ふわり、消えて

 六月十七日は雨だった。

 天気予報によると、夜までは雨が続くらしい。

 何度かのコール音のあと、繋がる音がした。

「あ、ふみちゃん?」

『んー…』

「おはよー、今日だけど」

『んん…』

「…寝てた?」

『ん…』

「今日のことなんだけどね」

『ぅん…』

「雨だから、どこか屋内に変えようと思うんだけど」

『んん…』

「…聞いてる?」

『んーだいじょうぶ…』

「どこか、行きたいところある?」

『んー…なぃ』

「私が決めちゃっていい?」

『あー…』

「ん?」

『うちくるー?』

「…え?」

『うちでやるー?』

「…あの」

『ひょうはられもいなひはら』

「…えーっと?」

『きょうはだれもいないから、ゆっくりできるよー』

「…そうなんだ」

『んー?』

「じゃあ…お邪魔しようかな」

『あいー』

「駅まで迎えに来てくれる?」

『うんー、じかんだけ、わかったら』

「うん、じゃあ電車に乗った時にまた連絡するね」

『おー』

 間延びした声のあと、通話が切れる音。

 思いもよらなかった展開に、急速に胸は高鳴っていく。




 三浜みはま一二三ひふみはベッドから起き上がると「しまった」と小さくつぶやいた。

 日曜日、時計は八時四十分を指しており、外からは雨音が聞こえてくる。

 一二三の「しまった」の原因は、この雨にある。

 先週水曜日の部活後、同じ短歌部の高橋たかはしたえに急に吟行をしないかと誘われた。

 吟行というものを一二三は知らなかったが、どうも外で散歩しながら詩歌を詠むことらしい。

 短歌を作りはじめて三週間ほど。最初は乗り気でなかったものの、意外と短歌づくりが面白くなってきた一二三は了承した。そして、次の日曜日に吟行を行う約束となった。

 だったのだが、当日になると外は雨。そこに、一二三の感覚でたぶん一時間ほど前に紗から連絡が来た。

 雨だから屋内でやりたいが、場所に心当たりがなくて困っている、という内容だったように一二三は記憶している。

 そこで、寝起きの一二三は場所として三浜家の自宅を提案した。してしまった。

 家族は出払っているからのびのびできるとか、寒いから遠出したくないとか、寝起きの一二三はそんな単純な思考しかできなかった。自身のうかつさに苦笑いが出る。

(紗が、家に来るのか)

 人を自宅に招くなんて、初めてかもしれない。

 何の準備もない。

 部屋はもちろん散らかっている。

 一二三の今の感情は、後悔半分、緊張四分の一、楽しみ四分の一といったところだろうか。

 誰かを家に招くにはあまりにも準備不足だった点が後悔。友が尋ねてくる点が楽しみ。

 残りの緊張はどこから来るものだろうか。

 そんなことを考えるよりも先にやらなければならないことがあった。一二三はとりあえず自室の整理整頓を始めた。




 改札から出てくる紗を、一二三はじっくりと観察した。

 白い無地のTシャツからは細くて長い腕が伸びているが、下は黒いマキシ丈のスカートで、長くてきれいな脚はほとんど隠れている。靴もシンプルな白黒のツートンカラーのスニーカー。麦わら帽子と手に持ったバスケットが、夏らしさを引き立たせていた。

 カジュアルなのにどこか上品な印象を受け、軽井沢の高原とかにいそうだなと一二三は思った。

 一二三に気付き「ふみちゃん」といって手をあげて近づいてくる紗。一二三も小さく手を振った。

「ふみちゃん、私服可愛いね」

 近づいてきた紗は、笑顔でそう言った。

 一二三の今の格好は、黒い七分丈の袖のTシャツに、デニムのパンツをふくらはぎくらいまで捲って穿いていた。とくに可愛い恰好だと思えなかったが、素直にありがとうとお礼を述べた。

 一二三がふと紗の持っているバスケットに目を向ける。「これはサンドイッチ」と紗が説明した。吟行中のお昼のお弁当にと、二人分の作ってきたものを持ってきたらしい。

「それは、ありがとうだけど、傘は?」

「駅までは車で送ってもらったから…」

 紗は傘を持っていなかった。

 駅舎の外は、当然まだ雨が降っている。強くはなかったが、一二三宅まで距離を考えると、傘無しでは大いに濡れてしまうことが、容易に想像された。

 傘は、一二三が駅に来るのに使った一本しか持っていなかった。

「まあ、大きいから大丈夫か」

「…相合傘?」

 うん、と一二三はうなづき、ふたりは駅舎を出る。

 ふたりで入るには小さい傘を開き、肩を寄せる。

(こうやって並ぶと、結構身長差あるよね)

