触れる、五時十二分
ルーズリーフには丁寧な文字で短歌が詠まれていた。同じ部活動の『恋人』
『てろりんと誤字と脱字のラブレターまどろむふたりは土曜日の朝』
紗は、はぁーと熱っぽい吐息を漏らした。
(あー、嬉しい)
二週間ほど前、創立からずっと紗一人だった短歌部に、ようやく二人目の部員が加入した。待望だった新入部員は、紗にとって誰よりも待ち望んでいた人だった。
ふたりの部活は恋人ごっこから始まり、短歌を恋文として送り合うことから始まった。短歌部の基本的な活動はふたりきりの歌会だが、相聞歌を送り合うことも活動のひとつとして続けていた。
(「てろりん」、かわいいな)
土曜日の朝に恋人から届いた間違いだらけのメールに、相手もまだ寝ぼけてるのだろうなぁと感じた、とそんな歌なのだと紗は解釈していた。「てろりん」というのは着信音であろうか。距離が離れていても同じようにまどろんでいるふたりの恋人が想像された。
次は紗が歌を返す番であり、どんな歌にしようかと寝ころびながらルーズリーフを眺めている。
貰った歌に、どんな歌を返そうか考えているとき、紗は本当に幸せだった。
(甘々のにしようかなぁ、…でも、うーんまだ早いかなぁ)
誰かのために短歌を詠むこと、相手に読んでもらうこと、そして相手が自分のために詠んでくれること。それが、紗が想像していたよりも、ずっと幸福なことだった。
自分のために考えて悩んでくれる相手がいること、その相手が喜んでくれるよう同じように悩んでいる自分。そんな関係が、紗にはどうしようもなく愛おしく、そこに自分がいることが、幸福であった。
そして、自分が幸福であるならば、相手にも幸福になってほしいと紗は考えていた。
(一二三ちゃんは、短歌好きなのかなぁ)
ふたりになった短歌部が、活動を始めて二週間。活動を引っ張るのはいつも紗のほうだった。
短歌を持ち寄り歌会を行うのが主な活動で、歌会が終わり日誌を書きあげるたあとは、日ごとに別の活動を行っていた。
ある日は歌集を読み解釈と批評を行ったり、ある日はふたりで入門書を読んだり、ある日は雑談したり、など。しかし、やることを提案するのは、いつも紗のほうであった。
紗が何かやりたいと提案すれば、一二三は概ね嫌そうに提案を飲んでくれる。相聞歌のやり取りも、そうやって始まった。しかし、一二三が何かやりたいといったことはなかったし、一二三が自分から進んで短歌を詠んでくれることはなかった。
(…好きじゃないのかなぁ)
自分が幸福であればあるほど、相手に負担を強いていないか考えてしまう。自分のわがままに、優しい一二三が無理をして付き合ってくれているんじゃないかと、思ってしまう。
なんとなく一二三に連絡が取りたくなり、横になったまま、枕もとのスマートフォンに手を伸ばす。
『「てろりん」ってかわいいね』
しばらくたっても、既読はつかなかった。
(来週の部活は、何しようかなぁ…)
瞼が重くなってきたころ『おう』とだけ返信があった。
週明けの月曜日、三浜一二三は小さくあくびをした。
放課後、短歌部の部室。いつもの歌会を終え、日誌をまとめる紗を横目に、ひとり歌会を振り返っていた。
(傘、難しかった…)
短歌部の活動は週三日の月水金。月曜日は土日を挟むので、歌会には自由詠・題詠を一首ずつ、合計二首を持ち寄る。今回のお題『傘』に、一二三はだいぶ苦戦を強いられた。
一二三は伸びをして、次はもっといいものを書こうと誓う。
次は二日後の水曜日。水曜は自由詠一首、金曜は題詠一首をそれぞれ持ち寄ることになっている。
ぱたん、と紗が日誌を閉じた。どうやら今日の日誌を書き終えたらしい。
さて、と紗は前置きした。大概はこの後、何かしらの活動をする。歌集を読むのがメインだが、その日の紗の気分で決まるのだろうと一二三は思っていた。
「今日はね、恋人っぽいことをしようと思うの」
