第三章 3
その後どこをどう歩いたのか、珠代は全く憶えていなかった。ふと気が付いてみると見覚えのある場所に立ち尽くしていた。
なぜ勤め先であるラブマジシャンではなく、ここに来てしまったのだろう?
そんな事を考えていると後ろから声を掛けられた。
「鈴村さん?」
懐かしささえ感じるその声に珠代はゆっくり振り返った。
「やっぱり鈴村さんだ、……あっ、ど、どうしたんですか?」
鉾本の優しい声。何を言えばいいのか、わからなかった。
「なぜ泣いていらっしゃるんですか? どうして、ここに?」
そんなことを聞かれてもわからなかった。むしろ今それを珠代は考えていたのだ。なぜ呆然と無意識に歩いていた自分が鉾本の会社の前に辿り着いてしまったのか。
しかしじっと彼の顔を見つめているうちにそれがなぜかわかった。抱えきれないショックを受けた今、一番会いたかったのが鉾本だったからだ。
ざしゅっ!
ラブデュエルのポイント音。
その音と共に珠代は鉾本の胸に飛び込んだ。それが答えだった。
「あ、あれっ、鈴村さん、大丈夫?」
珠代は何も言わなかった。無言で泣き続ける彼女をやがて鉾本は優しく抱き締めた。
一時間後。
会社から少し離れた喫茶店。そこで珠代は鉾本を待っていた。
先程はあまりに取り乱してしまった。思い出しただけで恥ずかしい。そもそも、あそこは以前ターゲットだった鉾本の会社の前だ。そこで人目も気にせず抱きついてしまうなんて……。
はあ、完全にプロ失格だな。
そんな反省をしていると入り口の鐘がカランと鳴った。鞄を持った鉾本が奥の席に座っていた珠代に気付き軽く手を上げた。
「お待たせしてすいません」
席に着くなり鉾本がそう頭を下げた。もちろん彼に非など全くないというのに。相変わらずだ。
「いえ、私の方こそ仕事の途中に押し掛けてしまって。どうかしていたんです、ごめんなさい」
珠代はそう返した。しかしその後の言葉が見つからなかった。鉾本もどんなふうに事情を聞こうか迷っているようで二人で黙ってしまった。お互い無言でコーヒーを飲む時間が数分続いた。
「……私のせいなんじゃないかと気にしていたんです」
突然鉾本がそう言った。
「えっ、何がですか?」
「鈴本さん、急に会社を辞められましたよね? 私に相談したいことがあるって二人でお店に行った次の日だったじゃないですか。ひょっとしたらあなたを傷付けるようなことを言ってしまったんじゃないかって気になっていたんです」
「い、いえ、違うんです。全然あなたのせいなんかじゃないんです。本当に個人的なことで……」
「本当に? それならいいんですが。みんな寂しがっていたんですよ。鈴村さんが突然来なくなっちゃって」
また「みんな」か……。珠代はちょっと寂しい気持ちになった。
その表情を見て何を思ったのか、鉾本が恐る恐るといった感じで核心について聞いてきた。
「……あの、失礼ですけど、どうして泣いていたんですか?」
珠代の心に迷いが生じた。今日の出来事を話すということは自分の本当の仕事のことを話さなくてはならないということだ。それは職を辞さなければならないほど重大な違反だった。
……いや、違うな。
違反になるということをいま珠代は理由にしようとした。しかしそれは自分の心への言い訳だ。本当の理由はわかっている。
彼に嫌われたくないんだ……。
目の前にいる冴えない中年親父に自分は嫌われたくないと思っている。珠代はそれをはっきり意識した。
じゃあなぜ私は彼に会いに来たの?