 そんなことを一二三は考えながら、ふたりで歩き始めた。

 ちらと紗の顔を見ると、すこし上気しているようだった。これだけ近い距離だと、もしかして暑いのかもしれない一二三は考えていた。

 暑いかと紗に訊くと、紗はなぜか慌てたように否定した。

「むしろ寒い」と言っていたので、一二三は紗にさらにぴたりと寄り添った。一二三も寒かったので、ちょうどよいと思ったのだ。

 先ほどよりも大きく見える顔を覗き込むと、先ほどよりも上気しているように見えた。

「身長いくつだっけ」

「えっと168くらい」

 じゃあ10センチくらい違うねぇ、と、なんてことのない日常会話を続けた。

 雨は強くも弱くもならない。しとしとと降り続いている。

 家に近づくにつれて、一二三は自分がすこしづつ緊張しているのがわかった。

 一二三にはその理由はがわからず、不思議でならなかった。

「なんか緊張してきた」と一二三が言う。

「私も」と、紗が真顔で答えた。

 紗と同じ気持ちだったことが、なぜだか嬉しく感じられた。

 その理由もまた、一二三はわからなかった。





 三浜家のリビングで、一二三が紗にバスタオルと一緒に渡したルーズリーフには、こんな一首が詠まれていた。


『ふたりきりなのはいつもと同じだと言い聞かせながら掃除機かける』


「今日の吟行の一首目」と一二三は言い、紗は納得した。

 一二三の家にお邪魔することになりテンションが上がり忘れていたが、今日は変則的な吟行歌会だった。

 恋人を待ちながら部屋の掃除をする様子を詠んだ歌を、同じように紗を待ちながら一二三が詠んだのだろう。そう思うと、自分が一二三の恋人になれたかのようで嬉しかった。しかし同時に、もしかして一二三にもこんな風に想っている相手がいるのだろうかと、暗い思いも胸の中に存在した。

「お茶淹れる」と言って一二三は立ち上がって隣の部屋に行ってしまった。

 ひとりきりになった紗はふーと長めの溜息をついた。

 紗は昨日までせいぜい「休みの日に会うこと」「私服を見ること、見られること」「サンドイッチを食べてもらうこと」くらいの気持ちの準備しかしていなかった。

 それがいきなり一二三とぴたりとくっついて相合傘だったから、どきどきが聞こえていないかとか、汗で変なにおいになっていないかとか、髪からいい匂いがするとか、傘を持ってあげるとポイントアップにつながるだろうかとか、そんなことばかり考えて落ち着かなかった。

 一時的に一二三と離れたことで、少しだけ気持ちは落ち着き、ふみちゃんもお客さんが来たらお茶出すんだなと、よくわからない感動をしていた。

 紗も今日の一首目を詠むことにし、持参したバスケットからペンとルーズリーフを取り出した。


『この床と一緒に生きてきたのかと思えば床に嫉妬している』


 木目調のトレーに、紅茶と菓子盆を乗せて一二三が戻ってくる。ルーズリーフを渡すと、くつくつと笑った。

 トレーからテーブルに紅茶を移す一二三に「ありがとう」と声をかけ、「うん」とだけ返事をもらう。

 菓子盆には紗の好きなお菓子が乗っていたので、もしかして買ってきてくれたのだろうか、いやその話しをしたことはないはずだから偶然だろうかとか、いやでももしかしたら言ったことがあるかもしれないとか、菓子盆ひとつにも落ち着かない。

