第一章 3
「あら、興味出てきた? 頼む気になったのなら安くするように会社に言ってあげるわ。あなたとは何かの縁があるみたいだし」
トントン拍子に話は進み、珠代は彼氏の奪還を依頼することになった。担当はもちろん早希がしてくれた。実戦の男性工作員には腕利きの人間を格安で用意してくれるという。打ち合わせを何度か重ね数週間の時間が経った頃、最初に話したファミレスに呼び出された珠代は早希と会った。
「結論から言うわね。悪いけど諦めたほうがいいと思う」
「ど、どうしてですか! 彼、そんなに富美とかいう女に惚れて……」
「全く逆のことよ。あなたの元彼と椎富美はもう別れちゃったの。付き合っていないのよ」
「……へ?」
驚きのあまり珠代は妙に気の抜けた返事をしてしまった。
「確かに彼はあなたと別れた後に椎富美という女と付き合っていた。でも一ヶ月も保たないで別れちゃっているのよ。彼はもう別の女と付き合っちゃっているの」
珠代の口がぽかんと開いた。彼と歩んできたあの時間は何だったの?
「正直に言うわね。あなた、男見る目ゼロよ。彼はあなたに謝って依を戻すとか考えもしない男ってこと。こういう男は何年一緒にいても無駄よ。別れてもらえて逆に正解だったわ」
「……彼、初めて付き合った人なんです」
「やっぱりね。まっ、良い勉強したと思えば?」
「……はい」
「よしよし、良い子だね。それにしてもあの椎富美って女はとんでもない女だったわよ。あなたの元彼も見事にやられたみたいね」
「どういうことですか?」
「椎富美って女のこと調査してみたら悪い噂しか出てこないの。すごく派手で騒がしい感じの女なんだけどね。彼女、恋人がいる男にしか興味ないっていう困ったタイプなのよ。しかもそのくせ恐ろしく飽きっぽいわけ。彼女のせいで離婚に追いやられた男が少なくても三人、別れたカップル数知れず。素人のくせに私たちプロがドン引きするような実績の持ち主なのよ。まあ、かなりの美人で男好きのするナイスバディだからしょうがないかもしれないけど」
「じゃ、じゃあ、彼もそいつに騙されて……」
「うわあ、まだ未練たっぷりなの?」
「う、そ、そういうわけじゃ……」
「彼女は確かに褒められないけど、それをあっさり受け入れたのは間違いなく彼よ」
「……そうですよね」
そう言いながらも珠代は彼ではなく椎富美という女に対しての憎しみを覚えずにはいられなかった。その表情をじっと見ていた早希は急にとんでもないことを言い出した。
「ねえ、あなた、うちの会社に入ってみない?」
「えっ、会社? 今なんて言いました?」
「私みたいにラブデュエルで戦う女にならないかって言ったの」
「む、無理に決まってるじゃないですか! 私、早希さんみたいに美人じゃないし」
「馬鹿ねえ、あなた、自分じゃ気付いていないみたいだけど素材はいいのよ。後はうまく顔にお絵描きすれば私くらいの容姿には簡単になれるって」
珠代は改めて早希を見つめた。こんな美人に自分がなれるとは思えなかった。
「そ、それに私、ラブデュエルなんて超初心者なんです。出来るわけないです」
「その方がいいの。下手に自分で恋愛の達人とか思っている人はこの仕事に絶対向かない。自分の弱さを知っていて慎重に駆け引きできる人間じゃないとね。自信満々で入ってきた人間ほどミイラ取りがミイラになって自分から仕掛けた嘘の恋愛に溺れちゃうのよ。あなたはそういう意味で才能がある」
「だ、だって、そんな、急に言われても……。ど、どうして私なんか誘うんですか?」
「あなた、さっき、あの女を『憎い』って思っていたでしょ? あの時の顔、ぞくぞくするほど綺麗だったから」
「へ……、ふえっ!」
思わぬことを言われて珠代は変な声を出してしまった。