今度はそんな疑問が浮かび上がってきた。そして気付いた。
……嫌われてもいいから会いたかったんだ。
それが「好き」という気持ちなのだと珠代は思った。相手からの見返りを求めるのではなく、その姿を見てただ「ドキドキ」出来るだけでいい。まるで初恋をした少女のようだが素直な気持ちだった。
彼には真実を話したい。
真っ直ぐな彼に対してはそうしなければならない、そんな気がした。
珠代は覚悟を決めた。
「……私、鉾本さんに謝らなくちゃいけないんです」
「えっ、何ですか?」
「実は私、ただの派遣社員じゃないんです」
「と、いうと?」
「私は本当はラブマジシャンという調査会社の社員なんです。派遣社員というのは仮の姿で本当は恋愛トラブル処理専門のプロラブデュエルプレイヤーなんです」
「調査会社!? 確かにそういう会社があるという話は聞いたことがありますけど……」
「はい。私が鉾本さんの会社に潜入したのは他ならぬあなたの奥さんを手に入れたいという男性の依頼があったからなんです」
「私の妻を!? そうか、だから私に接触を……」
「ええ。でもその男性は依頼を取り下げました。それで私の任務も終わったんです」
「そうだったのか。……でも、そんな仕事上の秘密を私に話してしまって大丈夫なんですか?」
自分が騙されていたというのにこちらの心配をしてくれる。鉾本らしかった。
「もちろんまずいですけど……、このことを話さないと私がなぜ泣いていたか話せないから……」
「それならあなたは本当のことなど隠しても良かったんだ。君が何も言わなくても元気付けることぐらい出来たんだから」
「……だって鉾本さんが優しいから」
「えっ?」
「鉾本さん、優しすぎるでしょ? 泣いていた本当の理由を話さなかったら私みたいな人間のことでもずっと心配しちゃうんじゃないかって」
「そうか、私が余計な詮索をしてしまったせいでかえってあなたを傷付けてしまったのかな?」
「違います。鉾本さん、謝らないでください。悪いのはいつだって私の方なんです」
「そんなことはないよ。鈍い私にだって責任はあるしね」
そう言って真っ直ぐにこちらを見つめる彼を見て珠代は全てを隠さず話すことを決心した。
それを彼に話したところでどうなるものでもないことはわかっていたが話せずにはいられなかった。
「……私、今日、新しい任務の相手に泣かされてきたんです」
「えっ、あー、そうだったんですか。それはつまりラブデュエルで負けて?」
「ただの負けならいちいち気にはしません。仮にも私はプロなんですから。現に鉾本さんからも何度か負けましたけど一度も泣いたりしませんでした」
「あっ、いや、その、すいません」
「謝らなくていいんですって。鉾本さんから取られたポイントは自分でも納得出来る負けだったから悔しくてもどこか清々しかった。でも、今回のは悔しいとかじゃなくて、不気味で信じられないような負けだったんです」
「不気味?」
「ええ。自分の心とは無関係にポイントを取られて……、いえ、そんなことがありえないということはわかっているんですけどね。ラブデュエルの測定システムは絶対と言っていい精度を誇っている。それは世界中で認められていることですもの」
「前も言いましたけど私は信じていませんよ。ラブデュエルなんて」
「でも、そんな鉾本さんだって実際には使っているじゃないですか。結局みんなが使っているものは自分も使わないと信頼してもらえないからでしょ?」
「……私がラブデュエルを使っているのは『責任』のためなんです」
「責任?」
「あっ、いえ、これは個人的な話で……。それにしてもプロであるあなたが不気味とまでいう相手って、いったいどんな方なんですか? 興味本位でこんなことを聞いて良いのかわからないけど」
「例えるなら狐みたいな奴です。人を馬鹿にしたようにニヤニヤ笑う、ホント嫌な奴で……」
それを聞いた鉾本の表情が僅かに変わったことに珠代は気付いた。
「あの、どうなされたんですか?」
「……彼の名前は? まさか、『片岡』なんて名前では?」
「ええっ! そ、そうです! でもなぜ鉾本さんが彼の名前を?」
珠代がそう言った瞬間、鉾本は驚きに溢れた表情で勢い良く立ち上がった。机がバンと大きな音を立てた。何事かと周りの客からの視線が集まった。
「まさか、あいつの……」
目の前に珠代がいるというのに彼は心ここにあらずといった感じでぶつぶつと何かを呟いていた。
「鉾本さん、どうしたんですか? 片岡って名前に聞き覚えが?」
「あっ、す、すいません。でも、ひょっとしたらあなたが言っている男は私の知っている男と関係があるのかもしれない。もしそうだとすると……」
座り直した鉾本は下を向いて何かを考え始めたようだった。声が掛けられないほど真剣な顔だった。やがて彼はある答えを出したようでゆっくり顔を上げ珠代と眼を合わせた。
「珠代さん、うちに来てもらえませんか?」
あまりに急な誘いだった。
「えっ! あ、あの、でも……」
珠代はあまりの驚きに言葉を失った。彼の家にはあの富美がいるのだ。とても彼女と顔を合わせる気にはなれなかった。
「ちょっと調べたいことがあるんです。あなたに足を運んで頂かないといけない」
珠代は考えた。
確かに自分は昔からの因縁のせいで富美に良い感情を持っていない。出来れば会わないで人生を終えたい相手だった。
しかしこれはいい機会だという気もした。彼女のせいで自分は絶望したが同時に人生を変える切っ掛けも与えてもらった。
富美が鉾本の妻だとわかった時、正直自分はムキになっていた。それは彼女とのことを乗り越えていない証拠だ。これは神様がくれたチャンスなのだろう。
「わかりました。お邪魔します」
富美か。いったいどんな女性なんだろう?