「今日は映画を見ようと思うんだけど」

 トレーをテーブルのわきに置いて、一二三が唐突に言った。

「映画?」

「うん、映画を見て、途中と最後で、感想のかわりに短歌を詠もうと思うんだけど…」

 一二三から提案されたことに、紗は少し驚いた。いつもは紗の提案を受け入れるだけだったので、能動的に一二三から提案してくれたことが新鮮だった。

 どうかな、といった感じで紗を覗き込む一二三に、笑っていいねと返す。

「ふみちゃん、今日は積極的だね」と紗は笑顔で言うと、一二三は一瞬キョトンとした顔をした後、得心した様子で「ああ」と漏らした。

「今日は私がホストだからね」

 そう言って、一二三は紗にスマートフォンを渡す。良く宣伝している動画サイトのページが開かれていた。

「見たいのある?」と聞かれ、ブラウザをスクロールしてサイトを眺める。

 ぼんやりと眺めていると、ふと一二三が言った。

「さっきのセリフ、ベッドの上みたいだったよね」

 さっきの自分のセリフが思い出され、ベッドの上の二人を想像してしまい、顔が赤くなるのが紗にはわかった。




 ふたりで選んだのは、外国の映画だった。

 明かりを消し、カーテンも閉め、毛布に入るのが三浜家ルールだと一二三に説明され、素直に従った。

 ふたりでソファーに並び、モニターから流れる映像を見つめた。

 鑑賞会は始まった。

 映画のあらすじは、以下のようなものだった。

 飛行機から空港に降り立った男性、祖国でクーデターが起き、パスポートが無効になる。帰ることも空港から出ることもできなくなってしまうというものだった。言葉の通じない空港で、仕事を見つけたり、友を見つけたりするというような内容だった。