一二三は頭に?をつけ、首をひねってしまう。
そんな様子に、紗はフォローを入れる。
「いや、あのね。いま、返歌をふたりで書いているでしょ?それで、恋人っぽいことをすれば、もう少し短歌が良くなるかなーって…、どう?」
「あー…」
先週返した相聞歌の出来がいまいちだったかな、と一二三は思った。紗は自分に甘いから、ストレートに言葉にしなかったのだろう、とも。
「なるほど」と一人で納得して返事をした。
承諾の意思を見せると、紗は嬉しそうに「これ」と言ってスマートフォンの画面を見せた。
『恋人ができたらぜひともやりたいこと4選』と題がついた、ピンク色の記事ページが開かれていた。『1、呼び方を決める』という文言が、画面下部に見えていた。
「ここに書いてあることを一つずつやって、交互に即興で短歌を詠もうと思うんだけど、その、どう、かな?」
話の半分くらいから一二三が嫌そうな顔をしだすと、紗はいつもの困ったような顔をする。一二三はその顔に逆らえないことがわかっているので、おとなしく「ハイ」とだけ返事をすると、紗は微笑んだ。
「よかった、じゃあまずは「呼び方を決める」だね。『二人だけの特別な呼び方を決めることで、親近感が大いに沸くことでしょう』だって」
「…へー」
一二三は辟易としていたが、表には出さなかった。
「一二三ちゃんは、私のことなんて呼んでたっけ?」
「高橋さん、かな」
「…うん」
知ってたけどあらためて言われると結構へこむね、とでも言いたげな顔を紗はする。
「…なんて呼ばれたいとか、あるの?」
紗の表情に、一二三はつい甘やかす言葉をかけてしまう。紗はぱっと表情を変え、嬉しそうな顔をした。
「えーっと、そーだなぁ、やっぱり名前がいいよね」と嬉しそうな表情を前面に出している。
紗さん、とかだろうか。なんだか姑みたいだなと一二三は思った。とはいえ、ちゃん付けで呼ぶのは気恥ずかしく思える。
「…たえ、でいい?」
一二三がそう提案すると、紗は「んー」と少し考え「いっか」といって笑った。
「じゃあさ、ちょっと呼んでみてくれる?」
「…紗」
一二三がそう呼ぶと、なんだか照れるねぇ、と紗は笑った。
「照れられると、こっちも恥ずかしんだけど」と一二三が言うと、紗は俯きながら声を出さずに笑った。
楽しそうに笑う紗を、一二三はしばらく苦い顔で観察する。
紗は一通り笑うと、顔をあげた。
「じゃあ私は、ふみちゃんでいい?」
そういって、紗は一二三の顔を覗き込んだ。一二三はあまり変わらないような、とも思ったが紗がそうしたいならそれでよかった。
お好きにどうぞ、と言うと紗は満足げにうなづく。
「じゃあ今度からはそれで…、いい、ふみちゃん?」
「了解、紗」
一二三が言うと、紗はにっこりと笑った。
「じゃあ、短歌詠もっか」と紗が誘導する。
即興でうまく詠めるのだろうか、一二三は考えていた。少し前に読んだ入門書には『短歌は同じことでも何度も詠み替えたり、違う角度から詠んだり、句の順番を入れ替えたりしながら、推敲するのが重要だ』と書いてあった。なので、短歌を作るのは意外と時間がかかる作業だ。
「ふみちゃん、詠んでみる?」と紗に問われ、一二三は迷いながらもうん、と小さくうなづいた。
一二三はスマートフォン手に取るとテキストエディタツールを開いた。2・3分ほど悩んだ結果を、ルーズリーフに丁寧に写していく。
『呼び方は何でもいいよ二人称だけで伝わる空間だから』
ルーズリーフを渡すと、紗は笑いながら「熟年夫婦みたいだね」と言った。
「次は、『手をつなぐ』だね」
「あ、それだけ?」
一二三は内心で安堵した。一二三はあのピンク色のサイトがどんな4選をしたのか知らなかったのでもやもやしていたが、思ったよりハードルは高くなさそうだと感じた。手をつなぐなんて、赤ん坊でもできる。
「『特に恋人つなぎはふたりを親密にしてくれるでしょう』だって」
「ふーん」