「その時、『ああ、こんな美しい顔どっかで見たな?』って思ってたら思い出したの。私、昔ね、結婚の約束をして同棲してた男がいたんだけどさ、その時やっていた仕事のせいで三日ほど家空けてて帰って来たら全部の家具、荷物が彼ごと消えちゃってたんだよね。見事に騙されたってわけ。情けなくて涙が止まんなくて洗面所で泣き続けて、ふと顔を上げてみたら目の前にすごい形相だけど、この世のものとは思えないほど綺麗な女がいてさ。まっ、鏡だったわけだけど。ハハハッ」
過去の辛い思い出さえ楽しそうに笑い飛ばす彼女の姿に珠代は惹かれた。
自信があったわけではなかったが早希と一緒の仕事がしてみたい、その時そんな気持ちになった。
早希の紹介で入社して最初は見た目を磨くところから始まった。痩せ過ぎだという判定を受けた珠代は健康的な見た目になるように食事の改善と運動を指示された。
さらに化粧が苦手だった彼女は同時に自然で明るいメイクの習得訓練を受けさせられた。数ヵ月後、鏡の向こうで会ったことがないような美人が微笑んでいた。
見た目が仕上がると次にラブデュエルの効果的な使い方を学ぶために心理学の勉強が待っていた。講師は早希だった。
「色仕掛けをする時は相手をよく観察してから行わなければ駄目よ。喜んで飛びついて来る男と逆に引いちゃう男と二種類いるから。またその時の環境も重要な要素なの。同じ会社のオフィスでそんなことされても困惑するだけでしょ? ま、そういう所の方が燃えるって人もいるから一概には言えないけど。アッハッハ」
眼から鱗をボロボロ落としながら早希は勉強に励んだ。この間彼女はラブデュエルマニュアルを常に持ち歩き、全てを頭に叩き込んだ。おかげでペーパーテストはトップの成績を取り、半年の研修が終わるといよいよ実戦に配属される時がやってきた。
初めての相手は気の弱そうな冴えないサラリーマンだった。会社側が最初の相手として選んでくれただけあってそれほど気難しい性格ではないようだった。この男の彼女は意外にもなかなかの美人らしく、彼女を手に入れたいという彼と同じ職場の同僚の男から依頼があったのだ。
珠代は彼がよく飲みに来るというバーで待ち構えた。彼が入ってきて座るのを確認すると自然に話しかけ巧みに話題を盛り上げながら相手との距離を縮めていった。内心どきどきしながらも基本に忠実に作戦を実行した。わずか十分後相手のラブデュエルが「タリラリラン」と鳴り出すと珠代は密かに心の中で「やった!」と叫んだ。
「い、いや、まいったな。君みたいな綺麗な娘と話したこと無いからさ」
「そんな……、お上手ですね。彼女とかいらっしゃらないんですか?」
知っているのにわざとそう聞いてみた。
「い、いませんよ」
素人でもわかりそうなほど裏返った声。内心「よし!」と思いながら珠代はさらに会話を続けていった。別の店に移ろうという話になり二人で外に出た。
「どこか良い店知ってます?」
甘えた声で聞いてみた。
「え、ああ、うん」
デレデレした男の顔。またもや「タリラリラン」と音がした。初めての仕事がうまくいき珠代は気分が良くなった。それが油断だった。
「さあ、入ろうか」
「うん……、って、えっ、ここって……」
いつのまにか珠代と男はとても飲む場所には見えない建物の前にいた。
「あっ、あの、いきなり? 私はそんなつもりじゃ……」
確かに偽装恋愛を仕掛ける以上いつかはそういう話が出てくるものだ。その時は上手くあしらえば良いだけの話だった。実際深い関係を結ばなくともそれまでに充分なラブデュエルデータを取れるのだから。未遂であっても浮気心を記録したラブデュエルのデータは現代の恋人たちにとって重い意味を持っていた。
しかしその時の展開はあまりに急で初仕事だった珠代には予想外なものだった。暗記しているマニュアルの言葉を片っ端から思い出しながら彼女は相手に不信がられないように抵抗を続けた。
「いいじゃないですか。君もそういうつもりで声を掛けてきたんでしょ?」
「やっ、あの、まだ私たち会ったばかりでしょ? そんなに焦らなくても、ねっ?」