 紗には映画よりも、隣で同じ毛布に入っている一二三のほうが気になっていた。暗闇の中で、テレビの明かりに照らされる一二三の顔は、いつもよりずっと綺麗に見えた。

 雨はまだ、静かに振り続いている。

 二時間ほどの映画の半分を見たあたりで、一時停止を押し、明かりをつけた。

「書く?」

「うん」

 とそれだけやり取りをして、ふたりでルーズリーフを手に取る。

 ふたりで短歌を作り、お互いに出来上がったことを確認する。

 先に紗が詠んだものが披露された。


『体重が85キロの人が言うユーレイ怖いにぽえぽえしてる』


 主人公の男性がユーレイが怖いと話しているシーンを詠んだものだ。

「ぽえぽえは、ちょっとわかる。でも私ならむにゅむにゅかな」

「むにゅむにゅかぁ。それならぽやぽやのほうが近いかなぁ」

「くにゅくにゅとかは?」

 とそんな評価が行われた。オノマトペの話になるとよくわからないやり取りになるが、紗はこのやり取りが、ふたりだけに伝わる暗号のようで好きだった。

 次に一二三の詠歌。


『彼の食べるハンバーガーの美味しさを知ることのない幸福もある』


 主人公の男性が必死に集めたお金でハンバーガーを食べるシーンを詠んだ歌だろう。

「確かにね。あのハンバーガーの味はわからないけど、でもそれは幸福だよね」

「うーんそうなんだけど、でも短歌としては『幸福はない』みたいに、言いきっちゃたほうが面白かったかも」

 などなど、一通りの評価を行った。

 紗が時計を確認すると12時30分を回ったところ。

「もうお昼?」という一二三のセリフにどきりとする。

「サンドイッチ、もらってもいい?」と一二三に訊かれ、小声で「うん」と答えた。

「続きみながら食べよっか」と紗は提案した。部屋が暗くなれば見た目はわからないし、映画を見ながらなら味もそんなに気にならないんじゃないかと考えていた。

 だが一二三はそんな考えを見透かしていたのか「いや、せっかく作ってもらったから、ちゃんと食べるよ」と言い、紅茶を淹れてくるからと席を立った。

 一二三は優しい。けどやっぱり、せめて暗闇で食べてほしいと紗は思っていた。




 画面ではエンドロールが流れはじめ、一二三は明かりをつけた。

「どう?」と一二三が紗に訊くと「面白かったね」と返ってきた。

「じゃあ詠もっか」と紗が笑顔で言う。

 ふたりで映画を見るのは初めてだったが、お互いに感想はあまり言わないタイプかもしれないと一二三は思った。

 短歌を考えながら、一二三が紗を見る。こちらに気付いて顔をあげ、紗はにっこりと笑った。


『ウィンドウに映っている彼が映っている画面にふたりが映っている』


 一二三の詠歌。主人公がウィンドウに自分を映すシーンをふたりで見ているところを詠んだもので、なんとなく面白いと感じたので印象に残っていた。

「映画の中にふたりで入った、みたいな歌かな?」と紗に問われ、「なるほど、それはいいね」と逆に納得してしまった。


『キスをするシーンのあなたを盗み見る。まつ毛、鼻、頬、そして唇』


 紗の詠歌。目から順番に唇までを見て、どこにキスをしようか迷っている、そんな歌だと一二三は読んだ。

 一二三が「もしかして、見てたの?」と紗に問うと、「うん」とどこか恥ずかしそうに肯定した。

 そんな様子に、一二三もなぜか恥ずかしくなってしまった。




「ふみちゃんの部屋が見たいです」

 映画を見終わったあと、紗が唐突にそう言った。

 一二三が特に何もないけど、と断ろうとしたら、何もないなら見せてと紗に押し切られてしまった。

 これ以上嫌がると、いつもの困り顔でお願いされそうで、一二三は早々に折れることにした。

 自室は朝、掃除してある。抜かりはない。

 ふたりで二階に移動し、一二三の部屋へ。かちゃりとドアを開け一二三が入り、紗が続く。

 一二三にとっては見慣れたいつもの部屋で、いつもよりきれいに片付いている。

 勉強机、ベッド、本棚、タンス、小さな4つ脚のテーブル、そのくらいの部屋。

 とくに面白いものもないだろうと思い、ちらと一二三は紗を見る。

 紗は左手を頬にあて、うっとりとしたような表情をしている。

「…何もないでしょ?」と一二三が問うと、「ふみちゃんみたいな部屋だね」と紗は返答した。一二三は当然、私みたいって何だ、と思っていたが、口には出さなかった。

 一二三はベッドに座り紗の様子を観察した。紗は本棚を見ているが、特に面白い本は入っていないはずだ。漫画の単行本や、小説の文庫、雑誌などが収められている。

 タンス。「開けていい?」と問われたので、「やめて」と答える。

 勉強机。同じように「開けていい?」と問われたので、同じように「やめて」と答える。

 一通り見たのか、紗もベッドに腰かけた。

 家族以外を部屋に入れるのは初めてで、並んでベッドに座るなんて家族でもしたことがないかもしれない。

 一二三が紗に目を向けると、紗はテーブルの上を見ていた。

 テーブルの上には、一二三が紗からもらったルーズリーフが何枚か重なっている。

「私があげたやつ?」

「うん」

 一二三は一番上の一枚を手に取る。

 そこには初めて紗から貰った一首が書いてあった。

「寝る前とか、結構読み返すから」テーブルの上に置いてある、と一二三は語る。

「紗の短歌、好きだから」

 紗の思いが乗った短歌を読み返すのが、一二三は好きだった。

 しばし、沈黙。

「紗は」

 どう?と言おうとしたときに、手首をつかまれた。

 紗の顔が近づき、お互いの唇がわずかに触れるくらいまで近づいた時、その行為の意味を、一二三は一瞬、理解できなかった。




 そのセリフを聞いたとき、紗の中である思いが生まれた。

 もしかして、一二三も同じ感情なのではないか。

 苦しんでいるのは、自分だけじゃないんじゃないか。

 家に招いてくれた時のことも、同じ傘に入った時のことも、もしかして一二三も同じように感じてくれていたんじゃないだろうか。

 一二三からもらったルーズリーフを、紗も何度も読み返している。

 同じ気持ち、かもしれない。

 そう考えると止められなくなってしまった。

 必死に我慢ししてきたことを、もしかして我慢しなくてもよいかもしれないと思った瞬間、止められなかった。

 キスを、した。

「…ごめん」

 なんとか声を絞り出す。

 顔はあげられない。

「…私、ふみちゃんが好き」

 何とか、それだけ伝える。

 本当はもっともっと伝えたいことがあるはずなのに、うまく言語化できなかった。

 何も言えないまま、時間だけが流れていく。

 雨音だけが、ただよう空間。

 沈黙に耐えられず、顔をあげる紗。

 一二三は俯き、綺麗な髪がだらんと垂れていた。

 わずか、震えているようにも見える。

 一二三はすすり泣くような声で

「…ごめんね」

 そう言った。




 翌日、月曜日。一二三が何を送っても既読はつかなかった。

 紗は部室にも、顔を見せなかった。

 紗が、消えた。

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