珠代は覚悟を決めた。
そこは大きなマンションだった。大きいだけではない。行ったばかりの明日香の高級マンションが控えめに感じるほどの豪華マンションだった。思わず珠代の口はあんぐり開いてしまった。
「あ、あの、ここが鉾本さんのお住まいなんですか?」
「ええ、まあね」
鞄を持ったスーツ姿の鉾本は慣れた様子で建物の中に入っていった。正直、場違いで滑稽な姿だった。そこはとても普通のサラリーマンが住むような物件には見えないのだ。エレベーターに乗り込んだ彼は最上階のボタンを押した。それを見ながら珠代は彼に聞いた。
「あ、あの、鉾本さん」
「何ですか?」
「失礼ですけど鉾本さんって実はお金持ちの家の出なんですか?」
「お金持ち? ああ、こんな所に住んでいるからですか?」
「ええ、ごめんなさい。変な詮索をしてしまって」
「確かに今の会社の安月給からはここに住んでいるとは想像できませんよね? まあ、それも含めてお話したいことがあるんです」
そう言った鉾本はそれ以上その場では語ろうとはしなかった。珠代も無理には聞かず彼が口を開くのを待つことにした。エレベーターのドアが開く。鉾本が案内したのは一番奥の角部屋だった。
彼はドアに手を掛けること無くカバンから鍵を取り出し、それを開けた。中に誰も居ないことがわかっている行動だ。それを見た珠代はふと疑問に思った。
「あっ、奥様は? 今日はお留守なんですか?」
「まあ、その話は中でゆっくりしましょう。何もお構いはできませんが、さあ、どうぞ」
そう促され珠代は部屋へと足を踏み入れた。中は綺麗に片付いていた。明日香の部屋のようにブランド家具が並んでいるわけではないが、品の良いすっきりした部屋だ。鉾本の性格が現れているようでとても居心地が良い感じだった。座り心地の良いソファ。出された香りの良い紅茶を飲んでいると鉾本が口を開いた。
「……実はね、逃げられたんですよ、富美には」
ええっ! 珠代は思わず紅茶を吹き出しそうになった。
「そ、そんな……」
「この前、偉そうに彼女の帰る場所は自分の所しかないとか言いましたけど、三日前に見事に逃げられてしまったんですよ。今までとは違い今回の相手とは本気になってしまったようでね。相手は今度海外で仕事をすることになった将来有望な商社マンらしいです。一方的に離婚届を渡されましてね。昨日、出してきたばかりなんです」
「ご、ごめんなさい。そんな大変なことになっていたなんて知らなくて……」
「気にしないで下さい。私が悪いんです。愛しているならもっと束縛してやれば良かったのかもしれない。彼女からしたら構ってくれなくて寂しかったってことでしょう」
鉾本はどこまでも優しかった。そんな彼から富美は去って行ったのだ。またしても彼女に逃げられた、そんな思いを珠代は抱いた。
やはり私と彼女は会えそうで会えない、そんな運命なのだろう。
「そんなことより本題に入りましょう。あなたのラブデュエルはスマホにインストールされているんですよね? ちょっとそれを貸して頂きたいんですが」
「ラブデュエルを? 何をする気なんですか?」
「気になることがあってね。それを確認させて欲しいんです。隣の部屋に行きましょうか?」
鉾本が立ち上がり奥の部屋のドアを開けた。中を覗いた珠代は驚いた。パソコンや見たことのない機器が所狭しと部屋に並んでいたからだ。
「じゃあ、ちょっとそれを貸してもらえますか?」
そう言われた珠代は恐る恐るスマホを差し出した。すると彼はその辺から取り出したケーブルをそれに繋ぎ、さらにパソコンに接続した。椅子に座った彼は電源を入れ、なにやら作業をし始めた。するとパソコンのモニターに数字やらアルファベットがびっしり表示され始めた。何かのプログラムらしい。鉾本はそれを真剣にじっと見つめていたが、珠代にはどこが何を表しているものなのか検討も付かなかった。
「あの、鉾本さん、これって……」
「少し待ってください。もう少し……、ん、ああ、ここだ!」
鉾本は急にキーボードを叩き始めた。一緒に仕事していた時には見たことがない驚くべき速さだった。唖然としながら珠代が見守っていると、その動きが急に止まり、鉾本は唸り声を上げた。
「うーん、やはり、そうか。まさかとは思ったが……」
「どういうことですか? 鉾本さん、いったい何を?」
「順番にお話ししましょう。話が長くなりそうだから向こうの部屋に戻りましょうか?」
不安を覚えながらも珠代は頷いた。ソファに戻り腰を下ろすと彼はゆっくり話し始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます