第十七夜
御山洗いに身を清めるようにして、彼はいた。
滅多に往来のない場所にして浄も不浄も無いが、高架下からの眼前がたくさんの斜線に埋め尽くされるこの眺望は、僕たち二人を隔絶するようにも見えたし、山の神の沐浴にも思えた。
男の座す姿が破窓月と重なる。酔鯨が円く波打ち、手元の月と、家具の音楽とが、彼が主役と傅いている。
ホワイトノイズの下支えがあって、僕がハルモニー。
ああ、この時が悠久であればどんなにか良かった。
紐と切手のことを正直に話した。どうしてもあの布が気にかかり雑貨屋へ行き、そこでこれらを購入したことを。
男もやはり、知りません、分かりませんと連呼した。
辛抱強く頭を下げ続けると、男はやがて根負けしたようで、物の正体は明かせませんが楽しみ方だけならばと、おっしゃってくださった。
一杯目はペルノアブサン。
例の紐に火を灯して、それで角砂糖を炙り溶かす。
少し臭みが増したように感じた。
アルコールがダイレクトに脳を揺さぶる。
この紐の何がそうさせるのか、問うても答えてはくれない。そのうち僕も口をつぐんだ。男に委ねようと思った。
うちから湧き上がる高揚感が、男に全幅の信頼を置くよう働きかけてきた。抗えない。負けた。全てを受け止めよう。
酒が空になると、次は切手。
男は舌を突き出して指し示した。
疑念を抱く余地も無かった。
僕はそれを舌の上に乗せた。
篠突く雨が壁を作り、稀に車が通りかかり、グラフィティアートを浮かび上がらせる。
黄泉津大神の長風呂の雫が、僕の体内にも降りかかる。
五臓六腑が浄化され、伯伎となり、そうか、僕は依り代となったのだろう。
これは実質セックスじゃないか。
妻のことを指して山の神と呼ぶことがある。その意味が今、分かったような気がする。
いや、性交なんて生易しいものじゃない。
僕自身が一個の性感帯となって、もはや空気の流れでもち絶頂を迎えてしまいそう。ジムノペディがゆったりと寄り添い、まるで女体であるかのごとく、柔らかな乳房を背中に沿わす。うなじにそっと口づけされ、それは湖畔にひとつ起こった波紋のように、優しく、快感の波を伝播させる。
雨の白さに紛れるようにして、僕たちの町を半透明の何かが闊歩する。家屋なんかよりも優に高いそれは、だいだらぼっちか。ああ、この大入道は住人たちを覗き込み、そうだ、各々の安寧を願っているのだ。
巨大な隣人が居てくれるというなら、僕たちの営みは全き幸福だ。ありがとう。や、謝辞すら恐れ多い。エクスタシーの中にあって、自身の小ささを知る。
ああ、あなた様の御々足が地を踏みしめるたび、僕は陶酔境の海を漂う微細な一個と成り果てる。
男は日本酒を注ぎ寄越す。
手渡されるまま、体へ流す。
鯨海酔侯。
一滴々々が細胞を満たし、遥か神代の昔からの営為が、現代の僕を僕個人たらしめた。
酒器の円はやがて天に昇り、まつろう家具はより濃く世界を形づくった。
ああ、この時が悠久であったなら。
幸福は人の形をしている。あるいは水だ。気づかず少しずつ、空気中から魂に取り込まれ、僕たちに真に必要だったのは、内に秘めたそれを、認識し、掘り起こし、精錬してやることだったのだ。
それを真理と呼び、人間存在の究極の欲求として、追い求めねばならなかったのだ。
大入道は手を振った。僕も振り返した。
僕たちを見守る存在が在るというだけで、無償の愛が約束された世界だ。
ため息と、すすり泣く様とが世を終わらせないよう、誓わなければならない。
木の棒も石ころも、過ぎた道具だ。
全てが調和して、酔うた鯨が波間に消える。(僕はハルモニー)
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