恋人つなぎは指を絡ませる手のつなぎ方だが、しょせん手をつなぐの延長だろうと一二三は高をくくっていた。
「『恋人つなぎには愛を感じるという意見が多く、恋人だけの特権という感じがするのではないでしょうか』」
(…そういう人も世の中にはいるんだな)
「『恋人つなぎをするのは、人間にとって愛の証です、と語る専門家もいます』」
そうなの?と内心で自身の価値観に疑問を覚え始める一二三。
「『相手が特別なのだとお互いに認識できて、安心するといった意見がありました』」
…。
「『また恋人つなぎをしたら、次はいよいよキスをするのかなと思ってドキドキする、という意見も寄せられました』」
はー、と紗は吐息を漏らした。少しだけ、顔が赤いように見える。
わずか十数秒で、ハードルが大きく上がってしまったことを一二三は意識せざるを得なかった。世の中には赤ん坊のほうがたやすく行えることもあるのだと、あらためて認識していた。
しばし、沈黙が流れる。
「あの…」
おずおず、といった様子で一二三の顔色を確認する紗。一二三は「それだけ?」と言ってしまった手前、いまさらやめようとは言えなかった。
一二三にできるできることは、平然とした態度を装って「じゃあつなごっか」といって、右手をさし出すだけだった。
そんな態度に、紗は顔を赤くして消え入りそうな小さな声で「うん」と言った。
紗は、うつむきながら手を伸ばした。
慎重に、こわごわ、ゆっくりと伸ばされる紗の綺麗な手。指が長く、細い。爪もきれいに手入れされている。
指先が触れた瞬間、紗の身体は小さく跳ね上がった。つられて、一二三も飛び退きそうになるが、何とかこらえる。
人差し指をつままれ、そこからゆっくりと、浸食されるように手がつながれていく。心臓は高鳴っているが、表には出ないようにするので必死だった。
恋人つなぎが完了するまで、わずか数秒。
完了してからも、心臓は高鳴ったまま。
紗を見ると、うつむいていた顔をあげ、照れながら笑っていて。
一二三は相変わらずのなんとか余裕ぶった態度を通す。この態度を崩さなかった自分をほめてあげたいと思った。
しばらくつないだまま無言だったが「…短歌、書くね」といって、紗は手をはなした。
小さな声で「ドキドキした…」といった声が、一二三の耳に届いた。
『平然としているあなた私には忘れられない五時十二分』
受け取ったルーズリーフには、そんな一首が詠まれていた。
「次は、えーっと『同じ趣味を探す』」
紗は、ふーと息をついた。自身で提案しておきながら、驚くほど緊張してしまった。
ごっこ遊びで手をつなぐだけでこんなにも緊張するなんて、どうかしているのではないかと思えるほどだった。
(実際、ふみちゃんはなんともなさそうだし)
紗が一二三の様子をうかがうと、一二三は口元に手を当てて難しい顔をしていた。「同じ趣味…?」と小さくつぶやいている。
そんな一二三をみていると、考えてしまうことがあった。
紗との時間を真剣に考えてくれる一二三が、とても嬉しい。しかし、やはり先ほどのことをもう忘れてしまったかのようで、寂しい気持ちが強かった。
先ほど渡した短歌は、紗の本音を詠んだものだ。
同じ気持ちでいられないことの寂しさを詠んだその歌は、きっと一二三は紗の本音だとは思っていないのだろう。
よくある恋愛の一場面を詠んだのだと、一二三は思っているはずだ。
(やっぱり、変だ)
この一二三とのずれは、意識して考えてはいけないものように思えた。このずれの意味はきっと大切なもので、もしかしたら一二三と一緒に居られなくなるほど大きな意識の差異かもしれない。
だから、考えないようにしようと思った。
「…紗?」
ふいに一二三に声をかけられ、慌てて笑顔を作る。
「どうしたの」
「いや、『同じ趣味』」
「…あー」
一瞬、何の話かわからなかった。自分から提案しておいて、心ここにあらずな自分が恥ずかしかった。
「同じ趣味は短歌ってことでよくない?」
それは、紗には意外な言葉だった。
「あの…ふみちゃん、短歌好き?」
呆けた表情をしてしまったと思いながら、少し前から頭の中に残っていた疑問が口をついた。
一二三は少し考えるようなそぶりを見せる。そして「ちょっとわかってきたから、楽しくなってきたかな」といった。
その言葉に、紗を安堵させるものだった。
自分の幸福のために、一二三に無理を強いてきたのではという疑問が、ずっと残っていた。
だからその言葉に、紗は救われたような気持になった。
「そっか、良かった」
そんな言葉が、笑顔とともに漏れた。
「…でも、やっぱり紗が居るからだと思う」
その言葉は、さっきよりも意外だった。
意外すぎて言葉を失ってしまった。
「紗と一緒に何かをするの、たぶん好きなんだと思う」
そう言って、一二三はルーズリーフを手に取った。
一二三の表情は、特にいつもと変わっていなかった。
紗は、一二三の言葉を咀嚼できずにいた。いま正面からもらった言葉を受け取ると、たぶん泣いてしまう。「ありがとう」とだけ、伝えた。
嬉しかった。ただ嬉しかった。
なぜこんなに嬉しいのかは、考えないようにした。
はい、と言って一二三から手渡されたルーズリーフに書かれた一首を読む。
『大丈夫、私もあなたと同じです。五時十二分のあのどきどきも』
(ああそうか)
瞬間、考えないようにしていた想いのすべてが瓦解した。
同じ気持ちでいられないことの寂しさも、一緒が好きと言われたときの嬉しい気持ちも、すべての根源を理解できた。
(恋、なのか)
疑似であったはずの思いが、本物に変化していたこと。
(私は、この人が、好きなんだ)
それは自身の幸福を壊しかねないものだと、静かに理解した。
「じゃあ次で最後だね」
一二三が言うと、紗は「うん」とうなづいた。
「最後は『約束ごとを作る』だね」
紗の様子はいたって普通だった。
その様子を見て、一二三は安堵した。
(恥ずかしことを、言ってしまった)
普段の一二三なら絶対に言わないが、どこか寂しそうな紗が気になっていた。
だから素直な気持ちを伝えた。
それが良かったのか、紗の様子はいたって普通。少なくと一二三にはそう見えた。
「『相手を心配させないような約束事を作ることが、恋愛関係を長続きさせるコツです』、だって」
ふぅん、と一二三が小さく相槌を打つ。紗の様子に変わったところはないようだ。
「ふみちゃんは、なにかある?」
そういって顔を覗き込む紗。これもいつも通り。
「思いつかない」と返す。これもいつも通りだろう。
「記事には『異性と二人で食事しない』とか、『夜は必ず連絡する』とかあるけど…私たちだったらなんだろう」
うーんと考え込む紗。
一二三は、あまりにもいつも通り過ぎて拍子抜けしてしまう。
(いつも通り、だよね)
一二三はちらと時計を見た。そろそろ、いつもの部活の終わる時間だ。『約束』が何も思いつかないようなら、また日を改めってもよいだろう、と一二三は考え「もういいんじゃない」と提案した。
紗は「そっか」とだけ言って笑った。そしてこのまま解散になるだろうと一二三は思っていた。
しかし紗は言った。
「じゃあ一つだけ、約束してくれる?」
紗は困ったように笑っていた。
「もしも、私のことが嫌いになったり、気持ち悪いと思ったら、遠慮なく言ってくれる?」
「…え」
「あなたのことが嫌いですって、言ってくれる?」
一二三には、紗がなぜそんなことを言ったのかわからず、ただただ紗の表情に、「わかった」としか言えなかった。
『もし明日私が海に行ったなら私のことは消してください』
ルーズリーフを渡した後も、紗は困ったように笑っていた。
その表情に、一二三は強く胸を締め付けられていた。
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