくことでSPの消費量は減るが、あまり使える《
『死体のように息を潜めろ。本当の死体になる前に』
・《隠蓑(クローキング)》
《
『アレドの殺し屋は孤独なものだ。仕事の時も休みの時も、死んだ時さえ誰にも見つからないのだから』
・レクサプロ
選択的セロトニン再取り込み阻害薬。一日一回夕食後に服用。副作用に口渇感、吐き気、眠気などがある。慣れるまでは胃薬を一緒に処方されることが多い。
・ロハスロハススタイル
LOHAS(lifestyles of health and sustainability)、つまり健康で持続可能であることを重視する生活スタイル。閠の場合「健康と環境を志向するライフスタイル」と日本的に認識しており、スローライフ、健康、癒しなどを念頭に置いていると思われる。
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