第十九夜
彼はいた。
ブリュードックのリストラティブビバレッジIPAを嗜みながら、曲はThe Isley Brothers。
ひんやりと空気が流れ、虫が喚く。
今夜も男は、風流ですねえなどと言いながら、この場所で飲んでいやがる。
これで何度目かのリスト整理を命じられ、またも肩を痛めながら業務をこなした。
先般の紐と切手の正体は分からぬまま。経験したことのない愉悦に酔いはしたが、後にはあの虚脱感が控えているのだし、どうせ好ましくない物品だろうから、買い足してまで再度というのも恐ろしい。本当になんだったのか。紐の燃え残りはまだあるが、もう使うこともないだろう。
男は、黒後家蜘蛛か、赤い部屋か。雑貨屋のドレッドと、飲んだくれの髭男と、どのように繋がっているのだろう。
何かある。共通項が。
そうか。目の前のこのリストで、あの番号を検索してみるのはどうか。弊社を利用したことがあるのなら、もしかしたら。しかし、メモは消去したし、通話履歴からもたち消えていた。
気の早い松虫が、ちんちろ、鳴く。
曲はJo Staffordに切り替わる。
男は相も変わらず。
返却してしまった例の布だが、おかしなところで目に入った。
それは同僚の机上。
始めは自身のものかと思ったが、違う、僕のは家にあるし、何より新品だし、同僚の机のこれには、見慣れた筆致の電話番号がある。
間違いない。紛れもなく、僕が拾い、あの不審者へ手渡した、あのボロ自体だ。
何故ここに。
「次は独歩のドゥンケルを」
男は言う。
本番前にランスルーを行う秋の虫たちの和声は、今の僕の心気では風情でも何でもない。
あの、先日のあの布は。
聞こうとしたが、無理だ。第一、どう切り出せば良い。
思わず同僚から奪ってしまった。
彼は突然のことに目を丸くしながら、「どうした? それ、大事なものだから返して」と発する。
「これ、どこで拾ったんですか」
「拾った? 俺のだけど」
「そんなはずは」
「どういうことだよ。本当に大切なものだから、返してくれ。怒るぞ」
「すみません」
同僚も嘘は言っていないと思う。釈然とはしなかったが、そもそも僕のではないので、素直に返却する。
まさか同一の、使用感まで再現したものが複数あるということか。いや、そんな馬鹿な。
「次の曲はDJ Camです」
男の穏やかな口調が、八つ当たりに近いが、腹立たしい。
もう一度目にしてしまうと、あれだけ思い悩んでいたものだからか、数列は完璧に蘇った。
PCに打ち込む。ヒットはしない。本当に何なのだ、これは。
ビールの苦味が、今夜は美味しくなかった。
何と言うか不快で、口中に残る後味が、払拭されない疑問点に呼応しているようで、面白くない。
男はただ前を見ている。僕も意識して倣う。
期せずして、男が口を開く。
「拾っていただいたあの布ですが、ようやく正しい方にお返しすることができました。卑しい私の務めが、ようやく一つ終わったのです。あなたのおかげですよ。ありがとうございます」
あの同僚が、あの、パイプを拭くとかいう布の、正しい持ち主?
男と同僚とに関わりがあるということか?
何故か込み上げて来た嘔吐感に背中を丸めた。
異音と共に胃液を流れ落とし、感覚だけはどこか遠く、上面発酵だからか吐瀉物が黒いことを、他人事みたく観察した。
鈴虫の高音と、男の慌てる気配とが合わさって、いつものこの場所よりも何だか、現実感というか、手品の種が垣間見えた時のように、ここも地続きの一箇所なのだと、夢幻と俗世との均衡が凡庸に寄った。
何らの鳥も小動物も無く、男に背中を叩かれながら、ああ、僕はどこまで行っても疎外される側の人間なのかと、勝手に打ち震えていた。
悲しい自分。
今夜はもう無理だ。
今夜はもうここまで。
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