いったい、このひ弱そうな体のどこにこんな力があるんだろう。そう思うくらい強引に腕を取ってくる男に珠代は次第に焦り始めた。押し問答ならぬ引き問答が続く。その間も男のラブデェルは連続で「タリラリ、タリラリ」鳴り続けていた。その音が珠代の神経を刺激していった。何度目の「タリラリ」だったか、ついにそれはプチンと音を立てた。
「ねっ、また、今度に……、って、もう、しつこいなあああ!」
マニュアルの第三章「ラブトラブルからの身の守り方」に掲載されていた護身術。実習で磨き上げたその技が男に炸裂した。空中をくるっと回った男の体は次の瞬間「ずしっ」という鈍い音と共に地面に横たわっていた。
あちゃー、やっちゃった。
絶対やってはいけないことを初めての仕事でやってしまった。これでもうお終いだ、そう珠代が覚悟した時、下から見上げる彼がにやっと笑いながら呟いた。
「つ、強いんだねえ。僕、強い人、好きなんだよぉ」
引き攣った笑顔で珠代は彼に笑い返した。
その後、何とか彼をあしらった珠代は任務を着実に進め、一ヶ月後、彼を彼女と別れさせるという初めての任務を無事完了させたのだった。
「……おーい、たま! また自分の世界へ行っちゃったのかぁ?」
「……えっ、ああ、蓮野先輩?」
「やっと気付いた? もう、あんた、すぐ回想シーンに入るんだから」
「ご、ごめんなさい。先輩に初めて会った時のこと思い出しちゃって……」
「ああ、あの時のことか。もう六年も前だね。でも、まあ、あんた、よく成長したよ。初めての仕事で男をぶん投げちゃった奴が、今や、この会社で一、二を争うプレイヤー、うちのエースだからね」
「そ、そんな、先輩に比べたらまだまだです」
「そんなことないよ。私は自分の目に狂いがなかったって誇らしいんだ」
「先輩……。おだてても何も出ませんよ?」
「ちぇっ、たまには飯でも奢ってもらおうと思ったのになあ。アハハ」
あの時と同じだと珠代は思った。蓮野に会うと自然と元気づけられてしまう。
「今回の仕事が終わったらパアッと遊びに行きましょう。その時は私が奢ります」
「楽しみにしているよ。ただ、その前に今回の相手はそんなに手強いのかい? 話してみなよ」
「ええ、実は……」
珠代は今手掛けている仕事のことを早希に話した。いつかのように彼女はニコニコしながらウンウンとその話を聞いていた。しかし話が進むにつれ、その表情は曇っていった。
「……うーん、なるほどねえ。その鉾本ってのが曲者なのか」
「はい。でも生まれ付きのプレイボーイなんて本当にいるんでしょうか?」
「DNAのいたずら、モテモテ遺伝子ってか? 私はそんな漫画みたいな話、信じられないけどね」
「でも全然冴えない外見なんですよ。それなのに私、三回もやられちゃって」
「……ひょっとしたらさ、そいつ、とんでもない策士かもね」
「策士?」
「あんたも聞いたことくらいあるでしょ? 私たちプロのプレイヤーの邪魔をするため、密かに暗躍している『対プロ専門プレイヤー』がいるって話」
「確かにその話なら小耳に挟んだことがあります。ラブデュエルに精通した私たちに対抗するため、高度な心理学に基づいた特殊訓練を受けた人間がいるって。彼らは特定の事務所には所属せず一部の限られたルートでのみ契約を結び私たちの活動を密かに妨害するっていう……。でも、そんなの都市伝説の一つかと思ってました」
「私もだよ。しかし心理学の特殊な訓練ねえ……。私たちだって結構研究しているのにそれをあっさり破るなんてそんなこと出来るのかな? もしそうなら相当の狸親父だよ、鉾本って」
「……ねこ対たぬき、ってわけですか?」
「猫」というのはこの業界で女性プロプレイヤーを表す隠語だった。つまり「泥棒猫」というわけだ。元々は他人の家の食べ物を盗む猫のことで、彼氏を奪われた女性がその相手の女性に向かって軽蔑を込めて言う言葉であり、決して良い言葉ではない。しかしプロである彼女たちは自分たちがしていることへの戒めと誇りを持って自らを「猫」と呼んでいたのである。
「……なあ、相談なんだけどさ、あんた、今回の仕事、降りた方がいいんじゃない?」
「な、なぜですか! 『引き受けた仕事には責任を持て』って先輩が教えてくれたんですよ! この仕事だけは私、最後までやりたいんです!」
「あのさ、これは私の単なる推測だけどね」
「な、何ですか?」
「あんた、今回の仕事に私情を挟みまくってない?」
今日、何度目かの図星だった。
「ない……、です……」
「相変わらず私に対しては嘘が下手ねえ。普段どうやってあれだけの好成績残しているのか、不思議だよ。あんたの方がよっぽど都市伝説だ。ハハハッ」
「……参りました。正直に言いますね。鉾本由男の妻の名前、つまり依頼人が別れさせたい女性の名前は鉾本富美って言うんですよ」
「何だって? 富美って、まさか、あの?」
「旧姓、椎富美です」
早希は「ええっ!」と声を出した。珠代自身、それを知った時は心臓が止まるかと思うほど驚いたのだから無理もない。
「なるほど、そういうことか。でも、彼女、まさか結婚していたなんてね。それも結構な年上のおじさんなんだろう? 意外だなあ。私の経験からするとああいう女はこんなに早く落ち着くようなタイプじゃないんだけど。鉾本って、ほんと何者なのかしら?」
「先輩、やっぱり問題でしょうか? 直接的でないにしろ、自分の昔の恋愛トラブルに関係した人間と繋がる仕事を請け負っているのは。自分でも正直言えば迷っているんです」
「そうか。……ねえ、あんた、まだあの時のこと完全に吹っ切れていないのかい?」
「吹っ切れたつもりでした。でも……」
「じゃあ、ちゃんとやりなさい。私は何も聞いてないってことにするから」
「先輩、あの……」
珠代が何かを言う前に早希はその口に人差し指を押し当てた。
「何も言うな。ただ充分に気を付けな。困ったら私でも会社の誰かでも良いからすぐに相談すること。無理して一人で戦うんじゃないよ。そのための仲間なんだからさ。……おっと、時間だった。そろそろ出なくちゃ。じゃあね」
そう言うと早希は珠代の肩をぽおんと叩き、元気に手を振りながら外に出て行った。
……ありがとうございます、先輩。
憧れの偉大な先輩を見送ると珠代は自分の机に荷物を置き、気持ちを入れ直して隣の部屋に入った。
「ボズ、失礼します」
珠代がそう声を掛けるとパソコンの画面に釘付けとなっていた男が顔を上げた。
「おっ、たまちゃん、お帰り。いつ見ても可愛いな」
昨日も会ったというのにそんな事を言う。それに対し珠代もいつものように返した。
「ボズもいつ見ても渋いですね。俳優みたいですよ」
珠代はずっと彼を「ボズ」と呼んでいたがそれは別に「ボス」の言い間違いではなかった。
この事務所の所長である彼は若い頃かなり有名な探偵だったらしい。同時に七人の女性と同棲していたとか、ある国のお姫様と駆け落ちしたことがあるとか、信じられない武勇伝の持ち主だった。
まさに生きる都市伝説と言った人間。
そんな彼の実家は何の因果か「お寺」であるらしく、「坊主」と「ボス」を掛けた「ボズ」というあだ名がいつの間にか定着したのだった。
「それで、たまちゃん、今日の戦績は?」
「……7ポイント、取られました」
「えっ、またかい? 君にしては珍しいね」
「すいません」
「いや、別に怒っているわけじゃない。そうか、そんなに鉾本とはすごい奴なのか」
「見た目は普通のおじさんです。でもなぜか不意をつかれるというか……」
「これで残り83ポイントか。まあ、まだ余裕はあるさ。三度もやられた割には減ってない方だからしっかり対策して明日からも頼むよ。君なら絶対大丈夫」
「はい、必ず落とします」
珠代は彼に深々と礼をし部屋を後にした。
自分の机に戻りパソコンを立ち上げ再度戦略を練り直した。納得のいく作戦を立て、家に帰った時はもう深夜だった。シャワーだけ浴びベッドに潜った。
コンチクショウ! 今に見てろよ、狸め!
自信という枕を抱いてようやく珠代は眠りについた。
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